2024年7月5日金曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第四章 神の家

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第四章 神の家

エゼキエル
40:2 すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。
40:3 主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。
40:4 その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」

43:10 人の子よ。イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるために、彼らに神殿を示し、彼らにその模型を測らせよ。
43:11 もし彼らが、自分たちの行なったあらゆることを恥じるなら、あなたは彼らに神殿の構造とその模型、その出口と入口、すなわち、そのすべての構造、すべての定め、すべての構造、すべての律法を示し、彼らの目の前でそれを書きしるせ。彼らが、そのすべての構造と定めとを守って、これを造るためである。

覚えておられるでしょう。かつては神が民のあいだにご自身の考えを伝える象徴的な手段として用いられていたものが、すべて破壊され、失われ、そして、民がそのようなもの(神殿やエルサレムなど)から、霊的にも、現実的にも遠く離れてしまった時代、主はしもべであるエゼキエルを取り上げ、神のまぼろしの中で、彼をその地に連れ戻して高い山の上に立たせ、そして、まぼろしの中で、あの都と立派で新しく霊的で天的な家を彼に見せました。与えられたまぼろしと啓示は、完璧なだけではなく、非常に包括的で、非常に詳細なものであり、この預言者は、すべての地点、すべての角度へと連れて行かれ、また、この霊的な神殿の全ての場所を一歩ずつ、中から外から、上へ上へと、またその周囲を歩きながら、測りざおを持った御使いが、あらゆる場所で、そこに置かれたすべてのものの大きさと寸法を測ってみせ、この霊的な家の完璧な全体像を定義して見せました。その後で、あらゆる形式と儀式、祭司職、いけにえ、その他すべてを見せられた後、この預言者はこの家を、イスラエルの家に示して、神の考えの詳細をすべて、民に伝えるように命じられました。このことに関連して、前回のめい想で指摘しましたが、どんなことでも神の考えから離れ、神の本来の啓示が失われることがあるとき、神から来ている天性、霊性、神の力が民のあいだで機能しなくなるとき、そして、神の栄光が去るときはいつも、そのような状況に対する主の対応は、御子をあらためて目の前に現わすことです。そして、それに続いて私たちが見てきたように、初代教会の歴史の中でそのような状態に陥ったとき、全てがはじめの栄光から変わってしまったときには、ヨハネが聖霊によって用いられ、福音書、手紙、そして、黙示録を書くことを通して、主イエス様が完全で天的で、かつ、霊的なかたちで新たに目の前に現されました。このことで思い出されるのは、ヨハネの福音書は実質的に新約聖書で書かれた最後の書物であり、霊的な価値と重要性において、新約聖書に書かれた他のすべての事実の後に位置するということです。つまり、物事が迷走してしまったときには、神が再び介入されて、天性と霊性という観点から、御子を新しく啓示されるという事実を見ることができるのです。

時間的な制約があるので、そのことについては、あと少しだけ、お話しを続けたいと思います。私たちの前に、ヨハネの福音書の第一章が開かれています。そして、ここにあるのは、神が民に対するご自身の考えの完成のために戻って来られるということであり、その意味は次のようなものです。キリストは、私たちに対する神の考えの完成であり、そして、聖霊(エゼキエル書では霊と呼ばれています)は、キリストについて詳しく伝え、私たちをキリストに導くという明確な目標と目的を持って来られたのであり、聖霊によって私たちは、キリストの中に包括的に、かつ、詳細に表された神の考えを知ることができ、その中へと導かれます。

さて、ヨハネ伝第一章の中に、この新鮮で壮大で永遠の表現が見られます。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

これは神の考えの背後にいつまでも存在する真実です。少し先へ進みましょう。

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』

これは、永遠から出た神の考えが、完全、かつ、包括的なかたちで、私たちのあいだに植え付けられたということです。神の考えはすべて、神の御子に集約されており、御子ご自身が壮大で永遠の考えそのものであり、人間たちのあいだに住まわれるキリストというひとりのお方を中心としています。そして、この最初の章の終わりまで読み進んで(この二つの箇所のあいだに書かれていること、全部にはふれません)、その意味の大きさを理解できれば、非常に美しいものを気づかないうちに受け取ることになります。それはナタナエルに向けられた言葉です。これがナタナエルに向けられた言葉であったことは非常に興味深いことです。もし、これがペテロ、ヤコブ、または、ヨハネに語った言葉であったら、私たちは、それがある意味、内輪に向けたものだった思ってしまうかもしれません。しかし、これが、キリストとはそれほど近しい関わりではなかったナタナエルへの言葉であったことからと、彼に言われた言葉は、すべての人に向けられていると考えていいでしょう。

『天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』

ベテル――神の家

さて、その意味についてですが、私たちはそれらの言葉によって直観的に旧約聖書へ、創世記へと引き戻され、ヤコブの顔がすぐに思い浮かび、ヤコブが二つの地点のあいだを旅していたことを思い出します。それは、二つの中間にあたる場所、天と地のあいだにあり、地だけにある場所ではなく、天だけにある場所でもなく、二つのあいだにある場所でした。その夜、その中間地点にあるどこか開けた場所でヤコブは横になって眠りました。すると、見よ、一つのはしごが地に向けて立てられていて、その頂は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしています。そして、はしごの上には主が立っておられ、その主がヤコブに語りかけました。そこで、ヤコブは眠りから覚めて言いました、まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。こここそ神の家にほかならない!そして、彼は、その場所の名を、『ベテル』、神の家と呼びました。

主イエス様は、この出来事をうまく取り入れて、ナタナエルに語った言葉の中で、これをご自身に当てはめ、事実上、または、暗に次のようなことを言われました。わたしはベテル、神の家です。わたしは、地上だけの者ではなく、ここにとどまっているだけです。今のわたしの立場では、完全には天の者ではないが、天とつながっています。わたしはここ、天と地のあいだにいて、そこは、神と人が出会う場所、神の家であり、その中で神が語る者、そこに神が現れる者であって――神はその家で語り、神はその家に現れます――わたしは、神の家です。神がこの世界に語りかけるとき、それは、わたしの中、わたし中だけで行われます。『わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』主がそう言われたとは記録されていませんが、こうも言われたかも知れません、『わたしを通してでなければ、父は誰のところにも来ることはありません。』

さて、キリストに代表される神の家こそが、洗礼における実践的な証しへにいたる私たちの考え方です。すなわち、イエス様――神の家。私たちは、もちろん、聖書に出てくる他の家はどれも、主を視覚的に表現したものに過ぎないことを知っています。荒野に置かれた幕屋であれ、ソロモンの神殿であれ、その後の時代に、同じ役割りを果たすように設計されて建てられたどの神殿であれ、新約聖書でより霊的な意味で教会と呼ばれている建物であれ、それはキリスト以外のなにかではなく、キリストそのものです。神の考えの中では、それはただキリストであり、キリスト以外のものは何もなく、キリストに付け加えるべきものもなく、キリストとは、教会、または、神の家そのものです。

ここまでのめい想の中で、神が強調しようとしていると私たちが感じるのは、次のような点です。すなわち、神はすべてのことを、どこまでも最終的に、決定的、かつ、排他的に、御子と結びつけておられること、そして、キリストのうちに、聖霊の啓示によって示されるものでなければ、神から得るものは何もないということです。キリストが聖霊によって私たちの心の中にあらわされるのがその例です。そうすることで、主イエス様は、神の家として、この地上の他の家々の中で、型どおりに示されるすべての役割りを果たします。

まずは、至聖所、もっとも神聖な場所から始めましょう。この方の中に至聖所があり、そこに神は確かに、個人的に、そして、実際に住まわれ、そこを居場所とされます。神はキリストの中におられ、それと同じ意味では、他の誰の中にも住まうことはありません。御父が私たちの中に住むということは真実になります。しかし、愛する皆さん、そこには違いがあります。父が私たちの中に住むようになることによって、私たちが多くのキリストに変えられるわけではありません。私たちには、御子がそうであったのと同じ意味で、神ご自身が内住されるわけではありません。その違いは、これからすぐにお話しします。キリストに内住される神は唯一無二の存在であり、至聖所は主の中だけにあります。

主の中には神託、すなわち、声、権威をもって語る声、そして最終的な権威があります。神の声の最終的な権威はキリストにあり、キリストだけにあります。主が白く光り輝く姿に変わった山で、三人の弟子は、魂と体の両方の面で非常に崇高な立場にいました。それはすばらしい、すばらしい経験であり、途方もない霊的な出来事でした。しかし、非常に崇高で高められた霊的状態にあり、霊的な願望と霊的な表現に満ちているときでもなお、あなたにはもっとも重大な間違いを犯す危険があります。実際に、もっとも純粋な動機、もっとも崇高な意図を持っていたペテロはこう言いました、『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』そして彼がまだ話している間に――まるで神が介入して、彼に言い終える機会を与えず、「もうたくさんだ」と言われたかのように――彼がまだ話している間に、雲が彼らを包み、そして、天からの声が聞こえました、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』「あなたの今の立場で、自分の思いや考えを表明し始めてはならない。最終的な権威の言葉は主の中にある。あなたは、主に対して黙っていなさい。あなたの精神的な高揚感はここでは何の意味もない。もっとも高尚な感情であっても、あなたは自分の感情に影響されてはならない。」キリストの中に響く神の権威に満ちた声は、最終的な権威の言葉です。これは、古い時代の聖所にあったものと同じ、主の中にある神託です。だから私たちは、その幕屋や神殿のすべてを訪れ、そのすべてを一点ずつ調べることができ、そして、その全てを成就した姿として、その中に神がおられる神の家、そこで神が語りかける神の家として、主を見るようになります。

神の共同の家

さて、神の家とは、その完全な意味において、その共同体として、または、集団としての意味において、何なのでしょうか?それは、新約聖書に約二百回も登場するこのすばらしい言い回しを借りると、『キリストにあって』という言葉が意味するものすべてです。私たちが神の家にいるとしたら、私たちが神の家にいられるのはひとえに、キリストの中にいるからです。キリストにあるということは、神の家にいるということであり、キリスト イエスにはないということは、神の家の外にいることを意味します。主は、神の家です。私たちは、主の中へと導かれます。

しかし、キリストの中にいるということは、キリストではないものを完全に排除することを意味しています。前回のめい想で、私たちは一つのことをはっきりさせようと努めましたが、それは、私たちの最善の状態と比べてもなお、キリストはあらゆる面で、完全に私たちとは『異なる存在』であるという事実でした。キリストは人間とはまったく異なるお方であり、宗教的な意味で最善の人間と比べてもなお、頭でも、心でも異なっており、その成り立ちからして全ての面で異なっているので、全生涯をかけて聖霊の手ほどきを受けることによって、ようやく、私たちがどれだけキリストとかけ離れているか、そして、主がどれだけ私たちとは異なるお方であるかを理解できるほどです。しかし、神は、すべての始まりからその違いを絶対的に見抜いておられました。神にとっては、その違いを発見するのに一生はかかりません。神はそれをご存じであり、そのために、全ての始まりから、自分がいるべき絶対的な立場を定めてきました。神は、事実上、こう言われています、あなたとキリストの違いは、墓穴の幅と深さほどに、完全で決定的なものである!そこには、死だけが満ちています。そこを通り過ぎることはできません。死と墓は全ての終わりです。一面には、したがって、あなたという存在の完全な終わりがあり、その後にも何かが存在するためには、その前に死が介在する必要があり、何であれ死の後に続くものがあるとすれば、それは復活によってのみ可能となります。それは、あなた自身から抜け出し、死と復活を通して、主に入るということです。したがって、その死においては、あなたは、自分としては最善の状態であっても、そのあなたという存在の領域から抜けだして、主という領域に入ったものとみなされます。あなたと主のあいだには墓の深さがあり、その上を通り抜けることはできません。それは終わりです。神の家に入るということは、そのような意味です。

祭壇

ヨハネ第一章に戻ると、このように、真実がここでは代表的なかたちで説明されていることに、あなたも気付くでしょう。このことが、より完全、より明らかに説明されるのは、新約聖書の後半に入って、聖霊がその目的のために来られたときです――聖霊が来られたのは、キリストが語られた言葉を取り上げ、その完全な意味を理解させるためです――とは言え、ヨハネ第一章で、あなたがたが神の家に到達するずっと前から、この言葉は繰り返されています、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』神の家に行くために、その前に、祭壇の前を通らなければなりません。幕屋や神殿の構造は、そのようになっています。まずは先に、祭壇の前に来なければ、実際に聖所の中、神の家の中に入ることはできないようになっています。小羊、神の小羊、そして、祭壇が立ちはだかって、あなたが聖所に向かう道をさえぎり、そして、その小羊は、私たちの身代わりになって死ぬこと、私たちとして去って逝くことが語られています。私たちは、まずキリストの死において、キリストとひとつとされ、主の死が私たちの死とされます。それから、祭壇から出て至聖所に至る途上のいたるところで振りかけられる主の尊い血、その尊い血潮のおかげでいのちの道が開かれるのです。それは、主の血であって、私たちの血ではないし、私たちの救済されたいのちではなく、私たちの変えられたいのちではなく、私たちのいのちでは全くなく、主のいのちです。そこにあるのはキリスト、キリストだけであり、そのお方のおかげで初めて私たちは神の前に出ることができます。尊い血、小羊の血、祭壇に流れた血のゆえでなければ、大祭司ですら神の前に出ようとはしません。神の小羊を見よ!それは、神の家に向かう道の真向かいに立つものであり、裁きの死であり、私たちの姿なのです。さて、これらはヒントであり、私が言えることよりも、おそらくはずっと多くのことを、皆さんは多くのことを見抜いていることと思います。

しかし、このとき、特別に注目しているのは、キリストの中にいること、そして、その結果として、神の家の中にいるということです。神の家とはキリストであり、私たちが、神の家を、自分たちが属する共同体とか、集団的なものとして語るとしたら、それは私たちがキリストの中にいるからに他なりません。キリストの中にいる人たちは神の家におり、彼らはキリストと結び合わされることによって神の家となります。彼らは、神がおられる場所、神が語られる場所に入ってきたのであり、そこは、神が知られている場所、そして、神の権威がキリストの中に絶対的にある場所であり、そして、私たちの頭には、コロサイ人への手紙のパウロの言葉がすぐに浮かびます――『御子は教会のかしらです。』私たちは御体とそのかしらを見ます。キリストがかしらであるということは、全てを支配するために主に神の権威が与えられていることを意味します。

洗礼

さて、ここまでで二つのことを見てきました。神の家に向かう最初の段階、すなわち、祭壇、死があり、それが洗礼が示すものです。それは、私たち自身の中にあるすべてのものの終わりとして、私たちを代表するお方としてキリストの中に私たちの居場所を確保するということです。そこで、取り去られるのは私たちの罪だけではありません。私たち自身、キリストとは全く異なる私たちという存在です。神の立場からすれば、それは私たちの終焉です。このことを理解しましょう。これが神の立場です。キリストの死において、神は私たちの生まれたままのいのちに終止符を打たれました。キリストの復活と私たちと主との結びつきによって、神の立場からすれば、そこに存在するのはもはや私たちではなくなります。存在するのはキリストだけであり、神の子における聖霊の働きとは、最終的に確立されたものを、私たちのうちに現実とすることです。私たちは死ぬ必要はありません。私たちは死んでいるのです。私たちがしなければならないのは、自分たちの死を受け入れることです。そのことを理解できないと、私たちは常に自分自身を死に至らしめようともがくことになります。それが、私たちに対して神が定め、確定された、最終的な立場です。それが、自分自身を死んでいるとみなすという意味です。それは、神が私たちのために定めてくださった立場に就き、その中に踏み込み、そして、こう告げることです、私は神が、私自身のために定めてくださった立場を受け入れます。聖霊が、それ以外の部分を取り計らってくれますが、その結末を私は受け入れます。もし、あなたや私が、聖霊の私たちへの手助けに背を向けるような状態に陥るようになったら、私たちがしていることは、先へ進むことを拒否するというだけにとどまりません。本来いるべき立場を受け入れることを拒否するということになり、それははるかに深刻なことです。そうなれば、私たちがかつて主とともに取った立場を逆転させることになります。

さて、洗礼とは、神が私たちをキリストにあって死んだものとみなすあの祭壇であり、そして、私たちはただその祭壇に踏み込んでこう言います、神が私のために定めた立場とは、私が今、受け入ようとしている立場であり、私はここで、私に対する神の立場、すなわち、十字架において私は終わりへと導かれたという立場を受け入れたという事実をはっきりと証しします。主イエス様はこの道を進み、ご自身の公けの人生の始まりとして洗礼を受け、そして、聖霊の油注ぎのもと、その瞬間から主は、神を離れて自分の思いに耳を傾けること、いかなる形であれ、神を離れて、罪のなかったご自身の人間性が命じるものに影響されることを絶対的に拒絶されました。生涯の最初から最後まで、イエス様は油注ぎに支配されていて、それは、主が何を言っても、何をしても、何を拒んでも、どこに行っても、いつ行っても同じでした。そして、主は他のすべての影響を退けており、弟子たちから来るもの、悪魔から来るもの、他のどの方向から来る影響も完全に拒絶されました。主の態度とは、父よ、あなたはこのことについてどうお考えですか。あなたは何を望んでいますか。今はあなたの時ですか、このようなものでした。主が言われていたのは、要するに、どんな時も、わたしの意志ではなく、あなたの意志、わたしの判断ではなく、あなたの判断、わたしの感情ではなく、あなたがそのことをどう感じるか!事実上、主は死んでいたのですね。主は、事実上、埋葬されていたのです。主の洗礼は、主にとってそのような意味があったのであり、そして、私たちが立っているところも同じなのです。

按手

しかし、それからもう一つ、別のことがあります。その立場が、死をもって受け入れられたとき、そこには、復活があります。しかし、私が言ったように、それはキリストの中の復活であり、そして、神の立場からすれば、それはキリストの中における復活というだけではなく、キリストの支配のもとでの復活であり、言い換えれば、キリストに付与された神の完全で最終的な権威のもとでの復活であって、それによって、キリストは私たちの心となり、キリストは私たちの統治となり、主が支配者となるのです!そして、新約聖書の時代の信者たちが洗礼のための第一歩を踏み出し、キリストにあって自分が死んだことを宣言して水から上がってきたとき、御体なる教会を代表する信者たち、必ずしも使徒とは限らない信者たちが、その手を彼らの頭に置いて、彼らのために祈りを捧げ、そして、聖霊が彼らが神の家にいることを告げました。かしらとしてのキリストに与えられた油注ぎが、今度は、キリストにあって彼らにも与えられたのであり、それは、別個の油注ぎではなく、キリストにある油注ぎでした(コリント人への手紙二1・21、コリント人への手紙一 12・13)。

第二コリント
1:21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

第一コリント
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

しかし、油注ぎとは何でしょうか。キリストの場合、地上にいる期間、主が代表者としての人生を受け入れ、神としての性質と支配者という地位をもって生活したり行動したりすることを拒否して、ひとりの人間として人の救いを成し遂げるために働かれたとき、油注ぎとは何だったのでしょうか?油注ぎはどのような意味持っていたのでしょうか?そう、主の場合、それは非常に明確です。油注ぎが意味したのは、主がすべてのことにおいて神の直接の支配下にあり、何事についても自分の判断や感情を参考にしたり、それに従ったりすることを拒否しなければならないということでした。御父は、油注ぎによって、すべてのことで主を支配しており、そして、主は、それとは別に、完全に脇に除けられていました。そして、主が、『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』と言われ、そしてまた、『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません』(ルカ9・23、14・27)と言われたとき、主は、ことばを換えれば、こう言われていたのです、「十字架が絶えず働いて、あなたがたを追い出し、わたしが入るための道を開いて、あなたがたがわたしの心を受け入れるようにならなければ、あなたがたは決してわたしを学ぶことはできない。そして、十字架が意味するものとは、あなたがたが全てのことについて、自分の心に対して十字架につけられなければならないということです。あなたの心は、十字架の下に置かれなければならない。あなたの意志は十字架の下に置かれなければならない。あなたの感情とやり方は日々、十字架の下に置かれなければならない。そうすることで、あなたがたにはわたしを学び、わたしの心、わたしの支配、わたしの判断、わたしのすべてを学ぶ道が開かれる。それが弟子となるための学校、キリストの学校です。」

前にも言いましたが、復活の側では、油注ぎを受けたキリストの指導者としての地位が、信者たちの生活における支配的な要素となるし、また、ならなければなりません。そして、頭の上に手を置くということは、ただ、この者は主の支配のもとにある、この頭は主という別のかしらの下に来る、この頭は主というより大きなかしらに従うということを新たに宣言しているにすぎません。これまで、この頭が自分の生活を支配してきましたが、もはやこの頭が生活を支配することはなく、これからは別の大きなかしらの支配に従うことになります。この頭は、油注ぎの中で、すべてのかしらとしてのキリストのもとに導かれます。そして、全てのはじまりの日々にあたって、聖霊がこの事実を証明しました。すなわち、聖霊が彼らの上に臨み、この者が油注ぎのある神の家にいること、その家のかしらである主の支配の下にあることが宣言されました。

その精神は、ヘブル人への手紙の次のことばに全て、表現されています、『しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。私たちが神の家なのです。(3章6節)。』これ以上の説明は必要ないと私は思います。私たちはキリストの天からの啓示の道を進んでいるだけです。そして、洗礼において、私たちは、自分たちに関する限り、神の立場を受け入れるという立場を取ります。すなわち、私たち自身はそこで終わるということです!もし、将来、私たちの内にある自我が何かを主張しようとしたら、私たちはこの立場に戻って言うべきです、「私たちはここではっきりと告げた――私たちの終わりを!」神の立場に向けたあなたの態度を守ってください。

それから後、ひとつところに集まって、御体なる教会の参加者たちの代表の手を乗せることは、次のような事実の単純な証しです。すなわち、キリストにあってその証しをする者たちが神の家におり、彼らは油注ぎを通してキリストの支配下にあり、そして、主のかしらとしての支配が、私たちを主の中でひとつにするという事実です。

私たちの場合にも、主がこれらすべてのことを真実とし、生きた現実としてくださって、私たちも本当にベテルに来て、キリストを心から喜びながら、確かに主はこの場所におられる!と言えるようになりますように。私たちも、主がこの場所におられると言えるような霊的な立場になったとしたら実にすばらしいことです。そして、私は主のおられるところにいる、ここが神の家だ!それは単に、キリストの中にいること、キリストの支配と油注ぎのもとにあることの意味を生きた知識として知ることを意味しています。

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