2024年8月28日水曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第五章 いのちの光

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第五章 いのちの光

『すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。』(エゼキエル43・2、4~5)

『彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。』(エゼキエル44・4)

『彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。』(エゼキエル47・1)

『この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。』(ヨハネ1・4)

『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』(ヨハネ8・12)

『イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』(ヨハネ3・3)

『わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』(ヨハネ9・5)

『さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネ12・20~24)

『わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。』(ヨハネ12・46)

『そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』(第二コリント4・4)

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1・17~19)』

いのちの光!いのちの光というこの問題についてより深く考え始める前に、単純ですが率直な質問をさせてください。私たちはみな、心の底から真実をもって、神の目的にかなうこと、その目的が何であるかを知り、そして、自分がその中にいることに、真摯に関心を払っていると言えるでしょうか?すべては、私たちがそのような関心を持っているかどうかに依存しています。これは、実践的な問題です。この問題は、ただ真理に関心を持ち、霊的なものごとについての知識や情報を増やすことだけにとどまらず、全く別の方向へと私たちの目を向けさせるはずです。今、この時、私たちが自分自身の心を見つめるなら――私たち一人一人、ぜひそうしましょう――、私たちは本当に、神の目的、神の偉大な永遠の目的にかなうものとなることを、純粋な気持ちで、強く願っていると言えるでしょうか?私たちは、神の前に完全に自己を犠牲にするという意味から、主に自分の全てを委ねる覚悟、また、主がご自身の永遠の目的の中に私たちを置かれるために、どんな犠牲をも払ってくださるという理解を主と分かち合う覚悟ができているでしょうか?主の民として、私たちは立ち止まって、この事実と向き合い、そして、神の目的にかなう生き方を始める用意ができているでしょうか?皆さんの中に、その状態に達している人が幾人かはいることは承知していますし、そして、その状態にいる方々は、そのことであまり訓練を受ける必要はないでしょう。しかし、中には、物事をほぼ当然のように受け止めている人がいる可能性は十分にあると思います。つまり、彼らはキリスト者であり、彼らは信者であり、彼らは主に属しており、救われており、キリストへの信仰を持ち、長い間、おそらく幼少のころから、キリスト教の団体や制度と関わりを持ってきた人たちです。私が最初にこの訴えをしたいのは、こんな人たちに対してです。神の言葉の中で、繰り返し使われている言い回しがあります――『世界が存在する前に、キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』この真実が、私たちの心の地平の上に何よりも高くつき出して目立っているでしょうか。それとも、ずっと遠く離れたところにある、ぼんやりとした、背景に隠れたものでしょうか?私がこのことを強調したいのは、私たちには、取り組むべき目的を持っている必要があるからです。神には、何か取り組むべき働きがあるはずであり、そして、私たちも同じ立場を取るなら、前に進むことができ、その神の目的とそれを実現する道について、啓示が導かれるかもしれません。しかし、私たちがそのことについて非常に前向きな立場と態度を取らなければ、あなたに向かってたくさんのことが言われても、それは、あなたにとっては大した意味のないただの戯れ言に過ぎません。

神の目的

さて、私たちには、多少なりとも、自分のほうが先に進むことを正当化する懸念があることを考えると、私たちはこう問いかけます、神の目的とは何なのか?神の目指す目標は何なのか?そして、いろいろな言い方ができる中でも、その答えはある一つのかたちで表現できると私は思います。神の目的とは、それがかなうとき、その器の中で、また、その器を通して、ご自身の栄光をこの宇宙に向けて輝かせることのできる器を持つことであると言えます。エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るとき、そこには神の栄光があり、その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであったという例えに、そのことを暗示されています。『神の栄光があった!』これこそ、神が人々のために見据えている目標、すなわち、霊的な意味で太陽となること、すなわち、神の霊的知性の宇宙に対して、この宇宙にとっての太陽のような存在になることであります。その国々では、地を照らす光の中を歩むことになり、太陽は必要なく、月も必要なく、なぜなら、そこに夜はないからです。そして、それが意味しているのは、神の望みとは、光、『神の栄光を知る知識を輝かせる光』に満ちた人々を持つことであるということです。それが神の目標であり、神は、神の子供が上から生まれるとすぐにこの目標に向かって動き始めます。なぜなら、まさしくその誕生、上からの新しい誕生こそ、暗闇を蹴散らして、光が差し込むことに他ならないからです。

キリストの学校で私たちが学ぶ課程の全体にわたって、聖霊はただ一つのことに取り組んでいますが、それは、私たちをますます、「イエス・キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせる」光へと導くということであり、それによって、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼(正午)となる(箴言4・18)」ことが、私たちにとっても、実現するように働いてくださるのです。多くの人々が考えたこと――そして、そう考えることによって、がっかりしたこと――とは、この聖霊の働きがあるおかげで、私たちが前に進むにつれて、人生はますます楽に、ますます明るく、ますます楽しくなるということでした。しかし、ものごとはそのようにはなりません。いつ、どこであれ、聖徒たちの状況や生活が、そんなふうになっているところを、私は見たことがありません。彼らが進むこの道は、外から見て、ますます明るくなるようなものではありません。しかし、強く断言できますが、もし私たちが本当に聖霊の支配のもとで動いているのなら、内面には光が増しています。その道はますます明るくなってゆき、私たちは、それをいたるところで見続けています。それが神の目的であり、これが、どこにも暗闇がなく、影もなく、そして、霧すらなくなって、すべてが光、完全な光となる時まで続きます。私たちは鏡にぼんやり映るものを見るのではなくて、顔と顔とを合わせて見ることになります。その時には、私たちが知られているのと同じように、私たちも知ることになります。神の目的をこのような形で表現することもできます。あなたは、この目的に関心がありますか?あなたは、このことを心にとめていますか?

そこには大きな人生の局面があり、これは歓喜という輝かしい頂点を迎える霊的生活の一過程でもあります。私が今、とくに心配しているのは、この過程です。

エゼキエル書で、主の栄光が訪れて家を満たすことを読みましたが、これまでの瞑想の中で私たちは、主イエス様こそがその家であることを見てきました。主ご自身が、神の偉大なベテルであり、その上に天使たちが上り下りし、その中に神がおられ、その内で神が語られる場所(神託の場所)であり、その中に神の権威、最終的な言葉があるところです。主こそがこの家であり、主の栄光はご自身の中にあり、神の光は主の中にあります。

シェキナの栄光の場所

シェキナの栄光があったという古い時代の幕屋や神殿を思い起こしてみると、はしごのように天と地をつないだあの光、あの栄光が、至聖所に表されていたことがわかります。ご存知のように、至聖所ではすべてのものが、その周りと上方を垂れ幕で覆われて、自然の光が完全に遮断されていたため、シェキナから離れて入ると、その場所は真っ暗で、光はまったくありませんでした。しかし、栄光がそこにとどまっているあいだに中に入ると、光が満ちていました。それはすべて神なる光、天からの光、神の光でした。そして、その至聖所は主イエス様の内なるいのち、そこに神がいる主の霊、天からの光、主の内の神の存在である光を表していました。主の霊は至聖所であり、聖なる神の家にあり、そして、神は、栄光の光があったその至聖所において、民の代表者を通して、民と交わると言われました。『わたしは、その贖いのふたの上から、すなわち二つのケルビムの間から、あなたと交わろう』(出エジプト記25・22)。交わりの場――『わたしは交わろう。』何といううるわしい言葉でしょう――『交わる。』そこには、難しいものはなく、恐ろしいものもなく、恐いものもありません。『わたしは、あなたと交わろう。』交わりこそ神が語る場所であり、交わりの中で神は語り、ご自身を知らせます。それは語りの場です。それは託宣の場、語りの場と呼ばれています。そしてそれは贖罪所、贖いのふたであり、そして、それは主イエス様そのものです。主は、神によって、なだめの供え物として公に示された(ローマ3・25)と言われており、そして、主の中で、神は民と交わります。主の中で、神は民に語りかけ、民と語り合います。

しかし、下線を引くべき箇所は、『主にあって』ということばであり、なぜなら、キリストにあるのでなければ、神との交わりはなく、神の交わりもなく、言葉を聞くこともなく、会うこともあり得ないからです。それは、生まれながらの人間にとって、死と破滅の場となるでしょう。だからこそ、その場に必要な装備なしで入ることに対して恐ろしい警告が与えられています。その装備とは、生まれながらの人間が体全体を覆われ、別の天の人がその覆われた人を天の衣、正義の外套で包み込むことであると、象徴的に語られています。その場所には、許された人だけが入ることができましたが、それ例外の人が入れば、『死を免れる』ことはできなかったのです。

これが現実にどのように行われるかを正確に知りたければ、新約聖書に目を通して、タルソのサウロがダマスカスに旅したときの話を読んでみてください。彼は、こう言いました、『正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、・・・・私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、私にこう言うのが聞こえました・・・・サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?』それから、目が見えなくなっていた彼を、まわりの人たちが抱き起こして、街に連れて行ったことを覚えておられるでしょう。神のあわれみにより、彼の目が見えなかったのは三日三晩だけでした。神はアナニアに、出かけて行って、この盲目の男を訪ね、こう言うように命じました、『あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになるためです。』そうしなければ、タルソのサウロは生涯、盲人のままだったでしょう。それが、イエス・キリストの眼前で神の栄光に遭遇した生まれながらの人間に起こってしかるべきことです。それは、破滅です。生まれながらの人間には、神の光の臨在の中に居場所はありません。その人は死ぬことになります。しかし、ヨハネの第8章には、死の暗闇に対抗する『いのちの光』という言葉がでてきます。そう、イエス・キリストにおいて、生まれながらの人間は完全に捨て去られたとみなされます。そこに、生まれたままの人がいる余地はありません。

生まれたままの人間のいる場所はない

これが意味するのは、生まれたままの人間は光の中に入ることができないし、神の偉大な目的の中に入ることができず、神の栄光に満ちたあの家、神がその栄光を宇宙に現そうとするあの器の中にいることもできないということです。生まれながらの人間は、そこに入ることができません。そして、私たちが生まれながらの人間について語るとき、私たちは救われていない人、つまり、主イエス様のもとに来たことのない人のことだけを言っているのではありません。私たちが話しているのは、神が完全に捨て去られたとみなされる人のことです。

使徒パウロは、コリントの信者たちに、この見方に立って話さなければなりませんでした。彼らは改心した人々、救われた人々でしたが、この世の知恵とこの世の力、すなわち、自然の知恵、知識、また、そこから得られる強さに心を奪われており、また、彼らには、神のものを手の内で理解し、分析し、調べ上げようと試み、また、神から来るものを自然の知恵と理解、哲学、この世の哲学と知恵に即して探究しようとする気質や性向がありました。彼らは、生まれながらの人間に神に属することを背負わせようと試みていたのであり、それを知った使徒パウロは、手紙を書いて、彼ら自身の言葉でこう言いました、「たましいに属する人間」(これは、新生していない人間ではなく、救いのための主の贖いの働きの中で主イエス様の助けを経験したことのない人間のことでもありません、そのような人間のことではないのです)、「たましいに属する人間は神の御霊に属することを受け入れません。また、それを悟ることができません」(第一コリント2・14)。たましいの人間とは、すなわち、生まれながらの人間です。私たちの科学の中でもっとも新しいのは心理学、つまり、たましいの科学です。では、心理学とは何でしょうか?それは人間の心を取り扱う学問です。人間の心の科学です。そして、このように文字って言うことができます――言葉を入れ換えるのは、これが、まさしく真実だからです――心の科学は神の御霊に属することを受け入れません。また、それを悟ることができません。この人は非常に賢く、非常に知的で、非常に高度な教育を受けており、生まれながらに持っているすべての感覚が高度に発達して鋭敏になっていますが、神のことがらを知ることになるとこの人は全くの門外漢です。彼には知ることができず、その中にはいません。神の知識の最初のかすかな兆しを得るためには、奇蹟の働きが必要であり、それによって、それまで何も見えていなかった盲目の目に、視力が与えられ、そして、啓示のひらめきによる光が差し込んで、こう言えるようになります、『あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。』

ここには、驚くべき事実が述べられています。究極の輝きの方向に向かう真の光、私たちの中に、そして、私たちを通して表される神の栄光、そのひとつひとつはキリスト・イエスの中にあり、キリストの中で初めて得られるものであって、それは、生まれながらの人間が完全に外に追いやられ、捨て去られて、新しく備えられた霊的な能力を持つ新しい人間が存在するようになったときに初めて可能となります。だからこそ、当時の宗教学校、そして、当時の世界で誰よりも優秀であったニコデモがこう教えられたのです、『人は、新しく生まれなければ(または、上から生まれなければ)、・・・・見ることはできません。』彼には、見ることができない。さて、この問題は、次のように説明できます。神のアルファベットの最初の文字を知ることすら、私たちはキリストの中にいなければできないし、そして、キリストを学び、キリストの中にいることの意味を知ることは、そこから始まるのです。

いのちの光を得るためには

(a)転機

ここで、次の質問になります。キリストに至る道とは何でしょうか、あるいは、いのちの光を得るにはどうしたらよいのでしょうか?そう、答えはもちろん、簡単に言えば、光を得るためにはいのちが必要であるということです。この光は、いのちの光です。それは、いのちの産物です。神の光、神から来る真の光はすべて、生きた光です。それは、決して理論上の光、単なる教義上の光ではなく、生きた光です。では、私たちがこのいのちの光を得るにはどうしたらよいでしょうか?

ヨハネの福音書の中で、次の二つのことが、私たちの前にはっきりと示されています、すなわち、私たちの中にいるキリスト、キリストの中にいる私たちです。主は、それが何を意味するのかを示すためのすばらしい例えを私たちに与えてくださっており、その例え話を、私たちは第十二章で読みました。キリストの中にいるとはどういうことでしょうか?私たちの中にキリストを持つとはどういうことでしょうか?いのちの中と光の中にいるとはどういうことでしょうか?自分の中にいのち光を持つとはどういうことでしょうか?それは、こういうことです。一粒の麦にはいのちがありますが、それはただ一粒だけです。私はその一粒の中にあるいのちを、地上全体を覆うほどに、たくさんの粒に増やしたいと願っています。どうすればそれができるでしょうか?主はこう言っていますね、その粒を地に埋めなさい。その麦を地に落ちて死なせなさい、暗い土の中に落として、土がその上を覆うようにしなさい。何が起こるでしょうか?その粒はすぐに分解し始め、ばらばらになって、自分だけの個人的ないのちを投げ出すようになります。それから、芽が地を突き破って伸び始め、茎が育ってきて、やがて、穂、麦粒のつまった重い穂が着き、そして、その段階で、実際のいのちを探すために、その麦粒をのぞき込んでみれば、初めの一粒の中にあったのと同じいのちが、新しい一粒一粒の中に宿っているところが見られるでしょう。それから私はその穂を蒔きますが、百粒を蒔くとすれば、それが一万粒になり、そして、それをまた撒けば、それが何百倍にも増えてゆき、地表全体を覆うまで続くでしょう。そこで、私が、何百何千万という麦粒の一つ一つを虫眼鏡で見ることができ、もしいのちが目に見えるものであるなら、一つ一つ粒の中にあるいのちが、はじめの元になったいのちと同じものであることがわかるでしょう。それが答えです。

このいのち、このいのちの光はどのようにして私たちの中に入るのでしょうか?主イエス様は、死がなればならないと言っています、それは、私たち自身という存在に対する死、私たち自身のいのちに対する死、主から離れているいのちの死です。私たちは主とともに死に下らなければならず、そこでは、埋葬されたキリストとひとつになった神の霊の働きのもとで、主のいのちが私たちに伝えられることになり、そして、主は、もはや単なる一粒の麦として出てくるのではなく、私たち一人一人の中にさまざまな形で現れます。これは、自然の世界で、毎年、繰り返されている奇蹟であり、そのまま、主が私たちの中に入り込む原理でもあります。私たちが主から離れたいのちを捨て去ることの必要性、私たちが自分のいのちを完全に手放すことの必要性をここに見ることができます。これは、始めは大きな転機、本物の転機です。遅かれ早かれ、それは必ず重大な転機となります。

中には、私はそんな重大な転機なんて経験していないと言う人もいるかもしれません。私にとって、キリスト者になることは非常に単純なことだった。子どもの頃から教わって来ただけだ、あるいは、私は主イエス様に対する個人的な信仰をある言葉にして表現したことがあって、その時から私は主のものになった、私はキリスト者だ!でも、あなたの人生が進むにつれて、主イエス様の啓示が、ますます豊かに現れていますか?どうでしょうか?あなたには開かれた天がありますか?神はキリストの中で、次第に大きくなる驚きと豊かさを持って、あなたにご自身を啓示していますか?どうでしょうか?あなたが主イエス様に属していないと言っているのではなく、私が言っているのは、開かれた天の変わらない基盤とは墓であり、そこには、あなた自身のいのちが終わりを迎える大きな転機があるということです。これは、キリストの死において、現実の体験として自分をキリストと一体化するという重大な転機であり、それは今やあなたの罪のためではなく、あなた自身がキリストとして生きるという意識に達することであります。あなたの開かれた天はそこに依存しています。それは重大な転機です。そして、一人や二人ではなく、多くの人々にとって、これが道だったのです。真実はここにあります。すなわち、彼らは主の子供たちだった、彼らはキリストを知っていた、彼らは救われていた、彼らはそこに何の疑いも持っていなかった、しかし、その後、時が来て、いのちの光である主が、自分は彼らの罪をその身に負うために木にかかって死んだだけではなく、主ご自身の存在が生まれたままのいのちの全てを捨て去ることを表していたという真実を彼らに示されました。十字架にかけられたのは、その人自身であって、その人の罪だけではありません。その人とはあなたであり、その人とは私です。そして、多くの人が、キリスト者になって何年も経った後で、男として、女として、そして、人類の一員として、自分をキリストと重ね合わせるという重大な転機を経てきました。罪人としてではなく、人間の一人、生まれながらの人間として、新生していないものとしてではなく、生まれながらの人間として、生まれたままのいのちを生きる私たちの存在そのものとしてです。多くの人がこの転機に至り、そして、そのときから、全てが非常に広大なもの、それまでのキリスト者としての生活ではなかったほど広大な尺度を持ったものになりました。その時から、開かれた天、広がった視野、いのちの光が、それまでよりもずっと大きなものになりました。

それはどうすれば起こるのでしょうか。まさに今、述べたように起こるのであり、私たち全員がこの転機を迎えます。もしあなたが、その転機を経験したことがないなら、主に尋ねてみてください。注意してください。主とその対話をするつもりなら、あなたは何かを要求しているのであり、、そこには問題が引き起こされます。なぜなら、前にも言ったように、この生まれながらの人はなかなか死なないからです。その人は、執着心が強く、退けられることを嫌がります。この麦の粒を見てください。地面に落ちたとき、その一粒に何が起こるでしょうか。それは楽しいことだと思いますか?何が起こるのでしょうか?それは、本来の自分自身を失うということです。それに気づくことはできません。その粒を取り上げて、よく見てください。これが、私が地面に埋めたあの愛らしい小さな一粒の麦でしょうか?なんとも醜悪なものになってしまいました!自分であるしるしをすべて失い、自分の姿にとどまっていることができず、バラバラに崩れています。なんと醜悪なんでしょう!そう、それが死が行うことです。私たちの中に引き起こされたこのキリストの死は、私たち自身の生まれながらのいのちを断ち切るものです。それは、このいのちを散らし、ばらばらに引き裂き、そこから美しさをすべて奪い去ります。私たちは、自分の中には、結局、腐敗しかないことに気づき始めます。それが真実です。崩れ落ちていく中で、生まれたままの視点から見えていた美しさ、おそらくは人々がそこに見ていた美しさはすべて失われてゆきます。地面に落ちて死ぬのは楽しいことではありません。それが起こるのです。

『しかし、もし死ねば・・・・。』『もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(ローマ6:8)』私たちは主のいのちにあずかり、別のいのちを受け取り、そして、新しい形が与えられます。新しいいのち、私たちのいのちではなく、主のいのちです。これは、大きな転換点です。この問題について主と真摯に向き合うことを強く勧めます。しかし、その時は、私が言ったことを覚悟してください、あなたがバラバラに崩れることを覚悟してください、あなたがそこにあったと思っていた美しさが完全に損なわれることを覚悟してください。これまで思っていたよりもはるかに堕落している自分を見出すことを覚悟してください。わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ!と叫ばずにいられなくなる状態へ、主があなたを導くことを覚悟してください。しかし、その後に来る祝福がこれです――ああ、主よ、私に起こりうる最良のことは、私が死ぬことです!そして、主はこう言われます。まさしく、わたしはそのことを目指して働いてきた、わたしは朽ちるものを讃えることはできない。『朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならない(第一コリント15・53)』朽ちないものとは、種子の中にある神なるいのちの胚芽であり、そこから自らのいのち、主から伝えられたいのちが生まれます。神は、人間的なものを讃えようとはしません。神は、私たちをキリストの栄光のからだに変えてくれます。それはあまりにも深く、あまりにも先のことですが、大切なのは、私たちがこの栄光、神の目的に近づいているなら、そこにはこの大きな転機が必ず訪れるということです。

(b)過程

それから、過程が始まることになります。主イエス様は言われます、『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』、そして、そう言われたことは原則的に間違っていませんでした。十字架とは、一度きりで完全に受け入れる、あるいは、そこに入り込むべきものであるということは真実であり、それは、私たちが、主よ、十字架が意味するものをこの一度だけで完全に受け入れます!と決意したその瞬間に明らかになります。しかし、あの転機、すべてを包み込むあの大きな転換点の後で、日々、十字架に従わなければならないこと、そして、主が降りかかることを許している苦難や苦しみの中でも、十字架が働いていることに気づくようになります。主は、ご自身の権威のもとで、あなたを困難な状況に置きました、すなわち、困難な家庭、仕事、肉体的な状況、人間関係における困難な状況などです。愛する皆さん、それがあなたの経験における十字架の働きであり、それは、主イエス様がより大きな場所を占めるための道筋を作るためのものです。それが、主の忍耐、キリストのがまん、キリストの愛が通るための道を作ることになります。そこに主が通る道が開かれるのであって、あなたは毎朝、ひざまずいて、ああ、主よ、どうか私をこの家から助け出してください、私をこの仕事から助け出してください、この困難から解放してください!などと言う必要はありません。あなたはただ、主よ、これが今日の私にとっての十字架の表現であるなら、私は今日、それを受け入れますと言えばいいのです。そのような状況に直面するとき、あなたには、そこに力があり、勝利があり、主の助けがあり、そして、そこには実りがあり、不毛ではないことがわかります。このような意味で、主が十字架を日常の経験とされたというのは、原則として正しかったのです。『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』――わたしに教えられた者の一人、わたし私を学ぶ者となることはできない!ですから、それが何であれ、日々、困難を受け入れることこそ、まさしく私がキリストを学んでいる道であり、それは光、いのちの光の過程であって、知るようになる道、見るようになる道、完全になる道なのです。あなたも私も、十字架なしでは、見ることも知ることもできません。十字架はこの生まれたままのいのちという土台を一掃しなければなりません。もし主が毎日、私たちから十字架を取り去ったら、私たちが何をするか、主はご存じです。私たちは、何をするでしょうか。

日々、十字架を語る、自分の十字架を日々、背負うというのは、新約聖書の後期に出てくる言い回しや言い方にとどまるものではなく、もっと深い意味があるのかもしれません。より真理に近い原則としては、主に与えられた十字架が、日々、私のものになるということかもしれません。それは真実かもしれませんが、ただそうなるというだけなのです。主が、日々、私たちにとっての十字架の表れであるものに手をかけて、それを肩から取り去ってくださるとしたら、それは私たちのために良いことはなりません。そうなれば、生まれたままのいのちが息を吹き返す手段を与えることになるでしょう。人が、少しでも試練から解放され始めると、外から見てすぐに分かります。彼らは自分の重荷を自慢にし始めるからです!彼らは竹馬の上に乗って、あなたを見下すようになります、あなたは間違っていて、彼らが正しいというのです。おごり、自己満足、自給自足、すべてが表に出てきます。さて、ではパウロはどうでしょう?私はパウロを霊的な巨人として尊敬しています。この男に較べたら、私たちは霊的な操り人形のようなものですが、しかし、霊的な巨人であったパウロは、それでも、主が彼を打つためのサタンの使者を遣わして、自分が過度に高ぶることのないように、肉体に一つのとげを与えられたと謙虚に告白しました。そう、霊的な巨人と言っても、主がよく気を付けて予防措置を講じなければ、自分を誇るようになるのであり、この偉大な啓示が伝わる道を大きく開いておくために、また、その道が次第に広がっていくために、主はこう言われました、「パウロ、わたしはあなたを非常に低くしておき、限度を超えて低いところに保たなければなりません、そうするしかないのです、パウロよ、頭を上げようとするとすぐに、あなたは光を遮り、啓示を台無しにしてしまうでしょう。」

そう、ここには原則があります。いのちの光です。それは主のいのちです。この使徒はもう一度、言っています。

『いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(第二コリント4・10)』

主のいのちこそ、私たちに必要なものであり、そのいのちに光がついて来ます。それは、いのちによる光です。これ以外に、本当の神の光はなく、本当の光とは、私たちの中で主のいのちから生まれる光だけであり、私たちの中に入った主の死が、主のいのちの道を開きます。

ここで終わりにしなければなりません。神の目的をもう一度、見てください。光、栄光、豊かさが入ってきます。それはキリストの中にあります。光の尺度、栄光の尺度はキリストの尺度となり、そして、キリストの尺度は、主が私たちの中にどれだけ大きな空間を見つけられるかに完全に依存しています。そして、主のための空間が生まれるためには、私たちは、自己のいのちを完全に捨て去ることできる状態に到達しなければなりません。それには全生涯がかかります。しかし、神に祝福あれ、主が来られて、聖徒たちの中で栄光を受け、信じるすべての人々の驚嘆を受けるとき、栄光が最高潮に達します。驚嘆されるのです!神の栄光を持つのであります!ああ、その栄光の光から来るものが今、私たちの心に降り注いで、その中で私たちを励まし、慰めてくれますように、私たちの心を強めて、御子を知る知識をもって、主の御名のために進んで行く力を与えてくださいますように。

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