2024年8月14日水曜日

『神への渇き』、第五章―宇宙における神の内在

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第五章―宇宙における神の内在

わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
――詩篇一三九・七

すべてキリスト教の教えの中には、ある種の基本的な真理が含まれている。それは時には隠されており、また積極的に主張されるよりもむしろ当然のこととして前提されているが、しかもあらゆる真理にとって必要なのである。それはちょうど、原色が完成された絵画にとって必要であるのに似ている。このような基本的真理が神の内在ということである。

神は彼が創造されたものの中に住みたまい、あらゆるところ、あらゆる御手の業の中に不可分に存在しておられる。このことは予言者や使徒が大胆に教えたところであり、キリスト教神学によって一般に受け入れられていることである。つまり、それはいろいろな本の中に見えていることなのである。が、どうしたわけか一般のキリスト者の心の中にしみ込まず、信仰の主体的部分になりきっていないのだ。キリスト教の教師たちはこの真理の意味を十分に探求することを避け、たといそれを口にすることがあっても、声を低めてほとんど意味のないものにしてしまう。なぜそういうことをするのか。おそらくその理由は汎神論の罪に問われるのを怖れるためではないかと私は推察するのであるが、神の臨在の教義は絶対に汎神論ではないのである。

汎神論の誤りは誰をもあざむくことができないほど明明白白である。汎神論というのは、神は被造物全体の総計であるということである。自然と神とは一つであるから、一枚の葉、一つの石に触れた人は神に触れたことになる。それはもちろん朽ちざる神の栄光をはずかしめるものであり、万物を神聖化しようとして、かえって世界から一切の神聖さを駆逐することになる。

事実は、神はその創りたまえる世界の中に住みながら、永遠に渡ることのできない深淵によって世界から断絶されているのだ。神がどんなに密接にその御手の業と同一視せられたにしても、御手の業は永遠に神以外のものであり、神は御手の業に先行しかつそれから独立したものである。神は被造物の中に内在しているけれども、それらすべてのものから超越しておられるのである。

さて、このような神の内在は、キリスト者の直接経験においてどういう意味を持っているだろうか。それは端的に、神はここにおられるということを意味しているのだ。われわれがどこにいようと、そこに神はいましたもう。神のおられない場所はないし、またあり得ない。一千万人の知者が、測りしれぬほどの距離によってそれぞれ離されているが、宇宙の一千万の地点に立って、神はここにおられると言うとき、彼らはみな等しく真理を語っているのだ。一つの地点が他の地点よりも神に近いということはない。一つの場所から神までの距離は、他の場所からのそれと全く同じである。単に距離という点から言うなら、人は他の人よりも神に一層近いとか遠いとかいうことはないのだ。

これは、教えを受けたキリスト者なら誰でも信じている真理である。われわれに残されていることは、これらの真理がわれわれの内に輝き出すまで、それについて考え、かつ祈ることだ。

「はじめに神・・・・」と聖書にある。「はじめに物質・・・・」ではない。なぜなら、物質は自己原因的なものではないからだ。それはそれに先行する原因を必要とする。そして神がその原因なのだ。法則ではない。法則はすべての被造物が従って行く進路の別名にすぎない。その進路は計画されなければならなかった。その計画者は神である。精神ではない。精神もまた造られたものであり、その背後に創造者を持たねばならぬからだ。はじめに神、すなわち物質、精神および法則の原因なき原因があった。われわれはここから始めなければならない。

アダムは罪を犯した。そして恐慌のあまり、狂気のごとく不可能なことをなしとげようとした。つまり、神の臨在から隠れようとしたのである。ダビデもまた、臨在から逃れようという乱暴な考えを持ったことがあったにちがいない。というのは、彼が次のように書いているからだ。「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか」それから彼は、神の内在の栄光を讃える彼の最も美しい詩篇の一つを歌っている。「わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府(よみ)に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」そして、彼は神のいますことと神が見たもうこととは同じであることを知り、また、見ておられる神の臨在が、すでに彼が生まれる前から彼とともにあり、展開する生の神秘を見守っておられたのだということを知ったのである。ソロモンは、「しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と叫んだ。パウロはアテネ人たちに確信を持って言った、「事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」

神が空間のあらゆる場所に臨在したまい、われわれは神のいまさぬところに行くこともできなければ、神のいまさぬところを想像することさえできないとすれば、それではなぜ神の臨在ということが、世界で普遍的に讃美される唯一の事実とならないのであろうか。族長であったヤコブは、「獣のほえる荒地」で、この問に答えている。彼は神の幻を見、驚異のあまり、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」と叫んだ。ヤコブは一瞬の何分の一たりとも、万物に充満している神の臨在の円周の外に出たことは決してなかった。しかし、彼はそれを知らなかったのである。それが彼の問題であったのだ。それはまたわれわれの問題でもあるのだ。人々は神がここにおられることを知っていない。もし知ったなら、どんなに大きな相違が生ずることだろう。

臨在と臨在の顕現とは同じものではない。後者がなくても前者はありうる。われわれが全く気がつかなくても、神はここにおられるからである。われわれが神の臨在を意識したときにのみ、神は御自身をあらわしたもうのだ。私たちの側で神の霊に対する全き従順がなされなければならない。なぜなら、聖霊の業は御父と御子とをわれわれに示すことであるからだ。われわれが愛の従順によって神と協力するなら、神は私たちに御自身をあらわされる。そしてこの顕現は名前だけのキリスト教生活と、神の御顔の光に輝く生活との違いを生み出すだろう。

神は常に、いたるところに臨在せられ、常に御自身をあらわそうとしておられる。神はひとりびとりに神が在ることを示されるばかりでなく、神が何であるかをも啓示したもう。神がモーセに御自身をあらわされたのは、別にそのように説得されたからではない。「ときに主は雲の中にあって下り、彼とともにそこに立って主のみ名を宣べられた」神は御自身の性質を言葉によって宜べられたばかりでなく、御自身そのものをモーセにあらわされた。そのためにモーセの顔が超自然の光で輝いたのだ。神の自己啓示とは文字通り本当であると信じ、神は多くのことを約束なさったが、成就する意志のないことは約束なさらなかったと信じはじめるとき、それは私たちにとって何というすばらしい瞬間であろう。

われわれの神探求が成功するのは、ひとえに、神の方で常に御自身をわれわれにあらわそうとつとめておられるからにほかならない。神が誰かに御自身を啓示されるということは、神が重大な用件をもって短時日の間その人の魂を訪れるために、ある時遠くから来られるというのではない。そのように考えることは完全な誤解である。神が魂に近づくとか、魂が神に近づくとかいうことは、空間的に考えられてはならない。この概念の中には物理的距離の観念は全然含まれていないのだ。それはマイルの問題ではなく、経験の問題なのである。

神に近いとか遠いとか語ることは、われわれの普通の人間関係に用いられるときに常に理解される意味で、それらの言葉を使うことなのだ。例えば人は、「わたしの息子は年が進むにつれてわたしに近づいてくるような気がする」などと言う。しかもその息子は生れたときから父の側で暮しており、生涯を通じて一日か二日以上父の許を離れたことはないのである。それではこの父親は何を言おうとしているのであろうか。明らかに彼は経験について語っているのだ。彼は、息子が前よりも親しく、もっと深い理解をもって自分を知るようになってきた。父子の間の思想および感情の障害がなくなってきた。そして親子が精神においても心情においても一層親密に結びつくようになってきた、ということを意味しているのである。

だから、われわれが「いま主よ、ひきたまえ、みもとにわれを」(リバイバル聖歌二二二番)と歌うとき、われわれは場所の近さではなく、関係の近さを考えているのだ。われわれが祈り求めるのは、もっと高い意識、つまり、神の臨在に対するもっと完全な意識である。われわれは不在の神に向かって、広大な空間を越えて叫ぶ必要は全くないのである。神はわれわれの魂よりも近く、われわれの最もひそかな思いよりも近くいましたもうのだ。

それではなぜ、ある人たちは他の人たちにはできない形で、神を見出すのであろうか。なぜ神はある人たちにはその臨在をあらわしながら、他の多くの人々が不完全なキリスト教的経験の薄明かりの中で苦しんでいるのを放置されるのか。むろん神の御旨は万人に対して同一である。神の家には寵児はいない。神が神の子たちの中の誰かになされたことはことごとく、他のすべての神の子たちにも同じようになさるだろう。その相違は神にあるのではなく、われわれの側にあるのだ。

その生涯と証しが広く知られている偉大な聖徒たちを幾人か手当り次第に拾ってみるとよい。聖書の中の人物であってもよいし、あるいは聖書より後の時代のキリスト者であってもよい。あなたがたはその聖徒たちがたがいに似ていないことにすぐ気づき、その事実に驚かれるにちがいない。ある場合には、その似ていない点が大きすぎて、ひどく目立つことさえある。例えば、モーセとイザヤはなんと違っていたことだろう。エリヤとダビデをくらべてもそうだ。また、ヨハネとパウロ、聖フランシスとルター、フィニーとトマス・ア・ケンピスはたがいになんと似ていないことか。その相違は人生そのものが広いのと同じくらいに広い。民族の違い、国籍の違い、教育、気質、習慣および個人的性格の違い。しかも、彼らは皆それぞれ、普通の道をはるかに越えた霊的生活の高い道を歩んだのである。

彼らの相違は偶然的なもので、神の目から見るとき、少しも重要な意味を持つものではなかったにちがいない。何か重大な点において彼らはたがいに似ていたにちがいない。それは何であったか。

私はあえて言う。彼らが共通に持っていた一つの重大な特性は霊的感受力であった、と。彼らの内なる何かが天に向かって開かれ、彼らを神に向かって駆りたてたのだ。深遠な分析のごときものは試みずに、私はただ、彼らは霊的意識を持っていた、そしてその意識が彼らの生活の最も大きなものになるまで、それをさらに養い育てたのだ、とだけ言っておこう。彼らは心の中にあこがれを感じたときに、それに対し何かをしたという点で一般の人と違っていたのだ。彼らは霊的応答という全生涯にわたる習慣を身につけたのである。彼らは天の幻に対して不従順ではなかった。ダビデが簡潔に言っているように、「あなたはおおせられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、『主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と」

人間生活のよきものはすべてそうであるが、この感受力の背後にも神がおられる。神の主権がそこにあり、それは神学的に特にこれを強調しない人々によってすら感じられている。敬虔であったミケランジェロは十四行詩の中でこれを告白している。

天のたすけなくしては
わが心は不毛の泥土
生れつきの自我の心は
何をも育くみ得ざるなり
善きわざ敬虔なるわざは
汝を種子とするものなれば
汝の許しあるところのみ
生気はあふれ出ずるなり
汝自身のまことの道を
汝われらに示さざれば
これを見いだす人はあらじ
父よ、われを導きたまえ。

これらの言葉は、偉大なるキリスト者の深い、また真剣な証しとしてこれを研究するならば、報われるところが大きいだろう。

われわれの内にきたもう神を認めることは重要ではあるが、この思いにあまり捉われすぎないように、私は警告したいと思う。それは不毛な受動性に至る確実な道だからである。神はわれわれが選びや、予定や、神の主権等の奥義を理解しないからといって、私たちの責任を問いなさりはしない。これらの真理を扱うに最もよいまた最も安全な方法は、われわれの目を神に向け、深い崇敬の思いをもって、「主よ、あなたは知りたもう」と言うことである。それらのことは神の全知のいと深き神秘に属するものである。それをとやかくせんさくすることは、神学者を作るかもしれないが、決して聖徒を作りはしない。

感受力は単一のものではなく、魂の内なるもろもろの要素の複合したもの、いや、むしろ融合したものである。それは何かに惹かれること、その方へ傾くこと、それに対して共感的に応答すること、それを持ちたいと望むことである。このことから、感受力というものは個人によって少しとか、もっと多くとか、もっと少くとかいうように、いろいろ違った程度で存在するものであることが分かるだろう。それは行使することによって増加もし、ゆるがせにすることによって消失もする。それは上から来てわれわれを捉えてしまう抵抗しがたい圧倒的な力ではない。たしかにそれは神の賜物ではあるが、他の賜物と同様に、それが所期の目的を果すためには、まず認識せられ、育くまれなければならない、そういう賜物なのである。

これを見落していることが、現在福音主義のきわめて重大な挫折の原因となっているのだ。昔の聖徒たちにとって非常に大切なものであったこの育成と行使の概念は、今日の全宗教界のどこにも場所を与えられていない。それはあまりにものろくさく、あまりにも平凡だからだ。われわれが今日要求するものは、きらびやかさと動きの早い劇的行動である。ボタンを押しさえすれば用が足りる自動機械の中に育てられたキリスト者の世代は、彼らの目標に達するのにのろくさい、まわりくどい方法はもどかしくてたまらないのだ。われわれは機械時代の方法を、神との関係にも適用しようとしている。われわれは日課の聖書の一章を読み、短い祈禱をし、そそくさと出て行ってしまう。そして、伝道会に出席したり、遠方から最近帰ってきた宗教的冒険家の語るスリルに富んだ話を聞いたりすることによって、私たちの魂の奥深くにある破綻のうめ合わせができると思っているのだ。

このような精神のもたらす悲劇的な結果は、われわれの周囲のいたるところに見られる。浅薄な生活、空虚な宗教哲学、伝道集会における娯楽的要素の過多、人間讃美、宗教的外形への信頼、準宗教的交わり、セールスマン的方法、ダイナミックな個性を聖霊の力と誤認すること等々、これらは悪疾、つまり、魂の根深い重大な疾患の徴候である。

われわれを襲っているこの重病の責任は、誰か一人の人間が負うべきものではない。またいかなるキリスト者にせよ、その責任から完全に逃れうるものはいない。われわれはみな、直接的にあるいは間接的に、この悲しむべき事態に寄与したのだ。われわれは盲目で見ることができなかったか、あるいは、あまりに臆病であったために思いきって直言することができなかったか、もしくは、あまりにも自ら満足していたために、他の人々がそれで満足して見える普通の貧弱な食物よりももっとよいものを欲求しようとしなかったのだ。別の言い方をすれば、われわれはお互いの観念を受け入れ、お互いの生活を模倣し、お互いの経験を自己の経験の規範としたのであった。そして、一世代の間この傾向はますます下に向かって行った。今やわれわれは焦げた雑草の生えている砂地の低地にまで来てしまった。そして、何よりも困ったことに、われわれは真理の言葉をわれわれの経験と調和させ、この低地を神に祝せられた人々の住む豊かな牧場と考えて満足しているのである。

現代という時代のとりこになっているわれわれ自身をその手中からもぎ離して、聖書の道に帰るには、固い決意と少なからざる勇気が必要である。だが、それはできることなのだ。過去においてもしばしばキリスト者はそうしなければならなかったのである。歴史は聖フランシスやマルチン・ルターやジョージ・フォックスのような人たちによって指導せられた大規模な復帰運動を、いくつか記録している。不幸なことに、今のところルターもフォックスも現われそうもない。そのような復帰がキリストの再臨前に期待できるかどうかということは、キリスト者たちの間で必ずしも意見が一致しているとは言えない問題であるが、それは今のわれわれにとってそう重大な問題ではない。

神がその主権を用いてこれから世界的規模でなされるかもしれないことを、私は知っているなどと主張はしない。しかし、神がその御顔をたずね求める普通の男あるいは女に対してなされることは、私も知っているし、それについて他の人々に語ることができると信じるのである。誰でも真剣に神に向かい、敬虔になるために自己を訓練しはじめ、信頼と従順と謙そんによって彼の霊的感受力を発達させようと努めるなら、その結果は彼がやせ弱っていた時代に抱いたどんな期待よりもはるかに勝ったものとなるだろう。

悔い改めと神へのまじめな復帰とによって、自分を閉じ込めている枠を破って出で、自分の霊的標準として聖書そのものにおもむく人は、彼がそこで見出すものに大きな喜びを感ずるだろう。

もう一度くり返して言おう。神の内在は事実である。神はここにいましたもう。全宇宙は神の生命にみち満ちている。その神は見知らぬ、外国の神ではない。その愛が過去数千年を通じて、罪深い人類を包んできた私たちの主なるイエス・キリストの親しき御父なのだ。そして、常に神はわれわれの注意をひき、御自身をわれわれに啓示し、また私たちと交わろうとしておられるのだ。われわれは、神の申し出に応える気さえあるなら、私たちの内に神を知る能力を持っているのだ。(それを私たちは神の探求と呼んでいるのである!)われわれの感受力が信仰と愛と実践とによって一層完全なものとなるにつれて、われわれはますます深く神を知るようになるであろう。

ああ父なる神よ、私は目に見えるものに心を奪われていた罪を悔い改めます。世俗のことにあまりにもとらわれすぎておりました。あなたはここにおられたのに、私はそれを知りませんでした。私はあなたの臨在に対して盲目でした。あなたを私の内にも周りにも見ることができるように、私の目を開いて下さい。キリストの御名のゆえに、アーメン。

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