2024年7月7日日曜日

『神への渇き』、第三章―へだての幕を取り除くこと

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第三章―へだての幕を取り除くこと

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、――ヘブル一〇・一九

教父たちの有名な言葉の中でも、アウグスチヌスの次の言葉ほどよく知られているものはない。

「なんじは我らをなんじのために造りたまいたれば、われらの心はなんじの中に憩うまでは休息(やすみ)を得ざるなり」

この偉大な聖徒はここで僅か数語の中に、人類の起源と内的歴史とを述べている。神はわれわれを神御自身のために造られた。これこそ思索的人間の心を満足させることができる唯一の説明である。放縦な理性は何と言おうとも。誤った教育と倒錯した推理がこれと違った結論に人を導くとき、そのような人に対してキリスト者はどうしてやることもできない。そのような人に向かって語るべき言葉を私は持っていない。私が語るのは、すでに神の知恵によってひそかに教えられたことのある人々に対してである。神の御手によって憧憬の心を覚醒せしめられた渇ける心を持つ人々に向かって、私は語っているのだ。そういう人々は理性的な如何なる証明も必要としない。彼らの休みなき心が必要な証明をすべて与えてくれるからだ。

神はわれわれを御自身のために造られた。「ニュー・イングランド初等読本」によれば、「ウエストミンスターにおける神学者の聖会によりて協定せられた」と言われる「小教理問答」は何が、何故にという昔からの問題を提出し、短文をもってこれに答えているが、世俗のどんな書物もこの答に及ぶものはない。「問――人間の主な目的は何ですか。答――人間の主な目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を楽しむことであります」世々限りなく生きておられるかたのみまえにひれ伏し拝む二十四人の長老もこれに同意して言う、「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」

神は御自身の喜びのためにわれわれを造られた。神ばかりでなく私たちも神との交わりによって、類似の人格間の楽しくまた神秘的な親交を楽しむことができるように、私たちを造られたのである。神はわれわれが神を見、神と共に住み、われわれの生命を神のほほえみの中から汲み出すことを期待された。しかるに、私たちは、ミルトンがサタンとその軍勢の叛逆を叙述した際に言っている「非道な謀叛」を犯してしまったのだ。われわれは神と絶交してしまった。われわれは神に従うこと、あるいは神を愛することをやめてしまい、罪と恐怖の中に神からできるだけ遠いところへ逃げてしまったのだ。

しかし、天も、天の天も神を包むことができないのに、またソロモンの知恵が「主の霊は全地に満つ」と証しているのに、一体誰が神から逃れ得ようか。神の内在は神の完全性にとって不可欠な、厳粛なる事実であるが、明らかな臨在はそれとは全く違ったものであり、その明らかな臨在からわれわれは逃げてしまったのである。ちょうど、アダムがエデンの園の木々の間に隠れたように、あるいはまた、ペテロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んで尻込みしたように。

このように、地上における人間の生活は神の臨在から離れた生活、私たちの正当な居住地であるあの「幸いな中心」からもぎ取られた生活に堕してしまった。われわれはその幸いな初めの状態を保ち得ず、これを失ってしまった。このことこそわれわれの絶えざる不安の原因なのである。

神の救いの業はすべて、この非道な謀叛の悲劇的な結果を帳消しにし、私たちを再び御自身との正しい永遠的な関係に入れて下さることにほかならない。そのためには、われわれの罪が申し分なく処置せられねばならず、また完全な和解が成立して、われわれが再び神との意識的交わりに帰り、以前のように再び神の臨在の中に生き得るように道が開かれなければならなかった。それから神はその先行的なはたらきによって、みもとに帰るようにわれわれを動かされる。私たちの不安な心が神の臨在へのあこがれを感じ、「立って、父のところへ帰ろう」というとき、神のそのはたらきがまず私たちの注意を引く。これが第一歩である。支那の聖人老子が言ったように、「千里の旅も一歩より始まる」のだ。

罪の荒野からよろこばしい神の臨在に至る魂の旅は、旧約の幕屋に美しく象徴されている。神のみもとに帰ってきた罪人はまず幕屋の周囲の庭に入り、青銅の祭壇の上に有血犠牲を献げ、祭壇の近くに置かれてある洗盤で手足を洗う。次に幕を通って聖所に入って行く。そこでは外の光は洩れず、世の光なるイエスを象徴する純金の燭台がやわらかい光をあたりのものに投げかけていた。そこにはまた、生命のパンなるイエスを物語る供えのパン、および絶えざる祈のひな型である香の祭壇があった。

礼拝者はそこで非常に大きなよろこびを味わったのであるが、しかし、まだ神の臨在せられるところに入ったのではなかった。もう一つの幕が聖所を至聖所から分けていた。至聖所には神御自身が恐るべき栄光に満ちた顕現をもって贖罪所の上に住んでおられた。幕屋の立っている間、祭司長のみが、しかも一年に一度だけ、自分の罪と人々の罪のために捧げる血をもって、そこに入ることができたのであった。私たちの主がカルバリ山上で息を引きとられたときに二つにさけたのは、この最後の幕であった。聖書の記者は、この幕がひき裂かれたことによって、世のすべての礼拝者が生ける新しい道を通って、直接に神のおられるところに行くことができるように道が開かれたのだと説明している。

新約聖書に記されているすべての事柄はこの旧約聖書の象徴に一致している。贖われた人々は、もはや至聖所に入ることをおそれて立止まる必要はない。私たちが神の臨在されるところにおし進み、そこで私たちの全生涯を生きることは神の御意志なのである。私たちはこれをはっきり経験しなければならない。一つの教義として信じるだけでは足りない。それはわれわれの生活そのものにならなければならない。私たちはそれを毎日、いや、毎瞬よろこび楽しむべきなのだ。

この臨在の炎はレビ人の儀式の中心としていきいきと脈うっていた。これがなければ、幕屋に関するあらゆる規定は私たちの知らない言語の文字のように、イスラエル人にとっても、私たちにとっても、全く意味のないものになってしまう。幕屋についての最大の事実はエホバがそこにおられるということ、臨在の神が幕の中で待っておられるということであった。

同様に神の臨在ということがキリスト教の中心的事実である。キリスト教の教えの中心には、救われて神の子供とせられた人々がいよいよ神におし迫り、神の臨在をはっきり意識するようになるのを待っていたもう神御自身がおられるのである。たまたま今日流行しているようなタイプのキリスト教は、この臨在を理論としてしか知っていない。それは、その理論を現実に実現できるキリスト者の特権を強調しようとはしない。その教えるところによれば、われわれはすでに神の臨在の中にあるというのであるが、その臨在を現実に体験することの必要については一言も語らないのである。マックシェーンのような人々を駆りたてた火の如き衝動は、全く見られなくなってしまった。そして、現在のキリスト者たちはこの不完全な規準によって自分を測っている。燃えるような熱心さに代って恥ずべき自己満足が現われてきた。われわれは原理としての所有に満足してやすらぎ、大ていの場合、個人的体験が欠けていることについては別段気にかけようともしない。

火のようにあきらかな姿で幕の内に住みたもうお方は誰であるか。それは、ほかならぬ神御自身、「天地と見ゆるものと見えざるもののすべての造り主、全能の父なる独りの神」であり、「世の造らるるさきに父より生れたまいし神の独り子、神の神、光の光、神の中の神、父と同質にてましませば造られたるにあらず、生れたまいしもの、すなわち独りの主イエス・キリスト」であり、また「父と子より出ずる主、生命の与え主、父と子とともにあがめられ、栄えを受けたもう聖霊」である。しかも、この聖なる三位の神はひとりの神であられる。なぜなら、「われらは三位の中にひとりの神を拝み、ひとりの中に三位の神を拝む。されど神格を混同し、神性を分割することなし。父は一つの神格にていまし、子は他の神格、聖霊はさらに他の神格にていませばなり。されど、父と子と聖霊の神格はみな一つにして、その栄光は相等しく、その御稜威(みいつ)はともに永遠なるなり」と昔の信条の一部にあり、聖書もまたそのように宣言しているからである。

幕の後に神がおられる、世人が奇妙な矛盾の中に「あるいは神を見出すこともあろうか」と、探り求めている神がおられるのだ。神はある程度自然の中に御自身をあらわされたが、受肉によってもっと完全にあらわされ、今や魂の謙そんな者と心のきよい者に、よろこびあふれるばかり豊かに御自身を示そうと待っておられるのだ。

世界は神の知識の欠如のために滅びようとしており、教会は神の臨在が不十分なために飢餓にひんしつつある。われわれの宗教的疾患の大部分をたちどころに癒すことのできる治療法は、霊的経験によって神の臨在の中に入ることである。それは、われわれが神の中にあり、神がわれわれの中におられることを突然意識することである。それは私たちを憐れむべき偏狭さから引き上げ、私たちの心を広くしてくれる。それはちょうど草むらに住む害虫や菌類が火で焼き払われるように、われわれの生涯から不純なものを焼きつくしてくれるだろう。

私たちの主イエス・キリストの父なる神は何という広い世界、何という大きな海であろう。神は永遠である。ということは、神は時間より前にあり、時間から全く独立しておられることを意味する。時間は神の中に始まり、神の中に終るであろう。神は時間に仕えたもうことなく、また時間のために変化を蒙ることもない。神は不易(ふえき)である。ということは、神が変りなさったことは決してなかったし、またいささかでも変られることは絶対にあり得ないという意味である。変るためには、神は悪い状態からよい状態に移るか、あるいはよい状態から悪い状態に移らなければならないだろう。だが神はそのどちらをもなし得ない。なぜなら神は完全であるから、より完全になることはできないし、反対に完全でなくなれば、もはや神ではないからである。神は全知である。ということは、神は一つの自由な、努力を要しない行為によって、すべての物、すべての霊、すべての関係およびすべての事件を知っておられることを意味する。神には過去もなく、未来もない。神はただ在るのであって、被造物について用いられる限定的条件は神に対しては適用することが出来ない。愛と慈悲と義は神のものであり、聖はあまりにも言語に絶しているので、いかなる比較も、いかなる譬喩(ひゆ)もこれを表わすことができない。ただ火のみがわずかにその概念を漠然と示しうるにすぎない。燃える柴の火の中に神は現われたまい、またイスラエル人の長い荒野の旅の間中、神は火の柱の中に住まわれた。聖所のケルビムの翼の間に輝いていた火は、イスラエルの栄光がつづいた長年月の間、「チケナ」と呼ばれていた。臨在という意味である。そして古いものが新しいものに席を譲ったとき、神はペンテコステに火の炎となって来たり、弟子たちひとりびとりの上にとどまられたのであった。

スピノザは神に対する知的愛について書いている。そこには若干の真理が含まれてはいるが、神に対する最高の愛は知的ではなく、霊的なものである。神は霊であり、ただ人間の霊のみが真に神を知ることができるのだ。人間の霊の深いところに火が燃えなければならない。そうでなくては、彼の愛は神に対する本当の愛ではない。天国で大いなる者は他の人々よりも多く神を愛した人たちである。われわれは皆そのような人たちが誰であるかを知っている。そして彼らの献身の深さと誠実さとによろこんで賛辞を呈するのである。われわれがちょっと考えるだけで、彼らの名前は没薬とろかい(aloes)と肉桂の芳香をただよわせながら、象牙の宮殿を出でて私たちの前を隊を組んで通って行く。

フレデリック・フェイバーはその魂が、鹿の谷川を慕いあえぐように、神を慕い求めた人であった。神は彼の求める心に豊かに御自身を顕わされ、この善人の全生涯を神の御座の前にいるセラピムの心にも匹敵するような、火の如き崇敬の心をもって燃やされたのであった。神に対する彼の愛は、三位の神格に対して平等に注がれていたが、三位のひとりひとりに他と異なる特別の愛を感じていたらしい。父なる神について、彼はこう歌っている、

ただ坐して神を想う
ああ、何たる歓びぞ!
神を想い、御名を称(とな)う
これにまさるさちは世にあらじ。

イエスの父、愛の報い!
汝の御座の前にひれふし
たえまなく汝をみつむる
その歓喜はいかばかりぞ!

キリストの神格に対する彼の愛は彼を焼きつくしてしまいはせぬかと思われるほど強烈であった。それは彼の内でよろこばしくも聖なる一種の狂気のように燃え上がり、彼の唇から溶解した金のように流れ出た。説教の一つの中で彼はこう言っている。「神の教会でわれわれはどちらを向いても、イエスがいたもう。彼はわれわれにとって、すべての初めであり、中であり、終りでいたもう・・・・イエスのしもべたちにとっては、イエスのものならざる善きもの、聖きもの、美しきもの、喜ばしきものはない。誰も貧困である必要はない。なぜなら誰でもそうしようと思うなら、イエスを自分の財産また所有物として持つことができるからだ。誰も失望する必要はない。なぜならイエスは天のよろこびであり、悲しめる人の心の中に入ることは彼のよろこびたもうところであるからだ。われわれは多くのことを誇張することができる。しかし、イエスに対するわれわれの義務、あるいはわれわれに対するイエスの憐れみにみちた愛を誇張することは到底できない。われわれの生涯を通じてイエスのことを語りつづけたとしても、彼について語りうる楽しいことが尽きてしまうことは決してないだろう。イエスのことをすべて知り、彼がなしたまいしことの故に彼を讃美するには、永遠も長いとは思われないだろう。だが、それは問題ではない。なぜなら、われわれはやがて常にイエスと共にあり、彼と共にあること以外には何も望まないだろうからだ」そして、イエスに直接語りかけて、彼は言う、

われ汝をふかく愛すれば
わが歓びを抑うる術を知らず
汝の愛はわが魂の中に
燃ゆる火の如し。

フェイバーの燃える愛はまた聖霊にも注がれた。彼は聖霊の神格と、父および子に対する聖霊の完全な等位性とを、彼の神学において認めたばかりでなく、彼の歌と祈りの中に聖霊を讃美した。彼は第三格位の神への熱烈な礼拝のために、文字通り額を地面に押しつけたのであった。聖霊に対する彼のすばらしい讃歌の一つの中で、彼はその燃えるような敬虔の思いを次のように要約している。

ああ、うるわしくも怖るべき聖霊よ!
わが心はやぶるるばかりなり
われらあわれなる罪人を
かくもやさしく愛したまえば。

私が長らしい引用をあえてしたのは、私の言わんとするところを適切な例証によって示したいと思ったからである。私の言わんとするところとは、つまり、神は言いようもなくすばらしいお方、この上もなく喜ばしいお方なので、御自身のほかに何のたすけがなくても、われわれの本性――それは神秘的な深いものであるが――その本性全体の最も深い要求に溢るるばかりに応えて下さることができるということである。フェイバーは誰も数えることができないほど多くの敬虔な人々の中の一人にすぎないのだが、彼の知っていたような礼拝は、神に関する単なる教義的な知識から決して出てくるものではない。神に対する愛の故に「やぶるるばかり」の心を持つ人々は、神の臨在の中にあって神の長光を開かれた眼で見た人々である。やぶるるばかりの心を持つ人々は普通の人が知らず、また理解しない一つの特徴を持っていた。彼らは平常霊的権威をもって語った。彼らは神の臨在の中にあり、彼らがそこで見たことを報告したのであった。彼らは予言者であって、学者ではなかった。というのは、学者は彼が読んだことを語り、予言者は彼が見たことを語るものであるからだ。

この区別は決して仮想的なものではない。読む学者と見る予言者との間には海ほども広い相違がある。今日は正統派の学者が跋扈(ばっこ)しているが、予言者は一体どこにいるのであろうか。学者の固い声は福音主義の上にも鳴りひびいているが、教会は、幕の内に入って内なる眼で神という神秘的存在を見た聖徒のやさしい声を待っているのだ。しかも、幕を通って、いきいきとした経験により、聖い臨在の中に突き進むことは、すべての神の子に開かれている特権なのである。

この聖所の幕がイエスの肉によって引き裂かれ、取り除かれて、われわれがその中に入るのを妨げるものは、神の側にはもはや何もないのに、なぜわれわれは外でためらっているのであろうか。なぜわれわれは一生涯、至聖所のすぐ外に住むことに満足し、内に入って神を見ようとはしないのであろうか。花婿が、「あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」と言っているのが聞こえる。私たちはこの呼び声が私たちに向けられていることを感じている。が、われわれは近づこうとはしない、そのうちに年月が過ぎ、われわれは幕屋の外の庭で年老い疲れ果てるのだ。一体何がわれわれを妨げているのであろうか。

それは私たちが「冷たい」からだと答えるのが普通であるが、この答は事実のすべてを説明してはいない。単なる心の冷たさよりももっと重大なもの、その冷たさの背後にあり、その原因となっている何かがあるのだ。それは何であろうか。それはわれわれの心の中なる幕の存在にほかならない。聖所の幕は取り除かれたのに、この心の幕は取り除かれず、相変らずそこにあって神の光を閉め出し、神の御顔をわれわれから隠しているのだ。それはわれわれの内に、裁かれず、十字架につけられず、絶縁せられずに生きつづけている堕落した肉性という幕である。それはまた自己中心的生活という織目の細かい幕である。われわれは自己中心の生活をひそかに恥じながらもそれを心から認めようとはせず、従ってそれを十字架の裁きのもとに突き出すことも決してしなかったのだ。この不透明な幕はさほど神秘的なものではなく、その正体を知ることも困難ではない。われわれの心の中をのぞきさえすれば、そこにこの幕があるのが見えるはずである。それは縫い合わせられたり、つぎがあてられたり、繕われたりしているかもしれないが、それでもとにかくそこにあり、われわれの人生の敵、またわれわれの霊的進歩の大きな妨げとなっているのである。

この幕は美しいものではなく、また私たちが普通それについて話したいと思うようなものでもない。だが、私は神に従う決心をした渇いた魂に向かって語っているのであり、彼らは、道が一時暗い丘を通って行くからと言って、引き返してしまうようなことはないと信じている。彼らの心の中に神によって起された衝動が、彼らの探求を確実に継続させてくれるだろう。彼らはどんなに不愉快であっても事実は事実としてこれに直面し、彼らの前におかれた喜びの故に十字架の苦しみにも耐えるであろう。だから私はこの心の幕を織りなしている糸の名を大胆に挙げるのである。

それは自己中心的生活という細い糸で織られている。これは人間の魂の最も根源的な罪である。それは私たちの行為に関するものではなく、私たちの存在そのものに関する罪である。そして、そこにこそ、この罪の陰険さと力とがあるのだ。

具体的に言うと自己中心の罪は次のようなものである。すなわち、自己憐憫、自信、自己充足、自己崇拝、自愛等々、ほかにもまだたくさんある。これらの罪はわれわれの心のきわめて深いところに巣食っていて、われわれの性質のあまりにも大きな部分になってしまっているために、神の光によって照らし出されるまでは、われわれはそれに気がつかない。これらの罪のさらに粗野な現われである自尊心、露出症、自己推薦などは、キリスト教指導者たちがこれに犯されていても、ふしぎなことに、欠点のない正統派の人々の間でさえも黙認されている。これらの罪はどこにでも見られるもので、事実多くの人々はそれを福音と同一視しているほどである。それは今日では眼に見える教会のある方面で人気を獲得するための必須条件となっているように見える、といっても別に皮肉を言っているわけではない。キリストを推薦するという仮面のもとに自己を推薦することは、今日では人々がほとんど気がつかぬほどありふれたことになっている。

人間の堕落に関する教義とキリストの義による義認の必要とを正しく教えられさえすれば、それだけで、われわれは自己中心の罪の力から救われるだろうと人は思うかもしれないが、実際にはそうはいかない。自我というものは祭壇の前にあってすら、とがめられずに生きつづけることができるのだ。それは犠牲者なるキリストが血を流して死ぬのを見ても、それによっていささかも影響されずにいることができるのだ。それは改革者たちの信仰を擁護するために戦い、恩寵による救いを雄弁に説教し、自らその努力によって、力を得ることもできるのである。本当のことを言えば、自我は事実、正統派の信仰を食べて育ち、居酒屋よりも修養会の方がくつろぎやすいと感じているのだ。神を慕い求めるわれわれの心の状態そのものが、成長し繁栄する絶好の条件を(自我に)提供しかねないのである。

自我は神の御顔を私たちから隠すところの不透明な幕である。それは霊的経験によってのみ取り除くことができるので、単なる教えをもってしては到底除去することはできない。それは、教えることによって癲病をわれわれの体内から除去しようとするようなものだ。われわれが自由になる前に、まず神による破壊の業が行われなければならない。われわれはイエスの十字架によって、われわれの心の中のこの致死的な業をやっていただかなければならない。私たちは、私たちの救主がポンテオ・ピラトのもとで苦しみなさった時に通られた、あのきびしい試練に似たものをある程度受ける覚悟をしなければならない。

幕が引き裂かれたことを語るとき、われわれは譬喩(ひゆ)を用いて語っているのだということ、およびそれを考えることは詩的で、愉快と言ってもよいほどであるが、実際にはそれは愉快どころではないということをわれわれは忘れてはならない。人間の経験に即して言えば、この幕は生ける霊の織物でできており、われわれの全存在を構成している敏感に震える糸で織られている。だから、これに触れるのはわれわれの痛む傷に触れることなのである。それを取り除くことはわれわれをそこない、傷つけ、われわれに血を流させることなのだ。そうでないというなら、十字架は十字架でなく、死は死でなくなってしまう。死ぬことは決して面白いことではない。人間の生を構成している大切な傷つき易いものを引き裂けば、深い苦痛を引き起さないわけにはいかない。だが、これこそまさに十字架がイエスに対してなしたことであり、またすべての人に対して彼らを自由にするために、十字架がなそうとしていることなのだ。

われわれはこの幕を自分の力で引き裂こうとして、われわれの内的生活をいじり廻さぬように注意しょう。神が私たちのために、すべてのことをして下さらなければだめなのだ。私たちのなすべきことはただ従い信じることである。われわれは自己中心の生活を告白し、放棄し、これと絶縁しなければならない。それからそれを十字架につけられたものとみなさなければならない。だが、われわれは怠惰に「受け入れる」ことと、神の真の業とをはっきり区別するように注意しなければならない。われわれはその業がなされるように神に迫らなければならぬ。自我の磔殺という安易な教義に満足してはならない。それはサウルのように羊や牡牛の最上のものを残しておくことになるのだ。

その業がなされるように誠実さをこめて神に迫るなら、それは必ずなされるだろう。十字架は手荒で、死をもたらすものであるが、その代り効果はてき面である。十字架はその犠牲者を永遠にそこにつるしっぱなしにしておかない。十字架の役目が終り、苦しんでいる犠牲者の死ぬときが必ず来るのだ。その後は復活の栄光と力があらわれ、十字架の苦しみは幕が取り去られた喜びの故に忘れられ、かくてわれわれは、現実に霊的経験によって生ける神の臨在の中に入ることができるのである。

主よ、あなたの道はいかにすばらしく、これにひきかえ人間の道はいかに暗く、曲りくねっていることでしょう。新らしい生命によみがえるために、まず死ぬことを私たちに教えたまえ。あなたが神殿の幕を引き裂かれたように、私たちの自己中心の生活の幕を上から下まで引き裂いて下さい。私たちは信仰の確信にみちて、みもとに近づきたいと思います。私たちがあなたと共に住むべく天国に入るとき、その栄光に慣れていることができるように、この地上での毎日の経験の中に、あなたとともに住みたいと願っています。イエスの御名により、アーメン。

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