2024年8月29日木曜日

『神への渇き』、第六章―語る声

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第六章―語る声

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。――ヨハネ一・一

キリスト教の真理について教えられたことのない知的な常識人が右の聖句に出会った場合、彼はおそらく、ヨハネは、語ること、つまり自己の思いを他の者に伝えることが神の性質である、と教えるつもりだったのだ、と結論することだろう。そして、その結論は正しいと言えよう。言葉は思想を表わす手段である。それが永遠なる御子に適用されるとき、自己表現は神性に内在するものであり、神は永遠に御自身を被造物に向かって語ろうとしておられるという信仰にわれわれは導かれる。聖書全体がこの思想を支持している。神は常に語っておられる。神は語られた、ではない、神は語りつつあるのだ。神はその御性質のゆえに絶えず明瞭に語っておられる。神は世界をその語る声をもって満たしておられるのである。

われわれが直面しなければならぬ現実の一つは、神が創られた世界における神の声である。最も簡単で、最も満足すべき唯一の天地開闢説は、「主がおおせられると、そのようになった」これである。自然法則の原因は被造物に内在している神の生ける声である。だが、すべての世界を生みだしたこの神の言葉とはすなわち聖書であると考えることはできない。なぜなら、その言葉は決して書かれたり印刷されたりしたものではなく、万物の構造に向かって語られた神の意志の表現であるからだ。この神の言葉は世界を生ける力をもって満たしている神の息である。神の声は自然における最も強力な力、いや、自然における唯一の力である。なぜなら、すべてのエネルギーは力に満ちた言葉が語られたからこそ存在しているのであるから。

聖書は書かれた神の言葉である。そして、書かれたものであるために、インクや紙や皮の必要によって限定され制限を受けている。しかし、神の声は生きており、主権者なる神が自由であるように、自由である。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」命は神の語る言葉の中にある。聖書の中の神の言葉は、それが宇宙における神の言葉と符合するがゆえにのみ、力を持ち得るのだ。書かれた言葉を強力なものにしているのは、現に語っておられる声なのである。もしそうでなかったら、聖書の言葉は表紙と裏表紙の間に閉じこめられて眠っていることだろう。

神が天地創造の際に、具体的に物と接触して、まるで大工のようにそれを作ったり、はめこんだり、建てたりしている姿を想像するとき、われわれは低級かつ原始的な物の見方をしているのだ。聖書の教えるところは、それとは違っている、「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。・・・・主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた・・・・ことを、悟るのである」神はここで、神の書かれた言葉を指しているのではなく、語りつつある声を指しておられるのだということを、われわれは忘れてはならない。世界に満ちている神の声、すなわち聖書に先立つこと幾世紀かとても数えられぬほど昔から語っている声、創造の暁以来たえて黙したことのない、今もなお宇宙の隅々にまでひびきわたっているあの声を指しておられるのだ。

神の言葉は生きかつ強力である。はじめに神は無に対して語り、無はあるものとなった。混とんはその声を聞いて秩序となり、暗黒はそれを聞いて光となった。「神はまた言われた、そのようになった」この一対の句は、原因と結果を表わすもので、創世記の天地創造の物語の中に何回となく出てくる。「言われた」が「そのように」を説明している。「そのように」は「言われた」が継続的に現在化せられたものである。

神がここにおられるということ、および神は常に語っていたもうということ、この二つの真理が、聖書の他のすべての真理の背後にある。これなくしては啓示は全くあり得ない。神は、一冊の書物を書き、使者をつかわしてこれを遠くの人々に送り、彼らが神の助けなしにそれを読むようにされたのではない。神は書物を通して語り、その語られた言葉の中に住み、たえず言葉を語りつづけ、またその言葉の力が永遠に存続するようにしておられるのだ。神が土くれに息を吹きかけられると、それが人間になった。神が人間に息を吹きかければ、人間はたちまち土くれになってしまうのだ。「人の子よ、帰れ」という言葉は人類堕落の際に、神がすべての人の死を定めて語られたものであるが、神はその後、この言葉にさらにつけ加えて語る必要はなかった。地の表を出生から墓場に向かって歩いて行く人類の悲しい行列は、神の最初の言葉だけで十分であることを、明らかに示している。(詩篇九〇・三参照――訳者)

われわれはヨハネによる福音書の中のあの意味深い言葉、すなわち、「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」という聖句に、まだ十分注意していない。この言葉の句読点をどんなに動かしてみたところで、そこに含まれている真理に変りはない。つまり、神の言葉は魂のうちなる光として、すべての人の心に影響を与えるのである。すべての人の心の中に光は照り、御言葉は鳴りひびいている。そして誰もそれから逃れることはできない。神が生きておられ、この世界にいますならば、そのようなことは、当然あるべきことであろう。ヨハネはあるべきことだと言っている。聖書の話を一度も聞いたことのない人々でさえ、彼らの心から一切の弁解を永遠に取り除くように、はっきりと教えられている。「彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現わし、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」「神の見えない性資、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」

この普遍的な神の声は古代のヘブル人によってしばしば知恵と呼ばれ、それは到るところに鳴りひびき、全地にわたって人の子らから何らかの応答をさがし求めていると考えられていた。箴言第八章は次の言葉で始っている。「知恵は呼ばわらないのか、悟りは声をあげないのか」ついで、記者は知恵を「道のほとりの高い頂」に立っている美しい女として描いている。彼女は誰も聞きそこなうことがないように、あらゆる場所から声をあげて呼ばわる。「人々よ、わたしはあなたがたに呼ばわり、声をあげて呼ぶ」それから彼女は思慮のない者、愚かな者に彼女の言葉に耳をかたむけるように嘆願する。神の知恵が嘆願しているのは人間の霊的応答である。彼女が常に求めながら、めったに得ることのできない応答である。われわれの永遠の幸福は私たちがその声を聞くことにかかっているにもかかわらず、われわれはそれを聞かないように私たちの耳を訓練してしまった。何という悲劇だろう。

この宇宙に内在する声は常にひびいており、人々は彼らの恐怖の出処が分からない場合にも、しばしばその声に悩まされた。あたかも生ける霧のごとくに人々の心の上に垂れこめるこの声は、歴史のあけぼのからこのかた、何百万という人々によって告白されてきた良心の悩みと不死への憧憬との未知の原因であったのだろうか。われわれはこの声に直面することを恐れる必要はない。この語る声は事実である。人々がそれに対してどういう反応を示してきたかは、誰しも知るところである。

神が天より私たちの主に語りたもうたとき、それを聞いた自己中心の人々は、それを自然の原因によって説明し、「雷がなったのだ」と言った。神の声を自然法則に訴えて説明するこの習慣は、現代科学の根底に横たわっている。このいきいきと息吹いている宇宙には、あまりにも不可思議な、あまりにもおそろしい、誰にも理解できない神秘的ななにものかがあるのだ。信仰者はそれを理解しているなどと主張はしない。彼はひざまずいて、「神よ」、とささやくのだ。この世の子らもひざまずくが、それは礼拝するためではない。事実の原因と過程を調べ、探求し、発見するためにひざまずくのだ。現在われわれはたまたま世俗的な時代に生きている。われわれの思想的習慣は科学者のそれであって、礼拝者のそれではない。私たちは畏敬するよりも、説明する傾向にある。「雷がなったのだ」と叫んで、この世の道をわれわれは行く。しかし、あの声は今もひびき、たずね求めている。世界の秩序と生命はその声に依存している。しかるに多くの人々はあまりに忙しく、あるいはあまりに頑迷であるためにその声に注意を払おうとはしない。

われわれは誰でも、自分でも説明できないような経験をしたことがあるはずである。突然孤独感に襲われるとか、宇宙の広大さに直面して驚異や畏敬を感ずるとか、そういった経験である。あるいはまた、何か別の太陽から輝き出たような光がさっとさし込んできて、一閃の間に、われわれはこの世ならぬ他の世界から来たのであり、私たちの起源は神にあるのだという確信を与えてくれる。そういうような経験をしたことがあるはずである。そのときにわれわれが見、感じ、あるいは聞いたことは、われわれがそれまで学校で教わったすべてのことと反対であり、私たちの以前の信念や見解とは甚だしく違ったものであったかもしれない。一瞬、疑いの雲が巻き去られて、われわれが自分の眼で見、自分の耳で聞く間、私たちはいつもの懐疑を中絶せざるを得なかったはずだ。こういうことをどう説明しようとも、少くとも、このような経験は世界における神の臨在と御旨を人類に伝えようとする神の執ような努力とから出たものかもしれない、という可能性を認めないなら、われわれは事実に対して公平であるとは言えないと私は思う。私たちはこのような仮定をあまり軽率に捨ててしまわないようにしよう。

人がこの世で作り出したよきもの、美しきものはすべて、地上にひびきわたっているあの創造的な声に対する不完全な、罪に妨げられた応答の結果である、というのが私の信念である。(私のこの考えに賛同してくれる人が一人もいなくても、私は別に不愉快に思わない。)美徳について高い夢を抱く道徳哲学者、神と不死とについて思索する宗教思想家、平凡な素材から純粋なる永遠の美を創造する詩人や芸術家、われわれは彼らをどうしたら説明できるだろうか。ただ「それは天才だ」と言うだけでは不十分である。それでは天才とは何か。天才とは、あの語る声につきまとわれて、自分ではただ漠然としか理解していない目的を達成するために、あたかも何かに憑かれた人のように骨折り、力する人間のことを言うのではないだろうか。その偉大な人間が努力している中に神を見失い、神に逆らうようなことを語ったり書いたりしたとしても、それは私が提出した見解を論破することにはならない。聖書に示された神の救いの啓示は、救いをもたらす信仰と、神との平和とにとってなくてはならぬものである。甦えりたまえる救い主を信ずることは、不死に対する漠然たる心の動きが、われわれを神との安らかな満ち足りた交わりにまで導くために、どうしても欠くことのできないものである。以上述べたことはキリストと関係なく、キリストの外にあるあらゆるすぐれたものについての一応納得の行く説明であると私には思われるのであるが、私の考えを受け入れなさらなくても、あなたがたはりっぱなキリスト者であり得る。

神の声は親しみやすい声である。誰も、その声に反抗する決心をすでにしていさえしなければ、これを聞くことを恐れる必要はない。イエスの血潮は人類のみならず、すべての被造物をも覆っている。「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」われわれは安んじて友好的な天を人々に伝えることができるのだ。地のみならず天もまた、柴の中に住みたもうお方の善意に満ちている。完全なる贖罪の血がこれを永遠に保証しているのである。

誰でも聞く意志さえあれば、この声が聞えるはずである。今日は、人々が聞けという奨めによろこんで従うような時代では決してない。というのは、聞くことは今日では、通俗的宗教の一部になっていないからである。われわれはそこから全然反対の極にいる。宗教は、騒音と何でも大きいことと活動と怒号とを神はよろこばれるという、恐るべき異端を受け入れてしまった。しかし、われわれは心を安んじてよろしい。最後の大いなる戦いの嵐に巻き込まれた国民に向かって神は言われた、「静まってわたしこそ神であることを知れ」今日もなお神はそう言いつづけておられる。あたかも、われわれの力と安全とは騒音の中にではなく、沈黙の中にあるのだと言おうとしておられるかのように。

われわれは静まって神の前に侍することが大切である。できれば聖書を前に拡げて、独りになるのが一ばんよい。そのとき、私たちにその意志さえあるなら、私たちは神に近づき、神が私たちの心に語りなさるのを聞きはじめるだろう。普通の人にとってその順序は次のようなものであろうと私は思う。まず第一に園を歩いておられるような臨在の音。次に、もう少しはっきりしているが、明瞭というにはまだ遠い声。次に、聖霊が聖書を照らしはじめる幸いな瞬間、そのとき、単なる音、もしくはせいぜい声にすぎなかったものが、親友の言葉のように、親しい、明瞭な、解りやすい言葉となる。それから、生命と光、それにもまして、イエスを救い主、主、すべてのすべてとして見、抱き、その中に憩うことのできる能力が訪れるだろう。

神は宇宙において明瞭に語っていたもうということをわれわれが確信するまで、聖書はわれわれにとって生ける書物とは決してならないだろう。死せる非人格的世界から独断的な聖書に飛躍することは、たいていの人々にとっては耐えられないことだ。彼らは聖書を神の言葉として受け入れるべきことを認め、神の言葉として考えようとはするものの、その頁に書かれている言葉が実際に自分たちのためのものであると信じることができないのだ。人は「これらの言葉は私に向かって語られているのだ」と言うかもしれないが、心の中で本当にそうだとは感じもせず、また知りもしないのである。彼は心理分裂の犠牲者なのだ。彼は神を書物の中でのみ語り、その他の処ではどこでも沈黙しているものと考えようとする。

私は、われわれの不信仰の多くは真理なる聖書に関する誤った観念と誤った感情に基づいている、と信ずるものである。沈黙の神が突如書物の中で語りはじめ、その書物ができ上るとともに、再び永遠の沈黙に帰ってしまった。今われわれは、神が少しの間おしゃべりする気分になったときに語ったその言葉を記録したものとして、聖書を読んでいる。そのような観念が頭の中にあって、どうしてわれわれは信じることができようか。実際には、神は沈黙しておられないし、また沈黙なさったことは一度もないのだ。語ることは神の性質である。聖なる神の第二格位は言葉と呼ばれている。聖書は神の絶えざる語りかけの必然的結果である。それは、われわれに親しい人間の言葉におきかえられた神の心の誤りなき宣言である。

われわれが、聖書はかつて語られた書物であるばかりでなく、今も語りつつある書物であるという観念をもって聖書に近づくならば、新しい世界が宗教的雲霧の中から起き上がってくるだろうと、私は思う。予言者たちは「主なる神はこう言われる」というのが常であった。彼らはこれを聞く人々に、神はたえず現在において語っておられるということを理解させようとしたのだ。われわれは、ある時にある神の言葉が語られたことを正しく示すために、過去形を使うのはよいが、ひとたび語られた神の言葉は、ちょうど一度生れた子供が生きつづけ、一度造られた世界が存在しつづけるように、語られつづけるものであることを忘れてはならない。これは不完全な譬えにすぎない。なぜなら、子供は死に、世界は燃え尽きるが、神の言葉は永遠に存続するものだからである。

もし、あなたがたがつづいて主を知りたいと思うなら、それがあなたがたに何かを語ってくれることを期待しながら、直ちに開かれた聖書のもとに行きなさい。聖書は都合次第でいつでも押し退けられる物だという観念を持って行ってはならない。それは物以上のものである。それは声であり、言葉であり、また生ける神の言葉そのものである。

主よ、聞くことを私に教えて下さい。現代は騒々しい時代で、私の耳はたえず襲ってくる数知れぬ耳障りな音のために疲れ果てています。少年サムエルがあなたにむかって、「しもべは聞きます。お話しください」と言った、あの心を私に与えて下さい。あなたが私の心に語るのを聞かせて下さい。この世の音がみな消え失せて、あなたの語られるうるわしい声だけが残るとき、その声が私にとってすでに親しいものであるように、今からその声の調子に私を馴れさせて下さい。アーメン。

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