2024年7月27日土曜日

『神への渇き』、第四章―神を捉えること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第四章―神を捉えること

味わい、これを見つめよ。――詩篇三四・八

二十五年以上も前に、神に対する普通人の持つ信仰の推論的性格に注意を換起したのは、インドのキャノン・ホウムズであった。たいていの人々にとっては、神は推論であって、実在ではない。つまり、神は彼らが十分だと考える証拠から演釈されたものではあるが、個人によって親しく知られることはないのである。彼らは言う、「神はあるにちがいない、だからわれわれは神があると信ずるのだ」これはまだよい方で、そこまですら行っていない人たちもいる。彼は神については噂で知っているだけなのだ。彼らは自分で考えぬく労をとることなく、他の人たちから神様の話を聞き、神に対する信仰を、彼らの全信条を形成しているいろいろながらくたと一緒に、心の奥の方に投げ込んだままでいる。さらに他の人々にとっては、神は一つの理想、すなわち真や善や美の別名にすぎない。あるいは、神は法則とか生命とか、存在現象の背後にある創造的衝動とかに考えられている。

これらの神観念はきわめて多岐にわたっているが、それらに共通なことが一つある。それは彼らが個人的経験としては神を知らないということである。神を親しく知ることができるというようなことは考えてみたこともないのだ。神の存在を認めながら、われわれがいろいろな物や人を知るという意味で神を知り得るとは、彼らは考えないのである。

キリスト者は、少くとも理論的には、それらの人々よりも確かに進んでいる。彼らの信条は彼らが神の人格を信ずることを要求するし、また「天にましますわれらの父よ」と祈ることを彼らは教えられている。ところで人格とか父とかいうことは、個人的に知り得るという概念を含んでいる。このことは、くり返して言うが、理論としては認められているのであるが、それにもかかわらず何百万人というキリスト者たちにとっては、未信者にとってそうであるように、神は現実的なものとなっていない。彼らは理想を愛し、単なる原理に対して忠実であろうと努めながら人生を送っているのである。

この霞のかかったようなあいまいさに対して聖書の教義は、神は個人の経験によって知り得るものであることを明白に述べている。庭の木々の間を歩み、到るところに芳香を息吹きたもう生ける人格が聖書を支配しておられるのだ。神の民が神の顕現を受けるに必要な感受性を持つかぎり、いついかなる所においても、常に生ける人格が臨在し、語り、訴え、愛し、働き、御自身を現わされるのである。

聖書は、人々がその経験の分野に入ってくる他の人や物を知るのと少くとも同程度の直接さで、神を知り得るということを、自明の事実として考えている。物体に関する知識を表わすのに使われるのと同じ言葉が、神についての知識を表わすのに使われている。「主の恵みふかきことを味わい知れ」「あなたの衣はみな没薬、ろかい、肉桂で、よいかおりを放っている」「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」「こころの清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」これらは神の言葉の中にある数えきれぬほどの類例からわずかに四つを取り出したにすぎない。そして、文献によるどんな証明よりも重要なのは、聖書の全体的意味が右の信仰を指しているという事実である。

これらすべてのことは、われわれがなじみの深い五感によって物質的なものを知るのと同じくらい確実に神を知り得る機関が、私たちの心の中にあるということを意味するにほかならない。われわれは感覚的能力を用いることによって、物質的世界を把握する。それと同様に、われわれは霊的能力を持っており、私たちが聖霊の衝動に従ってその能力を用いはじめさえすれば、私たちは神と霊的世界とを知ることができるのである。

救いの業がまず心の中で行われなければならないことは、言うまでもない。新生を経験しない人の霊的能力は彼の本性の中に眠っており、用いられることもなく、あらゆる意味で死んでいる。それは罪がわれわれに与えた打撃である。その死んだような能力は、新生における聖霊のはたらきによって活発な生気を回復することができるのだ。それは十字架上のキリストの贖罪の業を通してわれわれにもたらされた、測り知ることのできない恵みの一つである。

しかし、神御自身によって贖われた当の神の子たちが、聖書が提供していると思われる神との不断の意識的交わりについて、こんなに無知であるのはどうしたことであろうか。その答は、われわれの慢性の不信仰、これである。信仰はわれわれの霊的感覚の働きを可能ならしめる。だから、信仰に欠陥があると、その結果は霊的なものに対する内的無感覚、無神経となってあらわれる。これは今日、実に多くのキリスト者が陥っている状態である。この断定を支持するにはいかなる証明も要しない。われわれが最初に出会うキリスト者と会話を交わし、最初にぶつかった教会の中に入りさえすれば、私たちに必要な証明はいくらでも手に入るだろう。

霊の王国はわれわれの周囲にあり、われわれを取り囲み、抱擁し、私たちの内なる我れのすぐ手の届くところにあって、私たちがそれを認めるのを待っているのだ。神御自身が神の臨在に対するわれわれの応答をそこで待っていたもうのだ。この永遠の世界は、われわれがその実在を信じはじめた瞬間、いきいきとわれわれの前に現われてくるのである。

私は今、定義を必要とする言葉を二つ使った。定義することが不可能だとすれば、少くとも、私がそれらの言葉をどういう意味で使っているかをはっきりさせなければならない。それは「実在」および「信ずる」という言葉である。

「実在」という言葉は何を意味しているのか。それは、誰がいだくどんな観念からも独立した存在を持つもの、たといそれについて考えをいだく人間がどこにもいなくても存在するものを意味している。実在的なものはそれ自身で存在している。それはその妥当性を得るのに観察者を必要としないのだ。

常識的人間の実在観を嘲弄して喜ぶ人々がいることを私は知っている。彼らは、精神のほかには実在的なものは何もないということを言うために、際限なく証明を引っぱり出してくる観念論者でる。彼らは、宇宙には何かを測定する規準となる固定点は一つもないのだということを指摘するのが好きな相対論者である。彼らは高い知的山頂からわれわれを見下ろしてほほ笑み、われわれに「絶対主義者」という非難をこめたレッテルをはりつけて、得々としている。しかし、キリスト者はそのように軽べつされても、少しもろうばいしない。かえって、すぐに彼らに向かってほほ笑み返してやることができるのだ。なぜなら、彼は「絶対なるもの」、すなわち神は唯一人のみであることを知っているからである。だが彼はまた、唯一絶対者なる神は世界を人間に使用させるために造られたということを知っている。固定的ないし実在的なものは、それらの言葉の究極的な意味(つまり、神にのみあてはまるような意味)では、神のほかには何も存在しないけれども、われわれは人間生活を営むに当って、そのようなものがあるものとみなして行動するように許されているということを知っている。事実、すべての人は、精神病患者でもないかぎり、その通りに行動しているのだ。精神病患者も実在について問題を持っているのだが、彼らの場合は首尾一貫している。彼らは事物に関する自分自身の観念に従って生活することを主張するのであるから。彼らは正直である。彼らが一つの社会問題となっているのは、まさにその正直さのためなのだが。

観念論者や相対論者は精神病患者ではない。彼らが健全であることは、彼らが理論では否定している実在観念に従って生活し、彼らの証明するところによれば存在しないはずの固定点に、みずから依存している事実を見れば明らかである。もし彼らが積極的に彼らの観念に従って生活したなら、その観念に対してもっと多くの尊敬をかちうることができるのだが、彼らは注意深くそうすることを避けている。彼らの思想は頭脳の深さにとどまり、生の深さに達していない。生が彼らに接触するところでは、彼らはその理論を否定し、他の人々と同じように生きているのである。

キリスト者は非常に誠実であるから、思想をただ思想のためにもてあそぶようなことはしない。彼は人に見せるために思想のくもの巣をただ紡ぎ出すことに喜びを感じたりなどしない。彼の信仰はすべて実践的である。それは彼の生に結びついている。この世においてのみならず、永遠に、生きるか死ぬか、立つか倒れるかがその信仰にかかっているのだ。彼は不誠実な人間からは遠ざかって行く。

誠実な常識人は世界が実在するものであることを知っている。彼は目覚めて意識を回復するとき、世界がそこにあるのを見る。彼は自分が世界を考え出したのではないことを知っている。世界はそこにあって、彼が生れてくるのを待っていたのだ。また彼がこの世を去ろうとするときも、世界はやはりそこにあって、彼にさよならを告げるであろうことを、彼は知っている。人生の深い知恵によって彼は懐疑的な何千という人々よりも賢明なのだ。彼は地上に立ち、風や雨を顔に感じ、それらが実在するものであることを知っている。彼は昼は太陽を、夜は星を見る。彼は白熱の雷光が真黒な雷雲からほとばしるのを見る。彼は自然の音や、人間の喜びや苦痛の叫びを聞く。彼はそれらのものが実在するものであることを知っている。彼は夜、涼しい大地に横になる。だが、その大地が幻影にすぎないのではないかとか、自分が眠っている中に自分を棄ててどこかへ行ってしまうのではないか、などと心配しはしない。朝目をさますと、前の晩に彼が目を閉じた時と同じように、堅固な大地は彼の下にあり、青空は彼の頭上に、また岩や樹木は彼の周りにあるだろう。このように、彼は実在の世界の中に生き、そして喜ぶのだ。

彼は五感によってこの現実の世界と結びついている。彼は彼の身体的存在に必要なすべてのものを、彼を造ってこの世界に置かれた神から与えられた能力によって、捕えるのである。

ところで、われわれの定義によれば、神もまた実在である。神は絶対的、究極的意味において実在である。この意味では他の何ものも実在ではない。神は大いなる実在であって、われわれ人間を含む被造物全体を形成している低い依存的実在の造り主である。神はわれわれが神について持ついかなる観念からも離れ、かつ独立した客観的存在を持っている。礼拝者の心がその礼拝の対象を創り出すのではない。かえって、礼拝者の心が新生の朝、道徳的眠りから醒めるとき、神をそこに見出すのである。

意味をはっきりさせる必要のあるもう一つの言葉は「信ずる」という言葉である。信ずるということは、何かを眼前に彷彿たらしめるとか、想像するとかいう意味ではない。想像は信仰ではない。この二つはたがいに異なるばかりでなく、たがいに鋭く対立している。想像は心から非現実的な影像を投影し、それに現実性を付与しようとする。これに反し、信仰はすでに存在しているものをただ信ずるだけで、何ものをも創り出しはしない。

神と霊的世界とは現実的なものである。われわれはそれらを、われわれの周囲にあるなじみの深いこの世界を信頼すると同じくらい確実に、信頼することができるのである。霊的なものがそこにあって(いや、ここにあって、と言うべきだ)、われわれの注目を招き、われわれの信頼を求めているのだ。

困ったことに、私たちは悪い思想的習慣を作ってしまったのである。通常、われわれは目に見える世界を現実的と考え、その他の世界の現実性を疑っている。われわれは霊的世界の存在を否定するのではないが、それが普通の意味で現実的であることを疑うのだ。

感覚の世界はわれわれの全生涯を通じて、日夜われわれの関心を奪おうとする。それは騒々しく、執ようでまた示威的である。それはわれわれの信仰に訴えるのではない。それは私たちのすぐ近くにあって、私たちの五感を襲い、現実的かつ究極的なものとして受け入れられることを要求してやまない。だが、罪がわれわれの心のレンズを曇らせてしまったために、われわれはもう一つの現実である神の国が、私たちの周りに輝いているのを見ることができない。このようにして、感覚の世界が勝ってしまう。見えるものは見えざるものの敵となり、時間的なものは永遠的なるものの敵となる。それはアダムの悲惨なる孫が皆受けついだ呪いなのだ。

クリスチャン生活の根底には見えざる世界に対する信仰がよこたわっている。キリスト者の信仰の対象は目に見えぬ現実である。

われわれの生れつきの心が盲目であり、また目に見えるものが到るところにあってわれわれの感覚に侵入してくるために、私たちは誤った考えを抱きつづけ、霊的なものと現実的なものとを対立させようとしがちであるが、実際にはそんな対立は存在しないのである。対立は別のところにある。すなわち、現実的なものと仮想的なもの、霊的なものと物質的なもの、時間的なものと永遠的なもの、これらの間にはそれぞれ対立があるけれども、霊的なものと現実的なものとの間には絶対にない。霊的なものは現実的なのである。

もしわれわれが、真理なる聖書を通して明らかにわれわれを招いているその光と力の国に昇って行きたいと思うなら、私たちは霊的なものを無視するという悪習慣を破らなければならない。私たちの関心を目に見えるものから見えざるものに移さなければならない。なぜなら、見えざる偉大な現実(実在)こそ神にほかならないのだから。「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」これは信仰生活の基礎である。そこから無限の高さにまで、われわれは昇って行くことができるのだ。「神を信じ、またわたしを信じなさい」と私たちの主イエス・キリストはおおせられた。神を信じることがなければ、キリストを信じることもありえないのだ。

われわれが本当に神に従おうと思うなら、われわれは努めてあの世的にならなければならぬ。この言葉がこの世の子らによって軽べつ的に用いられ、非難の印としてキリスト者に適用されていることを、よく知りながらあえて私はそう言うのである。それでよいのだ。人はすべて自分の世界を選ばなければならない。もし、キリストに従うわれわれが、すべての事実を前にし、私たちの目的が何であるかをよく知って、熟慮の結果神の国を私たちの関心の的として選んだのなら、これに対して誰かが文句を言ういわれはないはずである。そのためにわれわれが損をするとしても、その損失はわれわれだけのものであり、得をしたからとて、誰かから何かを奪うわけではない。この世の嘲笑の的であり酔漢のあざけりの歌の主題である「あの世」は、われわれが慎重に選んだ目標、また私たちの最も聖い探求の対象なのだ。

しかし、われわれは、「あの世」を未来に押しやるという、よく見られる過ちを避けなければならない。あの世は未来ではなく、現在なのだ。それはわれわれになじみの深い形而下の世界と平行するものであり、この二つの世界を結ぶ扉は開かれているのである。ヘブル人への手紙を書いた人はこう言っている、「あなたがたが近づいているのは、(ここに使われている動詞の時制は明らかに現在である)シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」これらすべてのことが「手で触れることができる山」や、聞くことができる「ラッパの響や言葉のひびき」と対照されている。(ヘブル人への手紙一二・一八以下を参照――訳者)。ちょうどシナイ山の現実が感覚によって捕えられたように、シオン山の現実は魂によって把握されるべきだと結論しても、あながち過言ではないだろう。これは想像によるごまかしではない、それは正真正銘の事実なのである。魂は見るための目と聞くための耳とを持っている。長い間使わなかったために弱くなっているかもしれないが、生命を与えるキリストの御手に触れられて、今やいきいきと最も鋭い視力と最も敏感な聴力とをもつに至ったのである。

われわれの心の目の焦点を神に合わせるにつれて、霊的なものが次第にはっきりした形をとるようになる。キリストの言葉に従うとき、神はわれわれの心の中に御自身をあらわされる(ヨハネ福音書一四・二一~二三)。そのときわれわれは、心の清い者に約束されたように、神を見ることができるほどの鋭い知覚を与えられる。新しい神意識がわれわれを捕え、われわれは私たちの生命であり、私たちのすべてでいます神を味わい、聞き、心の中に感ずるようになる。すべての人を照らすまことの光がたえず輝いているのを見ることができるようになる。われわれの能力が一層確実になるに従って、神はわれわれにとってますます大いなるすべてとなり、神の臨在はますます私たちの生の栄光、また驚異となるだろう。

ああ神よ、永遠なるものを捕え得るように私の内なるすべての力に生気を与えたまえ。よく見えるように私の目を開いて下さい。鋭い霊的知覚を与えて下さい。あなたを味わい、あなたが恵み深きお方であることを知らしめたまえ。天が私にとって地上のいかなるものよりも現実的に思われるようにして下さい。アーメン。

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