2021年11月23日火曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第9回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第九回会合— 『それは天から、神の御霊によって来たのですか?』
Meeting 9 --- Has it Come From Heaven by the Spirit of God?

第9回会合
(1964年2月7日午前)

今朝、初めて参加され、今週の朝の会合には、これまで出ていなかった方も、何人かいると思います。新しく来た方を含めた参加者全員のために、今、私たちを悩ませていることが何か、繰り返しておきます。私たちの誰もが知っているように、何世紀という時を経て、キリスト教は、初めには存在していなかったものが積み上げられた姿に変わってしまいました。今日、私たちが知っているキリスト教は、きわめて複雑化しています。神のものに人の手が加わり、そして、人間はこの偉大なものを、自分自身の判断に沿って建て上げようと試みてきました。このために、大きな混乱、大きな分裂が生じ、そして、全てが複雑化しています。キリスト教は、本当に苦しい時代を迎えています。キリスト教は、キリスト信仰自体に対する最大の阻害要因となってしまいました。ですから、この朝の会合で私たちが行おうとしているのは、人間がキリスト教に付け加えたものを見直して、初めの基本的な原理を再発見し、定義し直すことです。キリスト教にとって真実であるものは何か、その明確な定義を示してくださるよう、私たちは主にお願いします。これまでの朝の会合で、非常に多くのことを語ってきましたが、それをここで繰り返すことはしません。今朝、初めて参加された方は、その点をご了承ください。

今朝は、少し先に進んだところから始めます。私たちが考えてきた、ふたつの聖書の箇所を思い出してください。ひとつは、旧約聖書、ひとつは、新約聖書からです。旧約聖書からは、出エジプト記の二十八章八節、『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む(dwell)。』もうひとつは、ヨハネの福音書、一章十四節、『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(dwelt)。』この『住んだ(dwelt)』と言う単語が、原文では、『幕屋を張った(Tabernacled)』であることはすでにお話ししました。すなわち、『ことばは人となって、私たちの間に幕屋を張られた』のです。このふたつの節に込められた神の永遠の思いがあり、それはまず、型として示され、それから、現実の中に示されます。その神の思いとは、ご自身が常に人のあいだに住まわれるということでした。世界の始まり、すべてが主の御心にかなっていたとき、園に入られた主なる神が、人とともに住まうことに、大きなよろこびを感じていたことは、既に見てきました。その後、神はそこから去らなければなりませんでした。このとき、神の望みは、一時的に中断されたのです。さて、出エジプト記の中で、神はこの願いを再び取り上げられ、ご自身が民のあいだに住まわれるように、幕屋を建てることを命じています。しかし、それは、まったく不完全でした。神が、イスラエルの民のあいだにいることを、常によろこんでいたとは言えません。主が完全に満足するためには、まだ行われなければならないことがありました。このとき、神は民とともにおられたとは言え、それは型であり、形だけのことに過ぎなかったのです。しかし、神の御子のことを思えば、そこでは、神がまことにキリストの中におられたのであり、すなわち、『神の御子は人となって、私たちのあいだに幕屋をはられた』のです。

さて、今朝、が取り上げたいと思うのはこの点です。神の御子であるキリストは、神の幕屋なのです。このことを、はっきりさせておかなければなりません。神が現在、住まわれ、これからも永遠に住まう場所は、御子の中なのです。人となられたお方こそが、神の住まいであって、これは型ではなくて、現実であり、一時的ではなく、永遠の住まいなのです。キリストこそ神の幕屋です。主の御名はインマニュエル、『ともにおられる神』です。主の努めは、幕屋の奉仕だったのであり、今も同じです。主の犠牲、十字架はすべてを包み込む幕屋の犠牲でした。神の幕屋の外側には扉がついていましたが、主はご自身が扉なのです。主だけが、神へと通じる道です。扉のすぐ内側に大きな祭壇があったように、主の十字架が祭壇そのものです。幕屋に入って少し進んだところに、青銅の洗盤があったように、十字架を通して、また、御霊によって、主は私たちを、神の臨在に入るように、きよめてくださいます。これら、すべてはただ一つのことにつながっていました。すなわち、人ともにある神の臨在です。すべては、私たちとともにおられる主という、ただひとつの問題につながっているのです。

かつて神が古い幕屋の細部にいたるまで強くこだわったように、今、神はご自身の臨在のすべてがキリストを表すことに強くこだわっています。神にとって、どうでもいいものは、ひとつもありません。神から見て、この世に、それだけできよいものはありません。何であれ、あるひとつのこととのつながりがなければ、神にとってきよくはないのです。このことで、私たちは考え方を完全に変えなければいけません。

この国のどこへ行っても、この街のどこを見ても、天辺に十字架を掲げた立派な宗教的な建物を目にします。そして、その建物に入る人たちは、頭を垂れ、非常に敬虔な者のように見えます。彼らは、自分が神聖な建物にいると考えてます。そこにあるものに手を触れたりすれば、冒涜行為とみなされます。神にとって、これは全く無意味なことです。そこには、全く何の意味もありません。神にとって、意味があることは、立派な建物ではないし、中に飾り立てられたものでもなく、屋根に立てられた十字架ですらありません。ただひとつ、神にとって大切なのは、御自身がそこにいるかどうかということです。神ご自身が、この場所に臨在しているのか?神にとって、ご自身が臨在する場所でなければ、他の場所と何ら変わりはありません。

もちろん、今朝ここにおられる皆さんのほとんどが、そのことに同意されるでしょう。しかし、私たち自身はどうでしょう。このような会合に入ってきたキリスト者たちが、自分は神の家に入ってきたと語るのを、よく耳にします。おそらく、彼らは、こんなふうに言いながら、この会場に向かっているのでしょう、『私は神の家に行くところだ。』そして、彼らが祈ることばは、『今朝、神の家にいられて、本当にうれしい。主の家にいるのは、すばらしいことだ。』ある場所を、神の家とするものは何でしょう?この場所を聖くするものとは何でしょう?もし、ここが完全に聖い場所であるなら、何が聖くしているのでしょうか?建物自体が聖いのではなく、聖い建物などありません。そこに集う会衆が聖いのでもありません。その場所を聖くしてくれるのは、主が臨在しているという事実だけです。主は、私たちが集う場所にも、集会にも関心はなく、ただ、ご自身がよろこびをもって臨在できる場所を見つけることにのみ、関心を払っておられます。荒れ野に立てられていた幕屋は、今、どこにあるのでしょうか?地中深く、どこかに埋められてしまったのかもしれません。ソロモンの壮大な神殿は、今、どこにあるのでしょうか?!見つけようと試みても、時間を無駄にするだけだと思います。神は、その全てを埋めてしまったのですからね。このふたつとも、聖なるものだったのです、神はそのまま残されてもよかったはずです。しかし、そうはされませんでした。その本当の意味を果たさなくなったとき、幕屋は、神にとって神聖なものではなくなりました。

神殿が本来の目的を果たすことができなくなったとき、神はそこから離れました。そして、異教徒が何度も繰り返して、破壊しに来ることを神は許されたのです。『その目的は主の臨在です。』

さて、これはごく当たり前で簡単なことと聞こえますが、私たちは初めの第一歩に戻っているのです。ヨハネは、『初めに、神は・・・・』と語り始めましたが、神とは、初めにいる神だけでなく、最後までいる神なのです。神がおられるのは、御子がいるところだけです。しかし、御子がいるところならどこでも、神はおられます。私たちは、神の臨在する場所について、誤った根拠を信じ込まないよう、十分に注意しなければなりません。ここでも、あそこでもなく、この山でも、エルサレムでもなく、御子がおられるところが大切なのです。そして、私たちは、他のすべての事柄を差し置いて、主があなたと共にあるなら、私もあなたとともにあると、言わなければなりません。しかし、それが真実であるために、非常に重要なことが二つあります。

私たちは、はじめの状態に非常に近い状態にいます。私たちは、キリスト教の本来の姿のすぐ後ろまで戻ってきました。私たちが知っている今のキリスト教は、そのようなものとは違っていますね。実際に、それは本来の姿とは大きくかけ離れています。もちろん、キリスト教がはじめの姿と、どれだけ違っているか、いくらでも語ることはできます。そして、それはすべて、後ろ向きな話になります。私たちは、前向きなことに心を集中したいと思います。

さて、神の臨在について、初めに覚えるべきことは、神はいつでも、御子を表すことから始められるということです。ある意味では、御子の啓示は、常に神が何かを始める土台となります。旧約聖書の時代には、それは常に型、あるいは、形式としての啓示で、見た人が気づいたかどうかにかかわらず、そこには、御子が示されていました。もちろん、これは、聖書から学ぶべき大きな事柄です。創世記に示された創造における神の御業を理解できれば、イエス・キリストが見えてくるはずです。すべての細部において、キリストの中に表された神の姿が見えてきます。霊的な目を開かれたものたちにとって、それはとてもすばらしいことです。神の御子については、『すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る』と書かれています。

さて、あなたが芸術家で絵を描いたり、彫刻家で何かの像を立てたり、あるいは、他の何であれ、何かを造るとしましょう。人に言われるままに仕事をしているのでなく、本当に自分で何かを造りだす職人であれば、自分のすべてを作品に注ぎ込むはずです。完成したあなたの作品を見た人たちは言うでしょう、「この作者は、実にすばらしい人だ。」彼らは、作品の中にあなたの思いを見るのです。作品の中にあなたの心を見ます。作品のすべてが、造り手を物語っています。関心は、造られたものから、それを造った人へと移ってゆきます。もし、神の御子が、本当にすべてのものを造られたのなら、それは客観的にされたのではなく、ご自身をその中に投入されたのです。そして、もしあなたに霊的な理解があれば、創造された物以上の何かが見えるでしょう。すべての中に、それを造られたお方を見ることになります。これが、神が御子を示されたということです。それは、神の御子の啓示です。ここが、神が始められたところです。これが始まりです。

この幕屋のはなしのことでは、人間がそのように考えたのではないことを覚えておいてください。これは人間の心から出てきたことではありません。これは、神の考えから出てきたことです。神はモーセに言われました、『よく注意しなさい』、神は言われたのです、『山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい』(へブル8:5)。神が心に定めておられる目的はただ一つであり、神の働きは、すべてがこの目的につながっています。神が心に抱いておられる、ただひとつの目的とは御子です。ですから、この『幕屋』とは、細部に至るまで、神の御子を型として表していたのです。これは、神の働きの新しい始まりでした。その始まりとは、イスラエルの国、この地上で他の誰とも違う民を作り出すことでした。

この点を改めて強調させてください。神にとって、すべては御子の啓示とともに始まります。それより先に行ってしまえば、神は私たちをそこへ引き戻します。救いの問題でもそれは同じです。イエス・キリストを神の御子として見ることなしに、キリスト者としての生活の真の始まりはありません。これは、キリスト者の生活の進歩に、すべての段階で当てはまることです。神は、私たちのあらゆる霊的な進歩を、イエス・キリストの啓示に対して正しく保ちます。これは神のすべての御業に当てはまることです。神の真の御業は、すべて、私たちが主イエスを見ることによって行われなければなりません。イエス様ご自身が、この原則に基づいて生きられました。主は言われました、「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」(ヨハネ5:19、14:10)。イエスは、み父が見ておられる中で生涯を過ごされました。そして、主は、み父が命じたことでなければ、何を語ることも、行うこともなかったのです。主イエス様に当てはまることは、私たちすべてにとっても当てはまるはずです。私たちは、主イエス様を見ながら、このキリスト者としての人生を生きるしかないのです。

幕屋の話に戻り、しばらくのあいだ、幕屋を例にして説明します。幕屋の全体が表す事実は、それは物ではなかったということです。それは、ただの建物などではありませんでした。神の意図の表れでした。その意味は隠されていました。もし、イスラエルの民以外の人たちが、幕屋を見たら、こう言っていたでしょう、「おや、これは不思議なものだ。いったい、なんだろう?」しかし、真実はその内側にありました。その真理は隠された奥義であり、その中に真実を見るためには、開かれた心の目が必要だったのです。

ヨハネは、主イエス様の地上の生涯が終わって何年も経ってから、こう言いました、『神は人となって、私たちの間に幕屋を張られた(そして、私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光であり、)この方は恵みとまことに満ちておられた。』言葉を換えれば、彼が言ったのは、『私たちは主の内側を見た。私たちは、主の中に神の意図を見た』ということでした。

さて、この地上に住まわれていた時のイエス様は神の幕屋そのものでした。主は、まさしく、この世にあって神が住まわれる家でした。しかし、人はどう見たでしょう?イザヤが言いましたね、『彼には、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされる』(イザヤ53:2、3)。よそ者が幕屋を見ても、「何ともみずぼらしい小屋だ。あんな汚い布でおおわれている。まったく美しさなどない』と言っていたでしょう。彼らは蔑んで、拒絶したはずです。しかし、ヨハネは言いました、『私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である』(ヨハネ1:14)。ヨハネは、イエス・キリストのうちなる啓示を受けていたのです。

そして、もちろん、ヨハネだけではありませんでした。使徒パウロも、この真理に人生のすべてをかけました。彼の生涯と伝道活動のすべてが、このことばから生まれたものでした、『神が、御子を私のうちに啓示することをよしとされた』(ガラテヤ1:16)。それは、イエス・キリストの心の内側への啓示であり、生活においても、奉仕においても、教会においても、いつも神は、この啓示から始められたのです。私たちは、主から受け取ったのでなければ、神のための働きの中でも、何もするべきではありません。

だからこそ、教会の委員会はしばしば非常に危険なものなのです。何人もの男が一箇所に集まります。なぜ、彼らに集まってもらうのでしょう?彼らが知的な人たちだと思っているからでしょうね。おそらく、彼らは、仕事の面で成功した人たちです。そして、おそらく、この世界で、影響力を持っているでしょう。そして、私たちは彼らに、ひとつ所に集まって、主のための働きについて考えてもらいます。その働きが遅々として進まなくても驚くことはありません。新約聖書においては、祈りのための集まりこそ、すべての働きが始まる時でした。このことについては。あとでいろいろとお話したいと思います。

しかし、最初に戻って考えてみましょう。神に関わるもので、人間から始まるものなど、ひとつもありません。幕屋が作られることになったとき、まず第一に、その型紙は天から示されました。それは、イエス・キリストの啓示だったのです。しかし、その時でさえ、主は、『では、この型紙を人間たちの手に渡して、彼らに仕事を始めさせよう』とは言っていません。そこには、神の霊が二人の男を満たしたとあり、働きが行われたのは、ただこの二人の男を満たした神の霊によるものでした。彼らは神の霊によって油注がれ、「あらゆる仕事に就いた」とあります。幕屋に関するこの働き、あの働き、そのような働きも、すべて神の霊によって始められたものです。イエス様ご自身も、聖霊によって油注がれるまで、その大いなる働きを始められませんでした。『神はこの方に聖霊と力を注がれた』とあります。そして、聖霊によって生まれ、三十歳になるまで、正しくくもりのない生活を送られたイエス様でさえ、神の働きをするために油を注がれることが必要だったのなら、私たちも、もちろん同じです。

御霊によって生まれることと、御霊に油注がれることは同じではありません。御霊によって生まれることとは、新しいいのちへと移されること、神の子供とされること、神の御国へと入ることです。しかし、油注ぎは、神のための働きと関わっています。神の働きをするために、私たちには油注がれることが必要なのです。ベツァルエルとオホリアブという二人の男は、油を注がれました。『あらゆる仕事において、神の霊を満たした』(出エジプト記31:1-6)とあります。

荒れ野に置かれたこの幕屋が、聖霊の働きで完成したとき、型から型を破るものへと移り、荒れ野に置かれた幕屋から、真の幕屋である主イエス様へと移ったのであり、この主の性質はすべての細部に至るまで聖霊の働きによるのです。そして、神はモーセに、『山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい』と言われました。今度は、主は、神のための働きについて、同じくらい明確に、『わたしの御子に従って、すべてのものを作りなさい』と言われています。すべての細部に至るまで、キリストに従っていなければなりません。

神は、何ごとも人の考えに任せるようにはされないことに気を付けてください。実に多くのものが、幕屋を完成させるために必要となることが示されました。黄金のものには黄金、銀のものには銀、さまざまな色、さまざまな種類の布などです。さあ、何でもいいから材料があれば、持ってきてくれたら、私たちがうまく使うよ」などと言った人はいません。「さあ、ここにちょうどよい材料がありますから、垂れ幕としてお使いください」と言いに来た女性もいません。ベツァルエルとオホリアブなら言ったでしょう、「でも、これは色が合っていない、これは銀だけど、ここで使うものには金が必要なのだ。」誰であれ、「私は、この幕屋に使えるものを持っているので、ぜひ差し上げたいと思います。これを受け取って使ってください」などと言うことは許されませんでした。

神の霊が言ったことはこうです。それはキリストから来たものか?キリストの表れになっているか?あなたが考える神のわざではない。あなたの望みや判断ではなく、この世であなたがどう物事を行うかということでもない。大切なのは、ただひとつ、すなわち、それは神の霊によって天から来たものなのか?それを受けとるために、神を待ち続けたのか?すべての始まりから、常にこう問いかけられていたのです。使徒の働きの始まりも同じでした。

今朝は、始まりについていろいろとお話してきました。お話ししたかったところまで来ていませんが、皆さんが私が言っていることよりもずっと多くを理解していただけるよう願っています。キリストから来ていないものは、何であれ、いずれは消え去ってゆきます。ここを間違えてはいけません。キリスト教のこの全体の構造は、キリストご自身に基づいて試されるようになります。キリスト教は、それが、キリスト自身に基づいた神の御霊の働きであったかどうかという面から、試されようとしています。もう一度、主は言われます、「わたしは、地だけではなく、天も揺り動かす。」揺り動かすことのできるものであれば、いずれは取り除かれます。揺り動かされないものは、とどまります。では、永遠にとどまるものとは何でしょう?荒れ野に建てられた幕屋ではなく、イエス・キリストです。キリストであるものはすべて残り、キリストであるものだけが残ります。

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