2021年12月7日火曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第10回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十回会合— 『イエス様は新しい天のイスラエルをなすために来られた』
Meeting 10 ─ Jesus Came to Form a New Heavenly Israel

第十回会合
(1964年2月7日午後)

私たちは昨夜、非常に大きな真理を示すところから始めました。それは、地上におられた時の主イエス様のすべての教えと働きは、歴史上における最大の危機のひとつと関わっていたということです。その危機とは、国としてのイスラエルが、少なくともこの時代が続くかぎり、主の目の前から排除されたことでした。この危機は、イエス様が宣教を開始したとき、すでに始まっていました。そして、イエス様が宣教を終えるとき、この危機は決定的なものとなり、そのまま、確定しました。イスラエルという国は、この世界で何百年にも渡って神の関心の中心に置かれていましたが、今や、退けられてしまいました。預言者たちはそのことを前から語っていました。そして、それはイエス様がこの世での宣教活動に入られたときに始まりました。バプテスマのヨハネが荒野に現れ、群衆が彼のもとに集まった時、パリサイ人とサドカイ人がやってくるのが見えました。彼らは全イスラエルの代表者だったのです。ヨハネは彼らに言いました、「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」これは、アブラハムの子孫たちが拒絶されたことを、ことばを換えて表しているに過ぎません。

さて、四つの福音書を読むとき、これはとても重要なことです。四つの福音書に書かれていることは、すべてこの大きな危機に関連しています。一方では、何世紀にもわたって、神の民と呼ばれてきた人たちが拒絶され、追放されました。昨夜も言ったように、これは、国としてのイスラエルが、これまでのほぼ二千年間に渡って経験してきたことです。しかし、これは物語の一面に過ぎません。イエス様は新しいことをするために来られました。そして、その教えと働きによって、主はその新しいことを示されました。この新しいことは、この二千年間全体を通して行われてきたのです。それは、今も行われています。それは、私たちがいるこの会場でも行われています。イエス様がやり始めたこと――そして、今も行われていること――は、新しい天的で霊的なイスラエルの形成だったのであり、今も同じなのです。イスラエルの名を冠した国が神の視界から消えているあいだも、神はご自身の考えを捨てていたわけではありません。そして、イスラエルについての神の新しい考えを引き継ぐために、イエス様は来られたのです。福音書を注意して読めば、イエス様が古いイスラエルにあった神の思いをすべて取り上げて、それを霊的なかたちで、新しいイスラエルに持ち込まれたことがわかります。例えば、昔のイスラエルは、この世に置かれた神の御国でした。世の国々の中にあって、イスラエルは神の御国でした。この神の御国が、イスラエルととともに取り払われたのです。

しかし、この御国という考えは、イエス・キリストとともに、ふたたび、新しい形で現れました。イエス様はイスラエルに言われました、『神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。』宣教を始めた時に語られたイエス様の最初のことばは、『天の御国が近づいた』というものでした。これは主が建てようとしていた新しい御国です。この御国とは、霊的な天の御国です。イエス様は、『わたしの国はこの世のものではありません』と言われました。しかし、だからといって、それが現実の国ではないということではありません。事実、この『霊的な御国』は、古い時代の消え去った王国よりも、はるかに現実的なものです。いいですか、イエス様が第一に引き継がれるものは、御国を建てようという神の意思です。マタイは、その国をいつも、『天の御国』と呼び、ヨハネはいつも『神の御国』と呼びました。このふたつに違いがあるのか、時間をかけてお話しするつもりはありません。事実は、それが御国であるということです。それは、神の御国です。そして、それは、天の御国です。

それから、昔のイスラエルは、ヤコブの十二人の息子の上に建てられたことにも注意しましょう。十二は代表の数です。ヤコブの子の十二人の息子は、国全体を代表していました。イエス様は十二人の弟子を選びました。彼らは新しいイスラエルを代表する一団でした。モーセには七十人の長老がいて、一緒に山に登ってゆきました。イエス様は七十人の使徒を選び、二人ずつ、送り出しました。

古い時代のイスラエルには幕屋がありました。ヨハネは言いました、『ことばは人となって、私たちの間に幕屋を張られた。』イエス様は、新しいイスラエルにおける神の幕屋でした。私たちが神と会うのは、この主の中です。そして、古い幕屋の霊的な意味が成就するのは、すべて主の中です。昔のイスラエルには大祭司がいました。新約聖書は私たちに、イエス様こそが新しいイスラエルの大祭司であることを教えています。イスラエルには大きな捧げ物、全焼の生贄がありました。イエス様は、ご自身が大いなる犠牲となられました。イスラエルには、立派な祭壇がありました。主イエス様の十字架は、新しいイスラエルの大いなる祭壇です。他にもあります。しかし、イエス様が新しい天のイスラエルとなるために来られたことを、もう十分に語ったものと思います。

さて、神が古いイスラエルを建てた時は、アブラハムとともに始められました。ステパノは、アブラハムがカルデエスのウルにいたとき、栄光の神がアブラハム彼に現われたことを語っています。神に与えられたこの呼び名を見てください。『栄光の神が現われた。』これが、古い地上のイスラエルの始まりでした。新しい霊的なイスラエルの始まりも同じ原則に基づいています。ヨハネの福音書を開いていただくと、はじめの章に、神の御子のすばらしい描写に続いて、ヨハネは言っています、『私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。』新しいイスラエルはここで始まったのです。栄光の神が現われた。イエス様は言われました、『あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見たのです。』いつ、どこでだったのかは分かりませんが、とにかくアブラハムは、イエス・キリストの日を見て、よろこんだのです。よろこびは、常に栄光のしるしです。栄光があるところには、必ず喜びがあります。『栄光の神が私たちの父祖アブラハムに現われた』(使徒7:2)。使徒ヨハネは、その福音書を書き始めたときに、歌っていたかのようです、『私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』私には、『恵みとまことに満ちた』この会場にいる人たちに笑顔がないことが不思議です。これは、まさに栄光です。間違いなく、私たちがよろこぶべきことです。神の恵みがイエス・キリストに現れたのです。しかし、話を先に進めることにします。

ヨハネの福音書のはじめの数節を見てもらえますか?『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』そして、11から13節、『この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。』ことばは神であった。しかしその方の民は、受け入れなかったのです。『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。』新しいイスラエルが、このように紹介されています。それは、この方を受け入れた人々、すなわち、主が神の子どもとされる特権をお与えになった人々から形成されるものです。それは、古いイスラエルにはなかった優れたものです。ここに、天から啓示された大いなる考えが紹介されており、その考えとは、私たちの神はご自身の子供たちを持つことを願っているというものです。まず、御子がおられ、それから、子供たちがあり、そして、その子供たちが御子とともに、新しいイスラエルを形成するのです。

ここで、新約聖書の別の部分を開いていただきます。よく聞いてほしいのですが、それは、新約聖書にあって、この新しい天のイスラエルという真理のすべてを体現する書物です。「それはどの書物だと思いますか?」ときいたら、あなたはどう答えるでしょう。新しい天のイスラエルについての全てが集められている新約聖書の書物とはどれでしょうか?それはへブル人への手紙です。全編にわたって新しいイスラエルについて書かれているこの書簡に、この名前が付けられているのは興味深いことです。お手元の聖書のへブル人への手紙を開いていただけますか?ヨハネが、神の御子を提示することによって、新しいイスラエルを紹介していることは、すでにお話ししました。さて、このへブル人への偉大な手紙は、神の御子の提示とともに始まります。神の御子のことで、八つのすばらしいことが語られていますが、それでは始めましょうか。

まず、神から始めます。神は常に始まりです。では、神ご自身は、どうでしょうか?『神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。』これはどういう意味でしょうか?若い方たちのために、私はできる限り簡単に話そうと務めています。これはこういう意味です。つまり、神は古い時代にはいろいろなかたちで人に話しましたが、その全てを、今度は一人の方に集められたのです。神は、むかし、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました。今、この終わりの時には、その全てを御子に集中させたのです。これが御子についての第一の点です。御子は、神の最終的で完全な言葉です。この後、神が語ることは、二度とありません。この終わりの時に、神は語られたのであり、それが最後です。主イエスを拒めば、神はそれ以上、何もあなたに言うことはありません。しかし、御子の中に、神が言いたいことの全てがあります。神は、ご自身が語ることのすべてを、御子の中に集めたのです。神の心の表れとして、キリストが最終的なものであり、キリストは完全です。

中国語や他の言語で同じような言い回しをするかどうか、私は知りませんが、イングランドでは、時々、人について語るうえで、よくその人は自分の心を包み隠さずに語っているという言い方をします。すなわち、彼らは、自分が考えていることを、そのままあなたに知らせているのです。同じように、神は御子の中に、ご自身の思いをそのまま語ったのです。そして、御子の中に御心の全てを語られたとき、神は、『わたしがあなたがたに言うことはこれですべてだ』と言われました。これが、第一の点です。神は御子の中で、私たちに語られました。

第二の点です、『神が万物の相続者とされた方。』昨日、話したように、ある時、神は言われました、「わたしは御子を万物の相続者と定める。」神が定められたことは、誰にも覆すことはできません。こうして、神は自分が創造された世界を、『万物の相続者とされた方』である御子の中へと集めて、御子が相続すべきものとしたのです。

三つ目の点、『神は、御子によって世界を造られました。』御子は、世界を造るために、御父に用いられました。これが、ヨハネが始めに言った、『すべてのものは、この方によって造られた』ということです。御子は、御父の創造の道具でした。『すべてのものは、この方によって造られた。』私たちは普段、創造主としての神について語りますが、神がこの創造を御子を通して行われたということを見落としていることがあります。

さて、四つ目の点です、『御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり』ます。これは簡単に言えば、御子は父の完全な表現であることを意味します。イエス様は言われました、『わたしを見た者は、父を見たのです』主は、神を完全に表しているお方なのです。

五番目の点は、『その力あるみことばによって万物を保っておられ』ることです。これは、誰のことであっても、とてつもなく大きなことです。この創造された宇宙の中、その力あるみことばによって万物を保っておられる、ただ一人のお方がいます。イエス・キリストがその時が来たと言われる日まで、この世界が崩れ去ることはありません。人間に作れるだけの原子爆弾があっても変わりません。イエス様が、もういらなくなったと言われるまでは、すべてのものが守られます。主は、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

次の点、六つ目は、『罪のきよめを成し遂げ』たことです。栄光を捨てて、被造物のあいだに入り、ご自身の血によって被造物を贖い、罪のきよめを成し遂げられました。ああ、このことだけで、何時間でも話したいのですが、先に進まなければなりません。

次に七番目ですが、御子は『罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。』御子は、神の右の座に着かれ、そして、今もそこに、すぐれて高い所の大能者の右の座におられます。右側とは、名誉の場所です。右側とは力の場所です。そして、そこが御子がおられるところです。御子は、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれています。

さて、八番目、御子は、『御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続され』ました。御子はすべての天使たちよりもすぐれています。さて、ここで矛先を変えて、天使について、一時間ばかり語りたいような気もします。聖書を読んでもらえば、天使がどれほど力強いものかは、誰にでもわかります。一人の天使でさえ、実に大きなことができるのです。かつて、強大な軍隊がイスラエルに攻め入って、街を包囲し、自分たちがいかに無敵であるか、自慢げに弁舌をふるいました。彼らに立ち向かおうとするものは、誰もいなかったのです。そう、アッシリヤの強大な軍勢です。神は、御使い、ただ一人の御使いを遣わされたと書かれています。朝、人々が起きだしたとき、その強大な軍勢はすべて死んでいました。アッシリヤの王はひとりで国へ帰りました。ただ一人の御使いのしたことです。御使いたちは強大な存在です。そして、彼らは力強いあるじです。イエス様は、『わたしが父にお願いすれば、十二軍団の御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができる』(マタイ26:53)と言われました。

さて、ここに、イエス様はすべての御使いを配下に置くことができると書かれています。私は、なぜこんなことを言ったのでしょうか?聖書を学ぶためではありません。もちろん、これは実に興味深いことです。しかし、私たちの目的は一つです。私たちは、この新しい天のイスラエルについて話しているのです。そして、今、主が建てようとしているこの新しい天のイスラエルは、主イエス様の偉大さの上に立っています。主イエスの偉大さを幾分かでも理解しなければ、この天のイスラエルの一員として、私たちが召されていることを理解できません。主の上に建てられているなら、このイスラエルは実にすばらしいものに違いありません!私たちが神の子、イエスについて語ってきた多くのことが、イスラエルの土台であるなら、このイスラエルは、どれだけ、すばらしいものでしょうか!

さて、キリストがこの場所にいるのは、神ご自身がなさったことによるものです。少し前に、私たちは、マタイ伝21章43節を引用しました。『神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。』さて、マタイ伝21章のこの節を見てみると、非常に印象的なある事実からつながっていることに気づきます。この節は、旧約聖書からの引用に続いて書かれているのです。『家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。』イスラエルはこの石を捨て、イスラエルもまた捨てられました。しかし、この石は、神によって、礎の石として定められたのです。こうして、主は礎の石となるのです。主こそが礎の石、新しいイスラエルの隅の礎です。

さて、私の持ち時間はほとんどなくなってしまいましたが、大事なことを、まだ話していません。霊的な原則を語るうえでの、この新しいものと古いものの対応について、もっと詳しい説明をしたかったのです。この大切な事柄について、次の十分間で、多少なりともお伝えできればと思います。

私たちが言うのは、新しい霊的なイスラエルは、原則として、古いイスラエルの路線を踏まえているということです。古いイスラエルの始まりは、栄光の神の現れの中であったことを今、お話ししました。それは新しいイスラエルも同じです。しかし、栄光の神がアブラハム言われたことはどうだったでしょうか?『わたしはあなたを大いなる国民としよう。』『あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。』アブラハムの最初の子孫は誰でしたか?イサクです。イサクはその誕生自体が奇蹟でした。神の奇蹟がなければ、イサクは存在すらし得なかったのです。しかし、ここが大切な点です。すなわち、イサクは死の中へと落とされ、それから、復活の地に上がらなければならなかったのです。なぜだったのでしょう?なぜイサクは死へと下って行かなければならなかったのでしょう?誰もが、イサクの話を知っているものと思います。神がアブラハムに向かって、『あなたの子、あなたの愛しているひとり子を連れて行き、全焼のいけにえとしてイサクをささげなさい』と言われた時、イサクは死に向かうことになりました。そして、形のうえですが、イサクは死からよみがえらなければなりませんでした。何故だったのでしょう?神の原則は永遠ですね。神が用いる手段はその時々で変わっても、神の原則は常に同じです。そして、イサクが、こうして死へと下って行き、そして、死からよみがえらされたことは、全てを自然を超えた土台の上に置くためでした。彼の誕生は、超自然的なものでしたが、今度は、彼の生涯の働きも超自然的なものとなるのです。その全てが、神の土台に置かれたものでした。

今夜、ここにいる方の中にもお医者さんがおられると思います。医師は、人がこの世にいるあいだは、多くのことをしてあげられます。そして、私たちが生きている間、先生たちがいろいろと助けてくれることを、主に感謝します。よく、「いのちのある限り、希望はある」と言われます。そして、私たちは最後の一呼吸が吐き出されるまで、あきらめることはしません。しかし、その最後の一呼吸が体から吐き出された時、医師たちの役目は終わりです。世界中の医師をその部屋に連れてきても、それがどれだけ優秀な医師たちでも、どれほど高名で評判の良い先生たちであっても、遺体を見たとき、彼らはこう言うしかありません、「私たちにできることは何もない。私たちが学んだこと、知識、技術は、もう役に立たない。この人は死んだ。誰にも何もできない。」もし、その人が死からよみがえったとしたら、それは自然を超えるものです。それは、超自然ということになります。そして、それができるのは神だけです。他には、この宇宙のどこにも、それができる存在はありません。そして、もし、誰かが死からよみがえったとしたら、それは神だけができることです。だからこそ、イサクは死んで、よみがえらなければならなかったのです。なぜなら、イサクを通してもたらされるこのイスラエルは、神だけのものでなければならなかったからです。ここに、人間のものはありません。人間の教育、人間の技術は、全て切り捨てられます。『血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれた。』この新しいイスラエルのすべての民は、この基盤の上に立たなければなりません。

愛する友人の皆さん、神の子についてのこのもっとも深淵なる真実は、この世界で何よりもすばらしいものです。そのもっとも深遠な真実とは、その人生の中には、神にしかできない何かがあるということです。誰であろうと、どれだけの人がいて人も、神の子を作ることはできません。この世界の何者も、神の子を作ることはできません。神だけが、神の子を作ることができます。ですから、この新しい霊的な天のイスラエルは、その始まりにおいて、超自然的な土台の上に立っているのです。私たちは、すばらしい人間たちなんです。まったく、そんなふうには、見えません。もちろん、あなたがたを侮辱する気持ちはなく、これは私自身も含めてのことです。私たちは、とてもすばらしい人間などには見えません。この世界では、私たちは大したものではありません。しかし、神がこの世界で成してくださった、何よりもすばらしいことがあります。神には、ご自身にしかできない御業の結果として生まれた民がいます。それが新しいイスラエルの始まりなのです。

私たちは、アブラハムとイサクがこのことの始まりであることを知っています。神が、それをこの新しいイスラエルに持ち込んだのです。これがすべての始まりです。ああ、主がこのことを、私たちに霊的に理解させてくださいますように。キリスト者としての生活が始まってから、このことがいかに真実であるかということを、どうすればうまく説明できるだろうと、ずっと考え続けてきたのです。主が望まれるなら、明日の夕方もありますので、その時に続けたいと思います。

ああ、しかし、キリストのされている御業のすばらしさを、はっきりさせるためには、十分に語ってきたと思います。私たちの名前はイスラエルです。これは、神とともにある君という意味です。私たちがその名にふさわしく生き、自分たちの上に置かれた大いなる威厳を認め、そして、主が私たちの中で行われたすばらしいことを理解できるように、主よ、助けてください。主の祝福がありますように。

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