2022年1月7日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第12回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十二回会合―『この御国は、永遠に続く御国である』
Meeting 12 - "This Kingdom is an Everlasting Kingdom

第十二回会合
(1964年2月8日午後)

今回は、今週の一連の講話の最終回になるので、これまで語ってきたことを少し復習しておきましょう。あまり長くはしませんが、昨夜の続きから進めるには十分です。しかし、その前に旧約聖書に戻りたいと思います。ダニエル書をよくご存知の方は、この書の第二章で、バビロンの王、ネブカドネザルの夢について説明されていることを覚えているでしょう。ネブカドネザルは夢の中で、大きな像を見ました。その像は、頭から足まで、体の各部分が異なる材料でできていました。頭は金でできており、体の他の部分は別々の材料でできていて、また、足とつま先は、あるところは鉄、あるところはと粘土で作られていました。

ネブカドネザルは夢から覚めたとき、これはどういうことだろうといぶかりました。その地域の人々は、夢には何かの意味があると、常に信じていたからです。おそらく、あなたがたもそうでしょう。不思議な夢を見たら、これはどういう意味だろうと考えるでしょう。次の朝、そのことを誰かに話して、その夢の意味を解き明かしてくれるように願います。ネブカドネザルも、そうしました。彼は、たくさんの賢者を呼び集めましたが、夢の中身については話しませんでした。それでいて、『この夢の意味は何か、教えてくれ』と言ったのです。しかし、誰一人、その夢を解き明かすことはできませんでした。

そして、最後に、ダニエルが連れて来られ、ダニエルが主に祈ると、主はダニエルに王が見た夢を教え、ダニエルは言いました、「この像の四つの部分は、四つの大きな王国を表しています。金の頭部は、ネブカドネザル王、あなたの王国である大バビロンです。あなたの後に、もうひとつの国が起こり、その国が亡びると第三の国が起こって、その国が消え去ると、また、次の国が起こります。」ダニエルは、ほとんどの国の名前を告げながらも、最後の国の名だけは言いませんでした。さて、ダニエルは、こうしてすべてを解き明かした上で、こう言いました、「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。他のどのような国とも違って、その国は永遠に滅ぼされることがありません。」天の神の国――新約聖書では神の御国とか、天の御国と呼ばれています――、愛する皆さん、私たちは、その国の時代に生きているのです。

さて、ここまでが、今週、お話ししてきたことでした。それは、横において、昨夜、話したことに戻ります。ダニエルの時代、イスラエルがまだ存在している時代に、天の神が別の別の国を建てると、ダニエルが言ったことは、非常に印象的です。その時、イスラエルの王国はまだ滅びてはおらず、イスラエルはバビロンに捕囚されていたものの、国としては存続していたのです。残された者たちはエルサレムに戻って、都と神殿を再建し、イスラエルはそれから四百年ほど続きました。他の国々に囲まれて、非常に苦しい時代を生きていました。しかし、私たちが見てきたように、天の神がご自分の御国を築き始めたとき、イスラエルの王国は消え始めました。この偉大なイスラエル王国は、天の神によって捨て去られたのです。そして、私たちが学んだように、天の神は、新しいイスラエル、天的で霊的なイスラエルを生み出して、古いイスラエルと置き換えました。他の国々を退けた天の神は、今度は、ご自身の新しい霊的なイスラエルを建て上げました。真に生まれ変わった主の民である私たちこそ、新しいイスラエルです。そして、この王国は永遠に続く御国です。消え去ることはありません。この王国を破壊しようと、世界ではあらゆることが行われています。世の権力者たちは、この御国を崩壊させようとしています。しかし、あの他の四つの国が滅び去って、天の神の御国が残っているのと同じように、彼らも失敗する運命にあるのです。この御国は永遠に続きます。

さて、ここで、昨夜、話しを終えたところに、戻ってきました。ヨハネによる福音書に入ります。ヨハネがこの福音書を、この時代の第一世紀の終わり頃に書いたことはご存じだと思います。他の使徒たちは皆、主のもとに旅立っていました。ヨハネは、長い生涯を生き、その長い年月を通して、イエスと旧約聖書との関係について、じっくりと考えました。ヨハネは旧約聖書をよく知っており、その全生涯を通じて、旧約聖書について考えていました。聖霊の光によって、彼はイエス様と旧約聖書との関係を、はっきりと見たのです。ヨハネは、旧約聖書の古いイスラエルが神に拒絶されたことを知っており、イエス様が新しいイスラエルを成すために来られたことも知っていました。

この新しいイスラエルは、この世のものではなかったのです。天のイスラエル、霊的なイスラエルでした。ヨハネの福音書は、すべての福音書の中でもっとも霊的であることは誰でも知っています。ヨハネは――旧約聖書のイスラエルは捨て去られても――、新しいイスラエルが、古いイスラエルの霊的な原則をすべて体現していることを理解するようになりました。イスラエルにおける神の思いは永遠の思いであり、そして、ヨハネは、古いイスラエルに表された神の思いのすべてが、今はイエス様によって、新しいイスラエルの中に霊的に引き継がれていたことに気づいたのです。ヨハネは、神が古いイスラエルから始められたとき、神はアブラハムに、栄光の神として現れたことを知りました。『栄光の神が私たちの父祖アブラハムに現われた』ことが始まりであり、旧約のイスラエルへ向けた神の第一歩でした。ヨハネは、それを新しいイスラエルに引き継いで、福音書の書き始めにあたって、この栄光の神の到来を告げたのです、『ことばは神であった。・・・・そして、私たちはこの方の栄光を見た』(ヨハネ1:1、14)。

こうして、ヨハネは、神が古いイスラエルを始めたところで、新しいイスラエルを始めました。アブラハムに息子を授け、その息子を通して大いなる国を建てて、その息子を通して地上のすべての国民が祝福されるという神の約束を、ヨハネは知っていたのです。彼は新しい考えを取り入れました。それは、創造ではなかったのです。主は、新しい人間を創造していたのではなく、その人を誕生させたのです。創造されることと生まれることは違います。その新しい考えとは、息子にしてくださるということです。イサクはアブラハムの息子とされるのです。

さて、ヨハネはその最初の章から、御子、神の子について語っています。そして、神はそのとき、御子の中に、神の子供たちの新しいイスラエルを建てようとしていたのです。だからヨハネは、御子の誕生について、語っています。イサクは、超自然的な土台に立っており、彼は、『血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである』と。そして、ヨハネは旧約聖書における始まりについて、もう一つ、別のことを知っていました。彼は、栄光の神がアブラハムに現れたことを知っており、神がアブラハムの子について語られたことを知っており、そして、その子の誕生は自然ではあり得ないことも知っていました。イサクは、自然の状態では、生まれることはできなかったのです。おそらく、皆さんは、このことはよくご存知でしょう。ここで、宣言しておきます。イサクは、自然の法則従えば生まれるはずはなかった。それにもかかわらず、イサクは生まれたのです。

さて、同じ考え方に立ったヨハネは、イエス様が自然なかたちでは生まれたのではないことを、よく知っていました。イエス様は、神が直接、介入された結果だったのです。イサクは、奇蹟でした。イエス様は、自然では起こり得ない奇蹟でした。イエス様は、その誕生からして、超自然的な土台の上にありました。しかし、イサクでさえも、死と復活にあずかる必要があったことを、私たちは見てきました。この話はよくご存じですね。私は、あなたがたが当然、聖書をよく知っているものとしてお話ししています。私が言っていることがわからない方は、聖書(創世記二十二章)に戻って、読み直してみてください。そこに全て書いてあります。イサクは生けにえとして捧げられ、そして、死からよみがえった者とならなければならなかったのです。

ここで、非常に印象的なことがあります!ヨハネによる福音書を読み始めるとすぐに、第一章で、この神の子がヨルダン川にやってきます。バプテスマのヨハネから洗礼を受けるために来たのです。バプテスマの意味は、ご存知の通り、死と埋葬と復活の象徴です。しかし、印象的なのは、次のことです。すなわち、このヨハネは、永遠の神の御子、全てのものを造られたお方について、告げ知らせていました。そして今、このヨハネは、まだほとんど何も起こっていないうちから、主を『神の子羊』と呼んでいます。ここに繰り返し書かれています、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』(29節)。この小羊は殺されなければなりません。黙示録に来ると、この小羊は玉座の真ん中にいて、すべての人がこの小羊を拝んでいます(黙示録5章)。この偉大なイサクは、死と復活にあずかるようになったのです。

さて、この講話の本題から少し外れて、応用編を考えてみます。今のこの時代の信者たちは、神の新しい天のイスラエルそのものであると言いましたね。私たちがこの天のイスラエルの一員となれるその根拠は何でしょうか?まず第一に、私たちが主イエス様の偉大さを見たということです。私たちは、程度の差こそあれ、『私たちは主の栄光を見た』と言うことができるのです。真の信仰者ならば誰でも、少なくとも主イエスの偉大さの一端を見たことがあると言えるはずです。あなたは、同じ言葉では言わないかもしれませんが、これが、『栄光の神が私に現れた』ということの意味なのです。『私は栄光の主を見た。』別の言い方をしたとしても、結局は同じことを意味します。神の御子としての主イエスの偉大さを表す何かが、私たちの心の中に示されたということ、それが新しいイスラエルへの第一歩なのです。今晩、この会場にいる皆さんの中で、自分はそのイスラエルの一員である、自分は主を見た、栄光の主が私の心に現れた!と言える人は何人いるでしょう。パウロと同じ言葉を使わなくても、同じ意味のことが言えるでしょう。『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです』(第二コリント4:6)。これが、新しいイスラエルの始まりです。

次に、私たちはイエス・キリストを信じる信仰を通して、神の子となったということです。私たちは、意欲によってではなく、血筋によって得たのでもない、本物の霊的ないのちを持っている人たちに属しています。私たちは、それを人から受け継いだのではありません。誰かに説き伏せられて、そのいのちを受け取ったのでもありません。人の意欲によってではなく、生まれた血筋によってでもなく、私たちは神の御霊によって生まれてきたのです。私たちは、神の御心のゆえに、神の子供なのです。さて、こういったことは、確かにすべて非常に単純で、非常に初歩的なことではありますが、話はこれで終わりではありません。

この新しいイスラエルに関して、次の大切な点に移ります。あなたも私も、死をくぐり抜けて、よみがえりの土台に立たなければなりません。自分の人生の中で、主のよみがえりの力を知らなければならないのです。これをパウロは、『キリストの復活と同じようになる』(ローマ6:5)と表現しています。この事実は、キリスト者としての生活の始まりにおいて非常に大切なだけではなく、歴史全体を通して新しいイスラエルの特徴となるべきものです。この二千年間の神の民の歴史を見てください。神があの偉大なローマ帝国を滅ぼされる前に、ローマ帝国は一千万人のキリスト者を虐殺しました。では、全部でどれだけの数のキリスト者が、そこにいたのでしょう?あの強大な鉄の帝国が、この新しいイスラエルを滅ぼそうと決意したことは、キリストの死にあずかる最初の壮大な歴史的バプテスマでした。これでよく、生き残った人がいたものだと思うと不思議です。しかし、最後に滅ぼされたのはローマ帝国の方でした。今日、その帝国の名残と言えば、ローマの街に残されているわずかな遺跡くらいのものです。

しかし、天のイスラエルはどこにあるのでしょうか?それは、世界中、どこにでもあります。このイスラエルは誰にも破壊できません。しかし、死にあずかる最初のバプテスマ以来、私たちが生きる今に至るまで、そのようなバプテスマは、数多くあったのです。天のイスラエルは、中国で死にあずかるバプテスマを受け、ロシアでも死にあずかるバプテスマを受けており、世界の他の場所で同じことが行われています。

さて、最後にはどうなるでしょう?このような迫害を行う人たちが歴史の本を読まないのは非常に残念なことで、彼らが歴史を学びさえすれば、次のようなことが分かるはずです。ユダヤ人の国家がキリストに対する信仰を殺そうとしたとき、ユダヤ人国家は捨て去られた。より強大だったローマ帝国が、天のイスラエルを殺そうと決断したとき、殺されたのは大なローマ帝国の方でした。天のイスラエルは存在し続け、他の多くの大国が同じことを試みてきました。しかし、天のエルサレムが消えたでしょうか?この霊的なイスラエルは、いつまでも続いてゆくのです。天の神は、誰にも滅ぼすことのできない王国を建てられたのです。

さて、このキリストの死と復活にあずかるバプテスマは、ただ歴史上のことではなく、過去に行われた出来事でもなく、個人の経験の中で起こったことでもあるのです。主は、何度も繰り返して、私たちを死の体験に導かれます――もうこれで終わりだと感じさせる経験であり、絶対に乗り越えられない思わされる経験です。経験の内容は、それぞれに違っていても、必ずそのような体験があります。すべてが終わる時が来たと思わされます。そして、これは私たちに何度も起こってきたことです。しかし、私たちは今も生きています。私たちの人生は、今も続いています。

使徒パウロは、自分の体験を語りました、『兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした』(第二コリント一章)。この使徒がこう書いたとき、これはすでに過去の経験だったのであり、その時点では、よみがえったものとして書いていたのです。時に、主の働きは、このようなかたちを取ることがあります。全てが、死へと向かっているように思えます。終わりが来た――もう、この先はないと感じます。私たちは、このような深い経験をします。主は、なぜそれを許されるのでしょうか?教会の歴史の中で、なぜ主は、それを許してきたのでしょうか?なぜ、ご自身が働いているところで、このようなことを許されるのでしょうか?そして、なぜ主は、私たちの個人的な経験の中で、それを許されるのでしょうか?

イサクの場合、なぜ主は、あのようなことを起こされたのでしょうか?昨夜の会合の最後で述べたことを思い出していただくと、それは、全てを超自然的な土台の上に保つ必要があったからでした。すなわち、この新しいイスラエルは超自然的なものであり、超自然の土台の上に置かれていなければならないのです。復活は、神だけが行われるものであり、神から来る全てのものについて、こう言われます。『これは神のものであり、人のものではない。』私たちの人生には、神の証印が押されていなければなりません。まだ力があるうちは、私たちは働きを続けられると感じます。しかし、時には、主が力を奪い、もうこれ以上、先に進むことはできないと思わされますが、そこで主の力が介入します。主の強さは、人の弱さの中で完成するのです。主イエス様の復活は、二千年前に一度だけ起こったことではありません。私たち皆の中で、絶えず起こっていなければならないことです。使徒パウロは、長い生涯を送りました。彼は非常に豊かな人生を送りました。彼ほど主を知り尽くしている人は、他にいなかったでしょう。しかし、人生の終わりに、彼はこう言っています、『私は、キリストとその復活の力を知りたいのです』(ピリピ3:10)。人生の最後に至っても、主の復活の力には、私たちが知るべきことが、まだあるのです。それが新しいイスラエルの本質です。ヨハネが、古いイスラエルの歩みを、霊的なかたちでたどっていることがわかりますか?

もう一歩、踏み込みたいのですが、時間が足りないかもしれません。ヨハネの福音書で、次に書かれていることに気づきましたか?第一章の43節にあります。ここで、ヨハネが、いかに原則に忠実であり続けているかを見てください。その時点で、イエスは十二人の使徒を召しています。この者とこの者というふうに選んで、彼らに向かって、『わたしについてきなさい』と言われているのです。主は十二人を選びました。これは、イスラエルの部族の数です。だから、十二という原則の上に、主は、新しいイスラエルを構成しているのです。しかし、そうしているあいまに、主は一人の男を召しており、その男の名はナタナエルといいます。ある者がナタナエルを連れて来たとき、ナタナエルが自分の方に来るのを見たイエス様は言われました、『これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない!これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちにはヤコブはいない!』ナタナエルは言いました、『先生、どうして私をご存じなのですか。』イエスは言われました。『わたしは、あなたの友があなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』ナタナエルは、なぜいちじくの木の下に行ったのでしょうか?彼は、祈りたかったのであり、誰にも祈るところを見られたくなかったのです。一人で、静かに、誰にも見られずに、誰にもじゃまされずに祈りたかったがゆえに、いちじくの木の下に入ったのです。イエス様は言われました、『わたしは、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た。』それは、とても太いいちじくの木だったはずで、だからこそ、ナタナエルは驚愕し、そこで彼を見た人がいたことに驚いて、言ったのです、『先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』ここで、イエス様が言われたことを聞いてみましょう、『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』

アブラハムから始まり、イサクへと続き、そして、ヤコブまで来ました。ヤコブの夢の話は、誰でも知っています――彼が旅をしていて、日が沈んだとき、ある場所で火をともして、眠りにつくと、彼は夢を見ました。彼は、はしごが地に立てられているのを見ました。その頂は天に届いていました。そして、神の使いたちがそのはしごを上り下りするのを、彼は見ました。そして、主は、はしごの上におられました。そして、主はヤコブに語られました。ヨハネは、この出来事をも、引き継いでいます。聖霊がすべてを引き継いでいると言った方がよいかもしれません。私たちはヤコブのところまで戻ったのです。ヤコブに対して、神の働きかけが始まったのは、どこだったでしょうか。ヤコブの偉大なところは何でしょう?ヤコブについては、いろいろなことがありますが、今は忘れてよいでしょう。そして、私たちが、この夢について語るのは、イエス様がその夢を取り上げて、触れられたからです。主は、ナタナエルに、『ほんとうのイスラエル人で、そのうちには偽りがない!』と言われました。そして、彼に向かって、主は後に言われたのです、『天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』

もちろん、これは型であり、図式に過ぎません。それが何を意味していたのか、すぐに分かります。もう一度、旧約聖書に戻らなければなりません。アダムがあの園で罪を犯した日から、神の臨在は終わり、閉ざされました。旧約聖書全体を通して、神は完全に人間から離れたままであり、人間が神に近づくことはできません。旧約聖書のあらゆる部分で、人間は、『中に入るな!近づくな。ここは神聖な場所だ』と告げられています。幕屋の周りの庭は、人間に向かって、『近づくな。ここに入ってはいけない。入れるのは祭司だけだ。お前たちは入ってはいけない』と言ったのです。このように、人間は神の臨在から排除されていました。神の臨在の中に入るのは恐ろしいことでした。誰であれ、神が近づいてきたと感じたら、その人は命が脅かされているとすら感じたでしょう。天は閉ざされました。古いイスラエルの天は閉じられました。『天が開けるのを、あなたがたは見ます。』この新しいイスラエルのすばらしい特徴は、そこには、イエス・キリストにあって開かれた天があることです。

イエス様が言われたこのことを、ナタナエルが経験をするようになったのは、いつでしょう?新約聖書から使徒行伝の冒頭を開いてください。イエス様が復活された後、その場に集まった人たちの名前が書かれています。あの人、この人、あの人と挙げられる中に、ナタナエルの名もあります。ああ、ナタナエルがここにいます!そして、彼らはみな、一つ所に集まっていました。突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こりました。すると、みなが聖霊に満たされたのです(使徒行伝2章)。ここに、天が開きました。なぜでしょう?イエス様が、天まで昇られて、天を開かれたからです。そして、その日だけでなく、それからずっと、彼らは開かれた天の下で生きたのです。つまり、彼らは、このとき、自由に神へと通じる高速道路を手に入れました。もう、外から見ているだけの者ではありません。聖霊は、あなたは今、大胆に恵みの御座に近づくことができると言いました。もはや、神への扉は閉ざされてはいません。天は開かれています。新しいイスラエルが受け継いだ財産がこれです。

私たちも今日、多少なりとも、同じ経験をしているのではないかと思います。今夜、ここには開かれた天があります。主イエス様の中で、神が天から語りかけておられることについて、私たちも何かしらは知っています。神様が語る言葉が、天から私たちに届いているのです。私はそれが真実であると信じています。それは、新しいイスラエルである私たちの大きな特権です。さて、もうこの辺で終わりにしなければなりません。まだ、ヨハネの第一章しか読んでいませんが、それが、ヨハネの福音書全体を通して、最後まで続いています。このすばらしい福音書に書かれていることは、全てこの新しい霊的なイスラエルに関わりを持っています。私たちは、主イエス様を通して、栄光の神のもとへ、そして、霊的な息子の地位を与えられるという驚くべき奇蹟へと導かれるのです。私たちは、主の復活の力を知るために学んでおり、また、開かれた天国の意味を、より深く体験しようとしています。これは単なる聖書の教えではありません。すばらしい霊的体験なのです。その全てを、この新しいイスラエルの子どもたちが受け継ぐことになっています!


オースティン-スパークス、マニラ講話、全42回中、第12回。
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