2022年1月18日火曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第13回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十三回会合―『私たちの生活と奉仕の中に、主は混ぜ物を受け入れない』
Meeting 13 - The Lord Will Never Have Mixture in Our Life or in Our Work For Him

第十三回会合
(1964年2月9日午前)

ヨハネによる福音書の第四章をもう一度、読みます。(そして、読者はこの章を読むことで、大いに得るものがあります)。皆さんには、とくに、この章の二十三節に立ち返っていただきたいと思います。『真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。』

この箇所と並行して、別の節もひとつ、取り上げます。へブル人への手紙、4章12節、『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。』

これまでの一週間の講話で、私たちは、主イエス様の教えと行動の全てが、古い秩序から新しい秩序への移行の時に関わっていることに注目してきました。イエス様は二つの秩序、過ぎ去ろうとしていた古い秩序と、ご自身がもたらそうとする新しい秩序のあいだに立っていたのです。そして、このヨハネによる福音書の第四章は、この移行の時期の中心に、この移行の真実を説明するものとして置かれています。この章では、二つのものが出会っているのですが、その状態には、非常に分かりにくいところがあります。

その状態がどのようなものか、見てみましょう。イエス様がサマリヤを通って、あの女に出会ったのは偶然ではありません。すべては、この大きな福音の一部分だったのです。イエス様はサマリヤにおられ、そして、イエス様はこのサマリヤの女性に出会います。サマリア人について知っている人は、彼らが混血した民族だったことをご存じでしょう。エルサレムが外国に侵略され、イスラエルの全土が外国人に制圧されたとき、多くのユダヤ人が捕囚として連れ去られました。しかし、その地に残った者もおり、彼らは外国人と結婚したのです。ユダヤ人が、非ユダヤ人と結婚しました。つまり、サマリヤ人は混血によって生まれた民でした。彼らは、どこかひとつの民に属する人たちではなかったのです。これが、彼らがユダヤ人に憎まれていた理由であり、こう言われていました、『ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった。』サマリヤ人は、その成り立ちからして、混ぜ物だったわけです(ヨハネ4:4~9)。

主がこのサマリア人の女性に出会ったのは、この井戸でした。そこはヤコブの井戸であり、ヤコブはこの土地を息子であるヨセフに与えていたことに注意してください。つまり、このいろいろなものが混じりあった状況こそ、昔のイスラエルの姿を表しているのです。ヤコブとヨセフがここにいます。そして、この井戸によっては、この女は満たされていなかったことが分かります。彼女は、毎日、その井戸から水を汲みに来ていたのですが、心は満たされていませんでした。イエス様は彼女に言われました、「この井戸の水を飲む者は、何度も戻って来ます。決して、満たされることはありません。」これは古い時代のことです。それは、誰の心を満たすことはなかったのです。

旧約聖書の時代にイスラエルで捧げられた何百万といういけにえを思い出してみてください。何百年にも渡って、毎日、朝晩、いけにえが捧げられてきました。それでいて、そのいけにえによって、何も完成することはなく、ますます多くのいけにえが求められました。祭司たちは幕屋や神殿に入り、毎日、祈りをささげました。しかし、彼らの毎日の祈りも、何かを成し遂げることはなかったのです。モーセの律法は絶えず民に向けて読まれましたが、彼らの性格は変わりませんでした。彼らの心を満たすことはできなかったのです。旧約の時代には、すべてがこうだったのであり、ヤコブとヨセフがそこにいたこの井戸は、旧約の時代を象徴しています。あなたが生涯を通じて、毎日、この井戸に来て、その水を飲んでも、心が満たされることはありません。なぜなら、新約聖書の作者が言うように、「律法は何事も全うしなかった」からです。だから、この哀れな女性は、これまでの生涯、毎日、水を汲みに来ていながら、満たされていなかったのです。さあ、ここにいるのが、サマリヤの女です。彼女は、二つのものが混じり合った状態を表しており、明白ではなく、純粋でもなく、二つのもののどちらかひとつとは言えない状態にあります。そして、ここには井戸があり、それは、旧約聖書に対する失望を語っています。

弟子たちについては、どうでしょうか。弟子たちはパンを買うために町へ出て行ったとあります。イエス様が一人だけ、残されました。彼らが町に出て行ったとき、女はそこにいなかったことになります。しかし、弟子たちが出かけた後、女は町を出て、この井戸のところにやって来ました。そして、イエス様と女のあいだで、あのやり取りが始まったのです。弟子たちが帰ってきて、イエス様がこの女と話しているのを見たとき、もちろん、彼らはこれがどんな女なのか知らなかったし、その罪にまみれた人生についても知らなかったのです。彼らが知っていたのは、彼女がサマリヤ人の女であることだけでした。そして、イエス様がサマリヤ人の女と話しているのを見たとき、彼らは大きな衝撃を受けたのです。彼らはユダヤ人でした。ユダヤ人は、サマリア人とつきあいをしなかったのです。それなのに、そこでは、自分たちの先生が、サマリヤの女と親しげに話しているではありませんか。彼らにとって、それを耐えがたいことでした。どうしてでしょう?ユダヤ人である彼らは、旧約聖書に属しており、そこでは、ユダヤ人と異邦人は、互いに関りを持たないものだったからです。彼らはまだ、旧約聖書という土台に立っています。旧約聖書の偏見を引きずっていた彼らには、それが容認できないことと映ったので、二人のあいだに割って入ろうとしました。

弟子たちはパンを持ってきて、「先生、ここにあなたのために買いに切ってきたパンがあります。食べてください。」彼らは、これで、二人の立ち話を打ち切ることができると考えたのです。彼らは言いました、「先生、食べてください。」イエス様は言われました、『わたしには、あなたがたの知らない食物があります。』ここでまた、弟子たちは新しいものを理解できていないことが明らかにされました。弟子たちは互いに言いました、「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」彼らは、物質的にしか考えるだけで、霊的に考えることはできませんでした。イエス様は言われました、「御父のみこころを行なうことが、わたしの食物であり、飲み物です」(ヨハネ4:27~38)。

さて、この話に現れるほとんど全てのものには、ある面で、混ぜ物があることが分かります。純粋なものは、ひとつもありません。完全にどちらか片方だけでできているものがないのです。しかし、イエス様のいる側へを見るとき、ここには混ぜ物がありません。イエス様が与えると言われる水は、非常に澄んだ水です。その水には、何も混じっていません。それはいのちの水です。そして、この水は完全な満足を与えます。それは、御霊の水です。

この二十三節の聖句をご存知でしょう。ひどい罪人であるこの女性に、イエス様が、「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」と言われたのは、興味深いことです。彼女がこれほどの罪人であったのに、イエス様は彼女に、聖書の中でもっともすばらしいことを語っています。私がこう言うのには理由があります。今朝、私が話そうとしていることは、高度のキリスト者のためのもので、初心者には向いていないと思う方もいるかもしれません。しかし、私がこれから語ることは、真のキリスト信仰の根底にあるものです。何年もこの道を歩んできた人のためのものではありません。実際、長年、この道を歩んできた方々の中にも、最初の課題に戻って学び直す必要がある人も多くいます。しかし、ここにいるのはキリスト者としての生活が始まったばかりの女性です。そして、イエス様はこの女性に、ただ一つのことを言っておられます。この話にあるすべては、この一つのことを指し示しているのです。すなわち、キリスト者の生活の始まりは、キリスト者の生活の他の全ての段階と同様に、水晶のように澄み切っていなければなりません。今、若い人たちだけでなく、年齢を重ねたキリスト者にも、このことに着目して欲しいと思います。聖書は、神が憎まれることがひとつあると告げています。神が、決して受け入れず、祝福もしないそのものとは、混ぜ物です。混ぜあわせとは、互いに相容れない二つのものを一緒にすることです。神のものではない何かを持ってきて、神のものと結びつけようと試みる状況。それが混ぜ物です。これは、悪魔が最初に行ったことであり、神はこれを嫌います。神は混じり合った物を、決して受け入れません。

旧約聖書に、このことが分かりやすく説明されているところがあります。主がイスラエルに命じたことのひとつにこんなことがありました、「あなたがたは、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。」もちろん、今ではこれは普通のことです。私たちが着る衣服は、様々な素材から仕立てられています。しかし、神はイスラエルに向かって、あなたがたは羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならないと言われました。そう、これは旧約聖書に記されたたとえ話です。外面的な話でありながら、内面的な意味を持っています。神は、何を言いたかったのでしょうか?今朝、この会場で羊毛の衣を着ている人は、あまりいませんね。そして、二、三週間もすれば、この街のどこへ行っても、羊毛の服を着る人は、まず見られなくなると思います。なぜでしょうか?羊毛を着ると、汗をかくからです。体の中の熱が、外に吹き出します。生まれたままの命は、羊毛の中に現れています。しかし、今朝は、ほとんどの人が綿の服を着ています。なぜ、綿を着ているのですか?綿は、自然の熱を抑えてくれるからです。

この神の教えが分かりますね。自分の人格の中に、肉のものと霊のものとを、一緒にしてはいけないのです。衣服は私たちの性格を語りますね。この国ではそれほどでもないかもしれませんが、西洋の国に行ったら、人々が来ている服装に目をとめるでしょう。あなたは、人を見て、「どうも、彼女のことはよく思わない」などと言います。あるいは、他の誰かのことを、「なんて非凡な人なんだ!」と言うかもしれない。服装でその人の性質を判断するようになるのです。そして、一般に、服装には性格が表れるものです。ですから、神は旧約聖書のたとえによって、こう言っています、「あなたが真のイスラエル人なら、二つの性格を持つことはできない。わたしの民は、どちらか一方でなければならない。私は混ぜ物を持つことはしない。」

しかし、神はそれだけでは終わりませんでした。そこに、別の命令を付け加えたのです。「牛とろばとを組にして耕してはならない」と、神は言われます。違いは何でしょうか?旧約聖書では、牛は清い動物ですね。清らかな動物の仲間に入れられています。牛を食べることは許されています。その肉はきれいです。旧約聖書では、ろばは汚れた生き物の方に含まれています。とくに、イスラエルではそうでした。ここで、神は、「あなたは、わたしのために行う働きの中に、互いに反するふたつのものを持ち込んではならない」と言っています。耕すときに使う鋤は、働きを象徴しています。そして、神は、このたとえによって、こう言われています、「あなたがたが、わたしの働きをするとき、互いに相反する二つのものを用いて行ってはならない。わたしのための働きの中で、霊的であるものと、肉的であるものとが混ざることは許さない。肉から来るものと霊から来るものを、わたしの働きの中で、一緒にすることは認めない。」旧約聖書にある神のたとえについて、もう十分にお話ししたと思います。ここには、神が決して、混ぜ物を受け入れないことが示されています。神と共にあるものは、すべて完全に純粋でなければなりません。明確にどちらか片方だけに属するものでなければいけません。人生においても、奉仕においても、互いに相反するものが混在することは許されません。

さて、前のヨハネの章に戻ります。これまで、ある面を見れば、すべてが混ぜ物であったために、完全に期待外れとなったことを見てきました。なにも、成し遂げられなかったのです。あれほど多くのことが行われながら、最後は失敗でした。しかし、もう一つの側面があります。主イエス様という側面です。主が、ご自身が与える水と言われるとき、何について話しているのでしょうか?そう、主は、霊とまことという言葉について、分かりやすく説明しているのです。主は言われます、『真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。』聖霊は、この新しい時代の特徴となるものです。もし、まだ読んだことがなければ、このヨハネの福音書を手に取って、聖霊が出てくる箇所を探しながら、全体を読み通してみると良いと思います。この福音書が、三十回も聖霊について触れていることが分かるでしょう。そして、主イエス様は、ご自分の教えの非常に大きな部分を、この聖霊の問題に割いておられます。すなわち、古いものから新しいものへの移行です。そして、その新しいものとは、聖霊にあるいのちです。

私たちの新生の性質について、少しお話しさせてください。若い人たちは、このことをはっきり理解しておく必要があるでしょうし、私たち全員、このことを思い起こす必要があります。私たちは皆、人間の精神を持っており、人間の魂を持っており、もちろん、人間の体も持っていることはご存じでしょう。しかし、霊と魂の違いを理解している人、知っている人は、多くありません。私たちの霊は、私たちが御霊なる主と交わりを持つことができるようにと、神が与えてくださったものです。イエス様は、あの女に、『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』と言われました。

さて、神はアダムに魂と身体だけでなく、霊も与えました。アダムも、不従順になる前は、霊の中で神と交わりを持っていました。アダムの霊が神に向けて生きていたため、神は、彼に向かって語り掛けることができました。アダムには、神から来るものを受け取る能力が備わっていたのです。アダムが罪を犯したとき、彼の霊は神に対して死んだ、すなわち、彼は霊において神から切り離された――彼自身と神との間のつながりが、もはや無くなったのです。神との交わりとは、常に霊的なものであるはずですが、それが破壊され、霊は人間の魂の支配のもとへと、沈んでしまいました。魂が、霊を支配するようになったのです!魂とは何でしょうか?それはいわば、私たちの理性であり、私たちの感情であり、私たちの意志です。多かれ少なかれ、誰にでもあるものです。あなたには理性があります。だから物事について、論じ合うのです。そして、意志があります。中には人よりも強い意志を持っている人もいますが、とにかく、私たちには皆、意志があります。そして、あなたには感情があります。強い感情があります。これらすべてが相まって、魂を作り上げています。でも、魂はこの世としか関わりがないものです。神とは何の関係もありません。もちろん、身体については、何も言う必要はないでしょう。私たちは皆、自分には肉体があることを知っています。そして、生まれ変わるまでは、私たちには、神のことを理解できません。霊の中で語っておられる神の声を聞くこともできません。神との交わりを持つこともできません。では、生まれ変わったときは、何が起こるのでしょうか?私たちの中にありながら神から切り離されていた霊が、息を吹き返します。そして、神が私たちにとって、再び生きた存在となるのです。私たちに語りかける神の声を聞くことができます。神のことを理解し始めます。次いで、神を『父』と呼び始めます。それまでは、神について話すことがあっても、全能なる神ととらえていただけでした。今や、神は私たちの父であり、すぐに近くにいます。神から切り離されて死んでいた私たちの中の霊が、息を吹き返したのです。そして、今、私たちは御霊の中、神との交わりの内に生きることを求められています。

しかし、私たちが新しく生まれ変わるときに起こることが、もうひとつあります。神の霊である聖霊が、私たちの新しい霊の中に入ってくるのです。私たちには、天から語りかけている神の声を聞くことはできません。しかし、神が私たちの心の中で語っていることは知っています。霊の中に住まわれる聖霊が、私たちが間違っている時には教えてくださり、正しい時には主の喜びを与えてくださることを、私たちは知っています。それが、この新しい時代の秩序なのです。若い皆さんには、とても難しく聞こえるでしょうか?実は、とても簡単なことなのです。これは、私がキリスト者としての生活を始めて、最初に学んだ教訓のひとつだと思います。私には、新生する前によくやっていたことがありました。そのことが何かの害を及ぼすとは、思ってもいませんでした。実際、私は自分の魂と、「このことのどこが悪いのか?」とよく論じ合ったものです。それが、何であったかは、あえて話しません。それは、この世に属する人なら誰でもするようなことであり、また、誰でも行くような場所でした。

まあ、私も新生する前はそういうことを、よくしたものでした。その後、主を現実的に体験したのです。誰かが私に、「あなたはもうキリスト教徒なんだから、そういうことをしてはいけない」と言ったわけではありません。でもある日、昔は普通にしていたそのことをやってみたら、どうでしょう――心からよろこびが全部、消え去っていたんです。それまで何年も、そのことをしてきても、疑問を感じたことはなかったのです。でも、同じことをやったとき、よろこびは失われていました。すべてが間違いだったように思えたので、私は家に帰り、自分の部屋に入って、ひざまずいて、何が起こったのか、主に尋ねずにいられませんでした。なぜこんなに惨めな気持ちになるのですか、これはどういうことですか?主はただ、こう言われました、「あなたは、古いいのちを、新しいいのちの中へ引き入れている。そして、わたしは、この混ぜ物を受け取ることはできない。あなたは今、キリストにあって新しく造られた者であり、古いものは過ぎ去ったのだ。」

今となっては、これは、私がキリスト者としての生活で学んだ最初の教訓の一つであったと言えます。その時は、それは現実におこったことでした。私は生まれ変わり、聖霊が入ってきて、主が喜ぶことは何か、主が喜ばないことは何かを教えてくれていたのです。皆さんも、きっとお分かりになると思います。キリスト者としての始まりは、このようであるべきです。しかし、キリスト者としての生活は、全体を通して、このようであるべきなのです。親愛なる友である皆さん、私自身だけでなく、主を長いあいだ知っている者、主のために長く働いてきた者として、私たちは、この初めの規範が最後まで続くことを忘れてはなりません。私たちは、キリスト者としての性格に、古いいのちを持ち込むことはできないのです。私たちは、キリスト者でありながら、同時に別の何かでもあるというように、二つのものであることはできません。主はそれを受け入れません。そこに主の祝福はありません。私たちのキリスト者としての働きにおいて、この世のものとキリストのものとを、並べて持つことはできません。私たちのキリスト者としての働きに、世俗的な方法が入ってはならないのです。神はそのような混ぜ物を受け取りません。遅かれ早かれ、すべてが混乱に陥ることになります。主には、生活においても、働きにおいても、混ぜ物がありません。主は言われます、『彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる』(第二コリント6:17、18)。

ここから、主がサマリアの素朴な女に教えようとしていた偉大な教訓を知ることができます。彼女の周囲と内側にあったすべてのものは、混ぜ物のことばかり語っていたのです。しかし、主は彼女に、混ざり物のないいのちの水について語られました。聖書の終わり、黙示録の最後の章まで来ると、そこにも、もう一つの神の偉大なたとえ話、もう一つのすばらしい説明がありますね。それは天のエルサレムです。これは、教会において完成された神の御業を表しています。新しい天のイスラエルにおいて完成された神の御業。それは新しい霊的なエルサレムです。そして、その街の中央を、水晶のように澄んだいのちの水の川が流れているとあります。その川には泥がありません。その川をのぞきこめば、とても澄んでいるので、底まで見通すことができます。それは、いのちの水が流れる川です。そして、その川で、最後には、すべての汚れは消え去ることになると、神は言われます!混ぜ物は取り除かれて、すべてが完全に純粋で澄んだものとなります。すなわち、主は私たちを聖なる人生へと召しているのです。そして、真に清らかであることとは、全てが神のものであって、他のものは何もないこと、私たちのものと主のものが混在しているようなものではなく、また、主のものと世のものが混じっていることもなく、完全に主おひとりのものであることを意味しているのです。これが、最初に取り上げた節の意味です、『真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。』

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