2024年9月17日火曜日

『神への渇き』、第七章―魂の凝視

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第七章―魂の凝視

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。――ヘブルー二・二

第六章で述べたあの知的な常識人がはじめて聖書を読むようになったと仮定してみよう。彼はその内容については何の予備知識もなしに、聖書に近づく。彼は全然偏見を持っていない、別に何かを証明しようとするのでもなく、また弁護しようとするのでもない。

彼が聖書をまだそれほど読まないうちに、彼の心は頁の中で特に目立っている幾つかの真理に気がつきはじめる。それらの真理は神の対人間交渉の記録の背後にある霊的原理、聖徒たちが「聖霊に感じて」書いたものの中に織り込まれている霊的原理である。彼が読みつづけて行くうちに、これらの真理が彼に明瞭になってくる。彼はそれらに番号を付け、その各々の番号の下に簡単な要約を書き入れてみたいと思うようになる。これらの要約は彼の聖書的信条の教義となるだろう。更に読みつづけて行っても、それらの点は拡大され、強められるほかには、そのために影響されることはない。彼は聖書が実際に教えていることを発見しはじめたのである。

聖書が教えている事柄の一覧表の中で高位を占めているのは信仰の教義であろう。聖書が信仰に与えている特別の重要性はあまりにも明白だから、彼がそれを見落すということはあり得ない。彼はたぶん次のように結論するだろう。信仰は魂の生活において最も重要なものである。信仰なくしては神を喜ばせることはできない。信仰は私のために何でも獲得してくれるし、神の国の何処にでも私をつれて行ってくれる。だが、信仰がなければ、神に近づくことも、許しも、解放も、救いも、交わりも、またいかなる霊的生活もあり得ない。

彼がヘブル人への手紙第十一章に達する頃までには、そこに明言されている信仰への讃辞は、彼にとって奇妙なものとは思われなくなっているだろう。彼はロマ人およびガラテヤ人への手紙の中で、パウロの強力な信仰擁護論を読んだであろう。後に彼がさらに進んで教会史を読むなら、彼は、信仰がキリスト教の中心であることを示している改革者たちの教えの中に見られる、驚くべき力を理解するにちがいない。

さて、もし信仰がそんなに重要なものでありわれわれの神探求において欠くことのできない必須条件であるとするならば、われわれがこの最も尊い賜物を持っているか否かという問題について真剣に考えるのは当然だろう。ところで、われわれの精神は御承知の通りのものなので、遅かれ早かれ、われわれが信仰の本質について探求しだすのは避けられないことである。信仰とは何であるか、ということは、私は信仰を持っているか、という問に接している。答えがどこかにあるものならば、その答をわれわれは要求するのである。

信仰について説教したり書いたりする人たちは、大てい同じようなことを言う。信仰とは約束を信ずることだ、それは神の言葉を額面通りに受けとることだ、それは聖書を真理なりと信じて、その上に立つことだ、と彼らはわれわれに語る。彼らの書く本や説教のその他の部分は、たいてい信仰の結果として祈りが応えられた人々の物語で埋められている。それらの祈りの答は大部分、健康とか、金とか、身体の守りとか、あるいは事業の成功とかいうような実際的、一時的性質の直接的な賜物である。教師が哲学的傾向の人である場合には、彼は右に述べたのとはちがった道を取る。彼は形而上学的混乱の中に私たちを引きずり込み、定義したり、しなおしたりして、われわれを訳の分からぬ心理学的術語をもって圧倒し、さらでだに髪の毛ほどの細さの信仰をますます薄く削り取って、ついにくもの糸のような削り屑の中に消え失せさせてしまうのである。彼が語り終えたとき、われわれは失望の心を抱いて立ち上がり、「入ってきたときと同じ戸口から」出て行く。たしかに、信仰にはこのようなもの以上の何かがなければならぬ。

聖書においては信仰を定義しようとする努力はほとんど全くなされていない。ヘブル人への手紙第十一章一節に書かれている短い定義のほかは、信仰についての聖書の定義を私は知らない。そこにおいてさえ、信仰は機能的に定義されているのであって、哲学的にではない。つまり、それは信仰のはたらきに関する叙述であって、信仰の本質に関するものではないのである。それは信仰の存在を前提とし、信仰とは何かを示すよりも、むしろ信仰はいかなる結果を生じるかということを示している。私たちはそこまで行って、それ以上は進もうと努めない方が賢明であろう。われわれは信仰はどこから来るか、またいかにして来るかを教えられている。「信仰は神の賜物である」また「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」これだけのことは明らかである。トマス・ア・ケンピスの言葉をもじって言うと、「私は信仰の定義を聞くよりも、むしろ信仰を働かせたい」

これからさき、本章に「信仰とは」というような言葉が出てきた場合には、それは信仰者によって行使されて、はたらいている信仰がどのようなものであるかを指しているものと解釈していただきたい。ここでは、定義しようという考えを捨てて、行為の中に経験される信仰について考えてみることにする。だからわれわれの思想の様相は実践的であって、理論的ではない。

民数記に記されている一つの劇的な物語の中に、信仰が活動している姿を見ることができる。イスラエルの民は失望し、神にむかってつぶやいたので、主は火のへびを民のうちに送られた。「へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ」そこでモーセは民のために主に祈り、主はその祈りを聞かれて、へびにかまれた人々のために一つの治療法を示された。主はモーセに青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて、すべての人に見えるようにするよう命じられた。「すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」モーセはそれに従った。「すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた」(民数記二・四~九)。

新約聖書においては、この歴史の重要なる断片は、ほかならぬ私たちの主イエス・キリスト御自身によって解説されている。彼は人々にいかにして救われるかを説明し、それは信じることによってであると教えておられる。そして、それを分かりやすくするために、民数記のこの事件に触れて、「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書三・一四、一五)。

例の常識人はこれを読んで一つの重要な発見をするにちがいない。彼は「見る」と「信じる」とは同意語であることに気がつくだろう。旧約聖書のへびを「見ること」は、新約聖書のキリストを「信じること」と同じである。つまり、「見ること」と「信じること」とは同じことなのだ。また、彼はイスラエルの民が彼らの肉体の目をもって見たのに反し、信じることは心においてなされるものであることを理解するだろう。彼はおそらく信仰とは魂が救いの神を凝視することである、と結論するだろうと私は思う。

このことが分かったとき、彼は前に読んだ聖句を思い出し、その意味が洪水のように彼の上に押し寄せてくるのを感じるだろう。「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない」(詩篇三四・五)。「天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます」(詩篇一二三・一、二)。あわれみを求めているこの人は、ここで、あわれみ深き神にまっすぐに目をそそいで、あわれみを与えられるまでは決して目を神から離さない。私たちの主御自身もまた常に神に目をそそいでおられた。「天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された」(マタイによる福音書一四・一九)。本当に、イエスはそのみわざを、常に内なる目を御父にそそぐことによってなされることを教えたもうたのである。彼の力はたえず神を仰ぎ見ることの中にあったのだ(ヨハネによる福音書五・一九~二一)。

聖書全体の趣意もまた今われわれが引用した少数の聖句と完全に一致している。それは、人生の競走を走ることについて、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」とわれわれに教えているヘブル人への手紙の言葉の中に、要約されている。これらのすべてのことから、われわれは信仰とはただ一度なされた行為ではなく、心がたえず三位一体の神を凝視することであるということを学ぶのである。

そうすると、信じるということは心の注意力をイエスにむけることである。それは精神を引きあげて「神の小羊」を見、残る生涯の間決して中断することなく見つづけることである。はじめのうちは、それは難かしいかもしれないが、イエスのすばらしい人格をたえず静かに、むりに緊張せずに仰ぎ見ているうちに、だんだん易しくなってくる。心が何かほかのものに奪われて、それが妨げられることがあるかもしれないが、ひとたび心をイエスに委ねてしまえば、しばらく彼から離れてさまようことがあっても、ちょうど渡り鳥が必ず元の窓に帰ってくるように、われわれの注意は再び帰ってきて彼の上に憩うであろう。

私はこのひとたびイエスに委ねるということ、つまり、永遠にイエスを凝視しようとする心の決意を確立するこの大きな意志的行為の重要性を強調したいと思う。神はこの決意をわれわれが実際に行った選択として解釈してくださり、この悪しき世においてわれわれがいろいろのものに心を奪われるのを、必要に応じて酌量してくださるのだ。神はわれわれが心の方向をイエスに定めたことを知りたもう。私たちもまたそれを知っている。そして、今形成されつつある魂の習慣がしばらく後には一種の霊的反射作用となって、もはや私たちの側における意識的努力を必要としなくなる、ということを知ってみずから慰めるのだ。

信仰はあらゆる徳の中でもっとも自己を見つめることの少いものである。それはその本性から言って自己の存在をほとんど意識しない。その前にあるものは何でも見るが、それ自身を見ることは決してできない目のように、信仰はそれが向けられている対象に専念して、それ自身に対しては全く無関心である。われわれは神を見つめている間は、自分を見ない――まことに幸いな厄介払いである。自分を深めようと苦しみ、ただ失敗をくり返えすほかはなかった人は、自分の魂をいじりまわすのをやめ、目をそこから離して完全なるお方を見上げるとき、本当の安心を経験することだろう。彼がキリストを見ているうちに、彼がかくも長い間しようと努めてきたことが彼の心の中でなしとげられるだろう。彼の中にきたもう神が、みこころに従ってなしとげて下さるからである。

信仰はそれ自身では称讃に価する行為ではない。称讃は信仰が向けられている当のお方の受くべきものである。信仰はわれわれの目の方向を変えること、われわれが自分の視覚の焦点から出て、神を焦点に入れまつることである。罪はわれわれの視野を内に曲げて自分ばかりを見つめるようにしてしまったのである。不信仰は神のおられるべきところに自我をおいた。それは、「わたしはわたしの王座を神の王座の上におこう」と言ったサタンの罪に危険なほど近よっている。信仰は内を見ず外を見る。そしてそのとき全生活は完全に調和するのである。

それはあまりにも簡単すぎるように思われるかもしれない。しかし、われわれは弁解する必要は全くないのだ。助けを求めて天に昇ろうとする人にも、地獄に下って行く人にも、神は言われる、「言葉、すなわち信仰の言葉は、あなたの近くにある」と。神の言葉は目をあげて主を見よとわれわれを促がす。このようにして、幸いな信仰の業ははじまるのである。

私たちが心の目をあげて神を見つめるとき、私たちは友好的な目がわれわれをやさしく見返えすのに必ず出会う。というのは、「主の目はあまねく全地を行きめぐる」と記されているからである。「汝は見たもう神なり」これは経験の語る甘美な言葉である。見上げる魂の目が見おろす神の目に出会うとき、天国はすでにこの地上において始まったのである。

「あなたの全力がわたしに向けられているがゆえに、わたしの全力をあなたに向けるとき、あなたが絶えざる心遣いをもってわたしを包みたもうがゆえに、わたしもまた全心を集中してあなたのみを見つめ、わたしの心の目をあなたから片時も離さぬとき、愛の本体なるあなたが御自身をわたしにのみ向けたもうたがゆえに、わたしもまたわたしの愛をあなたにのみ向けるとき、ああ主よ、あなたのよろこばしき愛がかくもやさしくわたしを包んでくださるあの抱擁を、わたしの人生から除いてしまったら、あとには何が残るでありましょうか。」(一)四百年前にクサのニコラスはそのように書いたのであった。

私は、この昔の神の人についてもう少しお話しておきたいと思う。彼は今日ではキリスト教信者の間でもあまり知られていない。現代の根本主義者(ファンダメンタリスト)たちの間では全く知られていない。われわれは彼のような霊的香りをもった人々、および彼らが代表しているキリスト教思想の流派を少しでも知るようになれば、得るところが多いだろうと私は思っている。キリスト教文書は、現代の福音主義の指導者たちによって受け入れられ是認されるためには、一種の「政綱」のごとき、きまった思想の線に注意深く沿って行かなければならず、それを離れるのはあまり安全でないといった状態である。このような状態がアメリカでは半世紀もつづいたために、われわれは独りよがりの自己満足に陥ってしまった。われわれは奴隷のごとき献身的態度でお互いに真似し合い、私たちの周りの人たちが皆言っているのと同じことを言おうとして一生けんめいに骨折っている。そのくせ、それに対する弁解を見つけようとしたり、是認されている主題について安全をそこなわない程度のちょっとした変奏を試みようとしたり、せめて新しい引例を加えようとしたりして苦労しているのである。

ニコラスはキリストの本当の従者で、主を愛し、その顔はイエスの人格に対する献身によって晴ればれと輝いていた。彼の神学は正統派のそれであったが、それは甘美な芳香にみちていた。イエスに関することはすべて、当然よき香を放つべきなのだ。たとえば、永遠の生命に関する彼の思想はそれ自身美しいものであるが、もし私に誤りがなければ、それは今日われわれの間に普及している思想よりも、ヨハネによる福音書十七章三節に一層近い精神をもっている。ニコラスは言う、永遠の生命とは「あなたがわたしを、然り、わたしの魂の秘密の場所をさえも絶え間なく見ていたもうあの幸いな凝視以外の何ものでもありません。あなたにとって、見ることは生命を与えることであります。それはあなたのこの上なく甘い愛をたえず分かち与えることであります。それは愛を分け与えることによってわたしのあなたへの愛を燃え上がらせることであり、燃え上がらせることによってわたしを養うことであり、養うことによってわたしのあこがれに点火することであり、点火することによってわたしによろこびの露を飲ませることであり、飲ませることによってわたしの内に生命の泉を注ぎ込むことであり、注ぎ込むことによっていよいよそれを増し加え、永続せしめることであります。」(二)

さて、もし信仰が神に対する心の凝視であり、この凝視は心の目をあげて、すべてを見そなわしたもう神の目に出会うことにほかならないとすれば、信仰ほど易しいものはまずないということになる。最も重要なことを平易にし、どんなに弱い者にも、貧しい者にも手の届くところにそれを置かれたというのは、いかにも神様らしいことではないか。

以上述べたことから幾つかの公正な結論を引き出すことができると思う。例えば、信仰の単純さということである。信じることは見ることなのであるから、それは特別の設備や宗教的な装飾品がなくてもできるはずである。神は、生死にかかわる唯一の重大事が気まぐれな偶然によって支配されることのないように配慮してくださったのである。設備は崩壊したり、消失したり、水洩りしたりするし、記録は火に焼かれ、牧師は遅刻し、教会は焼失することもあり得る。これらのものはいずれも魂にとっては外面的なことであり、偶然の事故や機械的不備のために被害を蒙るものであるが、見ることは心に属することであって、立っている時も、ひざまずいているときも、あるいは、教会から一千マイルも離れたところで臨終の苦しみの中に横たわっているときでさえも、誰にもまちがいなくできることなのである。

信じることは見ることであるから、それはいつでもできる。あらゆる行為の中で最も楽しい行為である信仰には、ある季節が他の季節よりも具合がよいということはない。神は決して救いを新月や祝日や安息日に依存せしめたまわなかった。人は復活節の日曜日の方が、例えば八月三日の土曜日や十月四日の月曜日よりもキリストに一層近いなどということはない。キリストが仲保者の王座に座しておられるかぎり、毎日がよき日であり、すべての日が救いの日なのである。

神を信じるという幸いな業には場所もまた関係がない。心の目をあげてイエスに注ぐとき、あなたがたのいるところが寝台車であろうと、台所であろうと、あなたがたは直ちに聖所の中に入っているのである。あなたがたの心が神を愛し、彼に従う決意をしていさえすれば、あなたがたはどこにいても神を見ることができるのだ。

ところで、次のように反問する人がいるかもしれない。「あなたの証していることは、修道士とか牧師とかいうような、商売柄静かな冥想に費やす時間をたくさん持っている特種な人たちのためのものではないのですか。わたしは忙しい労働者で独りでいる時間はほとんどないのです」それに対して、私の述べる生活は職業に関係なく、すべての神の子供たちのためのものです、と答え得ることを私は幸福に思う。事実、信仰は毎日はげしい労力にたずさわっている多くの人々によって、大きな喜びの中に実践せられている。それは誰にでも手の届くところにあるのだ。

多くの人々が私の語っている秘決を見出し、彼らの心の中に起っていることについてはあまり考えないで、この内なる目をもって神を凝視するという幸いな習慣をたえず実践している。彼らは彼らの心の中にある何かが神を見ていることを知っている。この世の仕事にたずさわるために、神への意識的集中を中止しなければならないときでも、彼らの心の中では神との秘かな交わりが常に行われている。彼らの注意力が一瞬必要な仕事から解放されるや否や、それは直ちに、再び神のところへとんで行く。これは多くのキリスト者の証しするところであり、あまりに多くの人々の経験していることなので、私はこのように語りながらも、まるで誰かの言ったことをそのまま引用しているような気がするほどである。もっとも、誰の言葉を、またどれほど多くの人々の言葉を引用しているのか、それは分からないけれども。

私は通常用いられている恩寵の手段が無価値であるというような印象を残したくない。それらに価値があることは絶対に間違いのないことである。独りでする祈りはすべてのキリスト者によってなされなければならない。長い時間をかけて聖書について冥想することはわれわれの魂の凝視を純化し、正しく導いてくれるし、教会に出席することは私たちの視野を拡げ、他の人々に対する私たちの愛を増させてくれる。奉仕もはたらきも活動もみなよいものであり、すべてのキリスト者のなすべきことである。しかし、これらすべてのものの底にあって、それらのものに意味を与えているのは、この神を見つめるという心の習慣である。いわば新らしい二つの目がわれわれの心の中に生じて、外なる目が過ぎゆくこの世の有様を眺めているときに、その内なる目は神を見ていることができるのである。

ある人は言うかもしれない、あなたは個人的な信仰を、釣合を全く失うほどに拡大しているのではないか、新約聖書の「われわれ」を利己的な「わたし」によって置きかえているのではないか、と。同一の音叉に音を合わせた百台のピアノは自動的に、お互いに音を合わせたと同じことになるということを、あなたがたは考えたことがあるだろうか。それらのピアノはお互いに調律することによってではなく、一台一台がそれぞれ個別的に別の標準に従って調律されことによって、同一の調子をもつようになるのである。それと同じように、それぞれキリストを見つめている百人の礼拝者が集まるときには、彼らが「統一」意識を持つようになって、彼らの目を神から離してお互いの交わりをもっと深めようと努力する場合よりも、心においてお互いに一層近くつながっているのである。個人的宗教が純化されるとき、社会的宗教は完成される。おのおのの肢体が健康になるとき、身体全体が強くなる。神の教会全体はそれを構成している成員がよりよく、より高い生活を求めはじめるとき、力を得るのである。

以上述べたすべてのことは、本当の悔い改めと、生活を神に全く委ねることとを前提としている。これは言うまでもないことであろう。なぜなら、すべてを神に委ねた人でなければ、ここまで読んでくれないだろうから。

心の目をもって神を見つめるというこの習慣がわれわれの内に確立するようになると、われわれは神の約束と新約聖書の雰囲気に一層調和した霊的生活の新しい高みに押し上げられるだろう。私たちの足が、人々に立ち交ってこの世の単純な義務という低い道を歩いている時でも、三位一体の神が私たちの住家となるだろう。そのとき、われわれは本当に人生の最高善を見出したと言ってよい。「そこに、われわれの欲求し得るあらゆる喜びの源泉がある。それ以上によきものは人間にも天使にも考え出すことができないばかりでなく、これ以上によきものはいかなる存在の形式の中にも存在し得ないのだ!なぜなら、それはあらゆる理性的欲求の絶対的極大であって、それより大きなものは存在しようがないからである」(三)

おお主よ、私はよき言葉が、この世のものから目を離してあなたを見つめ、そして満足を得るようにと、私を招く声を聞きました。私の心はそれに応えようと切望しています。けれども罪が私の目を曇らせたために、あなたをぼんやりとしてしか見ることができません。私がこの世の巡礼の旅をつづける間、日々覆いなき目をもってあなたを見つめることができるように、どうぞ御自身の尊い血によって私を洗い、私の心を潔めて下さい。そのとき、私はあなたが聖徒たちの讃美と、信じるすべての人々の感嘆の中に現われなさるその日に、あなたの輝く御姿を見まつる心の備えができるでありましょう。アーメン。

註(一)、(二)、(三)、クサのニコラス、「神のおもかげ」より。

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