2022年2月2日水曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第14回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十四回会合―『新しいイスラエルの過ぎ越し』
Meeting 14 - The New Israel's Passover

第十四回会合
(1964年2月9日午後)

引用箇所:出エジプト記十二章
今夜は、聖餐式について、少しお話します。これはおそらく、キリスト教の式典の中でも、もっとも広く知られているものです。キリスト教のほとんどすべての宗派で、何らかの形で聖餐式が行われます。もちろん、宗派ごとに、呼び方は異なります。ローマ教会では、彼ら独自の名前で呼ばれています。また、他の団体には、別の名前があります。私たちは、『聖餐式』と呼んでいます。しかし、それぞれに形式は違い、呼び名は違っていても、この式は、ほとんどすべてのキリスト教徒のあいだで行われるものです。あまりにも一般的で、どこででも見られるので、私たちはこの式が意味するものの全容を見失う危険にさらされています。聖餐は、私たちがおそらく毎週、決められた順序に沿って行う様式の一端となっています。そして、そこには、私が言ったように、危険が伴うのです。私たちは、その式が持つ価値のある面は守っています。その式が持つ意味のある面には感謝しています。しかし、私が言ったように、その非常に大きな意味の一端を見失ってしまう危険が、常に付きまとっています。

聖餐式(the Lord's Table)、あるいは、主の晩餐(the Lord's Supper )が、新しいイスラエルの過ぎ越しであることは、皆さんも理解していると思います。聖餐式は、ユダヤ教の過ぎ越しを引き継ぐものです。主イエス様が新しい天のイスラエルを作り始めた時、それまでの過ぎ越しに代わるものとして、『主の晩餐』を定めました。その形式は多少、変わっても、そこにある意味は変わっていません。主イエス様は、過ぎ越しの霊的な意味を、聖餐式へと引き継がれたのです。聖餐式の中にある過ぎ越しについて、これから少しだけお話しします。私たちは、この問題には二つの側面があることを、忘れがちなのではないでしょうか。そして、私たちは、一方の面、すなわち、主が私たちのためにしてくださったことの方に多くの時間を費やします。主が私たちのためにしてくださったことは、どれだけ感謝しても足りないくらいです。そして、この聖餐式は、主が十字架の上で私たちのためにしてくださったすばらしいことを語っています。ですから、主が私たちのために死ぬことで示された大きな愛のゆえに、心のすべてを向けて、主を賛美することは、当然のことです。

それがひとつの面に過ぎないと言っても、それは聖餐の意味を貶めようということではなく、そこには別の面があるということです。その別の面では、私たちも参加することになります。始めの面は、主が私たちのためにしてくださったことです。別の一面とは、それによって私たちにもたらされる大きな可能性のことです。当然、今夜は先に出エジプト記の第十二章を読んでおくべきだったでしょうが、その時間がありません。皆さんは主の民ですから、この章はご存知だと思います。イスラエルで最初に行われた大いなる過ぎ越しについて記録されているのがこの章です。イスラエル人がエジプトから出てきた時のあの偉大な過ぎ越しの夜です。あの過ぎ越しが、真の神とエジプト人の多くの神々との壮絶なぶつかり合いの最終局面であったことは、覚えているでしょう。エジプト人の神々はこの世の君、サタンの王国を表しており、神の民の贖いに正面から対抗したのです。神は、この邪悪な世界から、ご自分の民を救い出そうと決意されていました。そして、エジプト人の神々はみな、『彼らを行かせてはいけない』と命じていました。そこには、パロとエジプト人だけでなく、エジプトの神々――エジプト人たちとパロの背後にいる邪悪な霊の力があると、主は言われました。そして、神はこの悪の勢力と、正面から大きな争いに入りました。神は、彼らの上にさばきに次ぐさばきを加えられたのです。神は、九つの恐ろしいさばきを、エジプト人の神々の上に浴びせかけました。しかし、その後も戦いは続きました。そして、神は言われました、「この戦いをわたしは終わらせる。もうひとつのさばきを下して、私たちは勝利を得ることになる」と。

最後の十番目のさばきを思い出してください。そのさばきは、過ぎ越しの夜に行われました。ここで、第一に注目していただきたい点は、この過ぎ越しは大きな霊的な戦いの最大の局面であったということです。イエス様が、過ぎ越しの意味をご自身の人格の中に取り込んで、ご自分の体を過ぎ越しの小羊のようにささげ、また、ご自身の血も捧げられた時、主は、あらゆる悪の力との壮絶なる戦いに入られたのです。十字架へと向かうとき、イエス様は、『今、この世を支配する者は追い出される』(ヨハネ12:31)と叫ばれました。また、パウロは、『神は、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、、十字架の上で彼らに勝利された』(コロサイ2:15)と言っています。主イエス様の十字架において、悪の力との壮絶な戦いが最高潮に達しました。それが、過ぎ越しの最初の意味でした。そして、それは、聖餐式の最初の意味でもあります。聖餐式は、私たちが、全ての悪の力に対する主イエス様の大いなる勝利に引き入れられたことを意味しているのです。私たちは、そのことを知ってはいても、聖餐式を執り行うとき、忘れていることがあります。この聖餐において、私たちは主イエス様の勝利を祝っているのであり、このすばらしい勝利の中に私たちも加えられているのです。そのことを忘れないようにしましょう!聖餐式に参加する時は、私たちはいつも、主の勝利を祝っています。そして、主の御体と血潮の象徴を受ける時には、こう言っています、「私たちは主のすばらしい勝利の内に立つ。」

さて、過ぎ越しに関する二つ目の点に移ります。過ぎ越しの焦点は、初子でした。主は言われました、『わたしはエジプトの地を巡り、エジプトの地のすべての初子を打つ。』ここでいう、初子は、当時、常に全家族の代表でした。初子とは、まさしく家族そのものだったのです。もし、初子が死んだら、すべてを失ったのと同じでした。その場合、初子だけにかけられていた父親たちの希望は、すべて失われました。初子は、家族の中の祭司でした。初子は、神の前で家族を代表していました。初子は家族全体の祭司としての役割を負っていたのです。現代に生きる私たちには、当時、初子がどれほど重要であったか、とても理解できません。主は、この最後のさばきで、エジプトのすべての家庭の初子を殺そうとしていました。

しかし、主は、その中でイスラエルの民にだけ、しるしを与えました。そのしるしは、過ぎ越しの小羊の血の中にありました。主は、その血を門柱に振りかけるように命じられました。主は言われました、「わたしがエジプトの地を巡り、エジプトの地のすべての初子を打つときも、門柱の血を見たら、その家の初子は打たない。わたしは、その家の初子を生かしておく。」この話の全体の焦点が、初子にあったことが分かります。ヘブル人への手紙の中で、このことについて多くが述べられていますが、手紙の作者は、教会を長子たち、すなわち、初子たちの教会と呼びました。つまり、この血によって守られていないすべての人には、さばきと死があるということです。しかし、「過ぎ越しの小羊」の血が、長子たちの教会をさばきと死から救ってくれました。これは、過ぎ越しが意味するすばらしいことです。過ぎ越しが私たちの生活においても真の意味を持っているなら、私たちも長子たちの教会に属する者です。長子について、先ほど述べたことは、全て私たちにも当てはまります。すなわち、私たちは神の家族全体を代表しているのです。私たちは、神に対する祭司とされました。私たちがいる場所は、父の家の中で非常に名誉あるところです。小羊の血のゆえに、私たちはこの場にいるのです。このことについてもまた、いくらでも時間をかけて語ることができます。

そして、過ぎ越しについて、もうひとつ、別の要素ですが、出エジプト記の十二章には、この過ぎ越しの背後にあるものが示されています。そこに描かれているのは、ご自身の権利を主張するために来られる正しい王です。この王は、ご自分の権威と権利が一度は拒絶された国に来ようとしています。新約聖書の言葉を借りれば、彼らはこう言ったのです、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』彼らは、この方の王という地位を認めることを拒絶しました。そして、自分たちに対する主の権利を認めることも拒否しました。このため、王はご自身の権利と地位を主張するために来られました。このとき、王は処刑人を伴って来られました。王は、前もって使者を送り、民が扉にある印をつけけおけば、その家には処刑人を送らないと告げていました。その上で、主は処刑人を連れて来られたのです。主は、すべての街路を通りながら、一軒一軒の家を見て回っています。主は、門柱に付けられたこのしるしを探しておられます。そして、この印を見ると、処刑人に言われます、『この家には入るな、この家の者には手を出すな、彼らはわたしの忠実な民であって、わたしの権威を認めている。』しかし、しかし、扉にしるしが付いていなければ、主は、処刑人に、『この家に入り、初子を殺せ』と言われます。

それが、過ぎ越しの物語の背後にある情景なのです。血を見るとき、わたしはあなたの上を通り過ぎる。あなたはさばきから、そして、死から救い出される。これが、イエス様の尊い血潮を私たちが受け取り、その血が私たちのいのちに注がれたということの意味なのです。その尊い血潮というしるしが、私たちの救いであり、さばきと死のあらゆる力からの解放です。それは、私たちが聖餐式を行うたびに、意図されていることです。私たちは、神のすべてのさばきと、死のすべての力から、力強く解き放たれた民なのです。なぜでしょうか?それは、私たちが、信仰によって、イエスの尊い血のすべての徳を受けたからです。そして、イエスの血を受ける中で、私たちは自分が主の民であることを表明したのです。私たちは主の側にいます!私たちには、王としての主がいます!私たちは、主の権利をすべて認めています!この方こそ、私たちの主です。私たちの王です。これこそが聖餐式の意味です。

ここで、もう一つ別のことをお話しします。過ぎ越しは、神の民と、この悪の世界とのあいだの絶対的な隔たりを示しました。それは、絶対的な断絶でした。パロがあのような恐ろしいさばきを受けてひどい目にあっていたとき、彼も、少し気を許したことがありました。彼は言ったのです、「では、おまえたちのうちの何人かは行ってよい。ただ、女たちと幼子はとどめておけ。男は何人かは出て行ってもよい。」モーセは何と答えたでしょうか?彼は言いました、『私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。』私たちが行くときは、全てがまとめて出ていくのです。何ひとつ、後に置き去りにはしません。それは、この世からの完全な分離でなければなりません。「全世界は」と、この使徒は言います、「悪い者の支配下にある。」そして、私たちはその世界に属してはいません。過ぎ越しは、ですから、神の民がこの世から完全、かつ、絶対的に分離することを明らかにするものです。そして、主がそれをどのように実現されたかは、ご存知のとおりです。まず始めに、主はエジプトにいたすべての初子を打ちました。そして、後にパロが考えを変えて、イスラエルの民を追いかけた時、主はパロの軍隊をすべて紅海に沈め、主の民とエジプトのあいだに紅海を置かれました。

過ぎ越しは、主の民とこの世のあいだの、非常に明確な境界となったのです。そして、明らかに、これこそ、主イエス様が聖餐式によって意図されたことです。ご自分をいけにえとして捧げようとする前、主は、大祭司として祈りながら、御父に言われました、『わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。彼らを・・・・悪い者から守ってくださるようにお願いします。』これが、聖餐式のもうひとつの意味です。聖餐式に着くとき、私たちも本当にこのような気持ちを持っているでしょうか?私たちは本当にこう信じているでしょうか、すなわち、私は、神によってこの世から完全に切り離された民の一人である。私はこの邪悪な世界から救い出された。私はこの世界に属していない。この世界で私が行うのは、ただひとつ、主イエス様を証しすることだ。だからこそ、私たちはこの聖餐を行うたびに、主の死を覚え、主の死を証しするのだ。

さて、はじめに、私たちは聖餐式が持つある大きな意味を忘れてしまう危険に直面していると言ったのはどういうことか、お分かりいただけたと思います。主が十字架の上で私たちのためにしてくださったことを、私たちは非常に喜んでいますが、その事実によって、私たち自身も責任を負わされることを忘れてはいけません。この御業によって、私たちは、主の絶対的な支配を認めるという責任を負わされているのです。キリストはこの世の人ではないのだから、私たちもこの世に属する者ではないことを認めるようにと、この十字架の御業は要求しています。主が私たちに霊的な理解を与えてくださいますように。そして、次に聖餐式に参加するとき、今、述べたことを覚えることができますように。

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