2022年3月5日土曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第15回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十五回会合―『神は私たちに型を示された:キリストという型を完全なかたちで示された』
Meeting 15 - God Has Shown Us the Pattern: He Has Shown Us That Pattern Who Is Christ In Perfection

第十五回会合
(1964年2月10日午前)

今日は、これまで続けてきた朝の特別集会の最終回ですので、最初に、これまでにお話してきた基本を振り返って、思い出していただければ、非常に分かりやすくなると思います。私たちは、キリスト教が、その初期の姿から、あまりに肥大してしまった、すなわち、その初めの土台にはなかったものが、そこに付け加えられてきたことから話し始めました。そのため、今日の私たちは、始まりの時とはまったく異なるキリスト教の中にいることになります。今日のキリスト教は非常に複雑なものです。あらゆるところで分派があり、組織があり、当初の単純で基本的な現実に較べて、非常に多くのものに分かれています。そして、私たちが主イエス様の中にあった最初の神聖な働きへと戻れるよう、主に願っていることも話しました。それから、神の言葉が示すように、終わりにはすべてのものが大きく揺り動かされると信じていることも話しました。そして、大きく揺り動かされる中で、真に天から出たもの、真に天から来ているものだけが残されることになります。この土台の上に築かれたものの非常に多くが、消え去ってゆきます。私たちは、このことが神の御言葉に記されていると信じています。

そして、その時が来れば――それはもう始まっていると私たちは感じていますが――、すべては基本に照らして試されることになります。全てが揺り動かされる中で問われる究極の問いとは、そこに主がどれだけ臨在しているかということです。そのために、「主の臨在」というこの根本的な問題について考え続けてきました。これこそ、主が古いイスラエルの上に始められたことです。私たちは出エジプト記25章8節を引用しました、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」ここにあるのは、「主であるわたしが人間たちのあいだに住めるように」という、あらゆる時代を超えた神の永遠の願いです。私たちは、あの幕屋や聖所が古いイスラエルにとっては、神の臨在の場所であることを学びました。

そして、新約聖書に移ってくると、そこには、主イエス様によって作られる新しいイスラエルがありました。古いイスラエルが神によって取り除かれた時、そこで『ことばが人となって、私たちの間に住まわれた(幕屋を張られた)』と書かれています。すなわち、この時代において、幕屋とは主イエス様ご自身なのです。物ではなく、一人のお方です。主イエス様がおられるところなら、どこでも神の臨在があります。この事実がすべてを支配しています。全ては、主イエス様がそこに臨在するかどうかという問題なのです。主イエス様がおられるところに、神の幕屋があります。旧約聖書の時代には、民が幕屋の周りに集まっていたように、幕屋は人々の生活を支配するものであり、幕屋によって彼らはひとつとされたのです。すべての人が幕屋を中心として結ばれ、そこからすべてのいのちと光を受けていました。同じように、今のこの時代には、主は民をご自分のもとへと集め、主がすべての中心となるのです。主の中ではじめて、人はひとつの民として結ばれるのであり、人は主からすべてのいのちと光を受けます。この全てが、主の臨在という問題につながってくるのです。

それに続いて、私たちは、古い時代の幕屋に示された主の臨在の意味について学んできました。最初に学んだのは、幕屋が、神によって天から示されたことです。主は言われました、『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』山とは、天の模型であって、主がしもべたちに会うために降りてこられる場所であり、そこで、主はすべてのものの型を示されました。その型が山から降ろされ、民に示されたのです。それは、神の心の中にある型が、彼らに対して示されたということです。

この幕屋が、あらゆる細部に至るまで、主イエス様を表現していたことを私たちは学びました。ですから、この新しい時代にあっては、すべては主イエス様を表すことから始まります。これが、四つの福音書が、ほとんどの書簡よりも後に書かれていながら、新約聖書の最初に置かれている理由です。この四つの福音書には、主イエス様が紹介されています。そして、神の臨在を表す型として、主はそこにおられます。私たちは、この四つの福音書の非常に大きな価値を認めなければなりません。福音書は、私たちが見るために、天から与えられた神の型です。神は私たちに型を示されたのであり、そして、その型は完璧なかたちで示されました。地上での生涯を終えたとき、イエス様は、「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げました」と言うことができました。神が主に行なわせるためにお与えになったわざとは何だったのでしょう?それは究極的には、神の心を明らかにして、「わたしを見た者は、父を見た」と、主が言えるようになることでした。言い換えれば、主はこう言うことができたのです、「わたしは神の心を表す者である。そして、わたしが天から下ってきたのは、あなたがたが、わたしのうちに表された神の御心を細かいところまですべて見ることができるためです。」

もちろん、今朝は一般論としてしか言えません。福音書の中から、主イエス様が神の心を表わされたところを、千箇所でも示すことはできます。主イエス様が言われたことの全て、そして、されたことの全ての中に、神から来た何ごとかがありました。そして、主はご自身が、神の思いの完全なる体現者でした。こうして神は、型を私たちに与えてくださいました。御子を与えることによって、神は、御自分が臨在するために必要な型の全てをお与えになったのです。

親愛なる友人の皆さん、この点を強く訴えたいと思います。ここに着いたとき、私は聖書の教えなどを語るために来たのではないと申し上げました。私がこの国を離れるとき、心にはこんな問いが浮かんでいるでしょう、「この旅が現実に残した成果は何だったんだろう?」それが、ここで一緒に過ごした時間の価値を決める大きな要素になるので、私は皆さんと話すたびに、真剣に主を求めています。そして、私が主にお願いしているのは、話す材料をたくさん与えてくださることだけではなく、あなたがた自身が向かい合うべき何ごとかを主が残してくださることです。ですから、私が皆さんに申し上げたいのは、根本にあるのは常に、主の臨在であるということです。キリスト教を作り上げている千もの要素のどのひとつでもありません。最終的な基準とはこれに尽きます、すなわち、「そこに主がおられるか?」、そして、「そこにあるすべてのものの中に主がおられるか?」、「彼らが行うことの中に主がおられるか?」、そして、「彼らがそれを行う道には主がおられるか?」なぜなら、主にあっては、ものごとがどう行われるかということが、それが行われること自体と同じくらい大切だからです。その場にいるひとりひとりの中に主がおられるのか?そして、彼らの人生は、この至高のもの、すなわち、彼らの中におられる主に彩られているのか?

あなたが主を愛していることに疑いはありません。そのことに疑問を投げかけているわけではありません。しかし、繰り返しますが、私たちは非常に複雑化してしまった大きな制度の中に入れられており、この制度の大部分は主から来たものではありません。人間が持ち込んだものです。人は主のものに手をかけ、自分の考えに合わせて作り替えてきたため、主ではなく人から来たものが、非常に多く入り込んでしまいました。このように言うとき、私たちが考えているのは、キリスト教全般のことだけではなく、私たち自身のことでもあります。これは私たち自身についても言えることなのです。私たちは皆、キリスト教と呼ばれるものの中に入り込んでおり、誰もがキリスト教から来た何かを身に帯びてしまっていて、そして、単純で根本的な事実に立ち返るためには、非常に多くのものを捨て去らなければならないのかもしれません。そして、すべての事実の中でもっとも根本的な事実こそ、「主の臨在」です。私たちが知らなければならないのは、主が私たちとともにおられること、私たちが行うすべてのことにおいて主がともにおられること、そして、それが私たちの心の中で生まれたのではないことです。それは私たちの意志の中から生じたものではなく、私たちの感情の中から生まれたものでもありません。それは、私たちのたましいから出てきたのではなく、幕屋と同じように、全ての細部にわたって、主から来たものなのです。イエス・キリストと同じように、全ての細部に至るまで、神から来たものでなければならないのです。

このことから、私たちは、全ての働きをやりとげるために、主の前にひざまずくことになります。私たちは、時には立ち止まって、自分のしていることについて主に尋ねる必要があります。「これは神から出ているのか、それとも、私たち自身から出ているのか?これは、神の御心を行うやり方なのか、私たちの考えでやっていないだろうか?この中には、主がおられるのか、それとも、私たちの方が入り込んでしまったのか?」そう、これが大きな決め手となるのです。ここを間違えてはいけません!人間から来るものは、すべて滅びることになります。遅かれ早かれ、それは揺り動かされます。人間の働きはすべてが、燃える火の中で試されると、神の御言葉は言っています。

ですから、もっとも大切なこととは、主イエス様を表すこと、そして、主イエス様を見ることです。このことに関して、個人的な体験談を紹介させてください。私は自分のことを話したいわけではなく、分かりやすく実例で説明したいのです。私は、何年にもわたって、どの宗派でも牧師と呼ばれる仕事をしていました。私は、教会と呼ばれる場所で働く牧師でした。同時に二つの宗派の牧師をやっていました。立派な教会である建物も持っていました。そして、私は聖職者の襟と服装を身につけた、組織化されたキリスト教団体の一員でした。大きな説教壇も持っていました。そして、私は説教を語り、その対価として報酬を受け取りました。そう、私はとても熱心に勤めました。私は、自分が主のものであると本気で信じていました。私の心は主のもとへと向かっていました。

しかし、神が私にイエス・キリストを示される時が来ました。神は私の中に、御子を現し始めました。もちろん、私は聖書を知っていました。私は、いろいろなところで聖書を教えていました。ロンドンの北方にある大きな教会で務めたとき、そこには聖書を教える会合がありませんでした。とても小さな祈り会があるだけでした。私は、聖書学校と呼ばれるものを開こうと決意しました。そこで、私は大きな黒板をあつらえたのですが、それは、この演題の全体と同じくらいの大きさの黒板でした。私は、聖書の授業をしようと決めました。そこで、私は聖書全体の学び会を始めました。創世記からヨハネの黙示録までを学んだのです。すると、会場は、聖書の講義を受ける人々で溢れかえりました。このことをお話ししたのは、皆さんに、私が聖書の知識は持っていたことを、分かっていただきたいからです。

その後、主イエス様を本当に見る日が来て、他のすべては、まるで無意味なことになりました。教会で私がやってきた仕事は、小さな子供が遊ぶ教会ごっこのようなものでした。聖職者の正装をいつも着ていたことも、ああ、なんとも愚かだったでしょう!私は本当の意味で聖書を見ていませんでした。聖書は全て頭の中に入っていましたが、実際には聖書は閉じられていました。主が御子を私に示された時、このようなものは全て消えてなくなりました。私にとって何の意味もないものとなり、そして、主イエス様こそが教会であって、これらのものではないことが分かりました。私には、主イエス様が聖書の中の全てであることが分かりました。聖書とは一冊の本ではなく、聖書はキリストです。私が、創世記の中に聖書を見たということは、すなわち、創世記の中にキリストを見たのです。聖書全体を通して、私はキリストを見ました。そのため、他の全てが愚かなことになりました。私は完全にひっくり返され、全てが逆転しました。他のものはすべて、置いていかざるを得ませんでした。私は、主イエス様を見たのです。この本物の目で見たということではありません。しかし、パウロがこのことばで言おうとしたこと、『御子を私のうちに啓示することをよしとされた。』これが、私に対して起こったのでした。

そして、そのときから新しいことが始まりました。新しい務めが始まり、新しい神の働きが始まったのです。そのおかげで、私は今、こうして地球の裏側にいるわけです。私は聖書の教師としてここに来たのではなく、主イエス様について、私が見たことを話し、イエス様を見ることが全ての土台であるとお伝えするために来ました。もちろん、これは何年か前に起こっただけのことではありません。それは、四十年前に起こり始めたばかりで、今日も続いていることです。もし、私が主に忠実であれば、それは人生の終わりまで続いていくでしょう。それが、主を見ながら成長し続けるということです。お分かりのように、それが旧約聖書が始まるところであり、新約聖書が始まるところでもあります。私たちは、自分のものをすべて捨てて、主のもとに立ち返らなければなりません。

さて、イスラエルに対しては幕屋として、使徒たちに対しては主イエス様として型が示された後、次に行われたのは、人々にその型について指導することでした。そこで、民に型の意味が告げられたのです。すべての民が集められ、この型について告げられたことは間違いありません。彼らは皆、その務めに加わりました。彼らはすべてのものを一から作らなければなりませんでした。金、銀、その他、あらゆるものを提供させられました。ですから、聖書には書かれていませんが、モーセがすべての民をひとつところに呼び集めたことは間違いありません。そして、モーセは、『今、主は私たちに偉大な型を示された』と言ったのです。そして、それから、細かいところまですべて説明し始めたことでしょう。モーセは、「さあ、金で作るべきものがあり、他に銀で作るべきものがあり、さらに、いろいろな布、さまざまな色のさまざまな布地が必要になる」と言ったでしょう。こうしてモーセは、型のあらゆる部分を実現してゆくことになります。モーセは言います、「さて、これが主が命令されたことであって、あなたがたはそのために働かなくてはならない。」モーセは、彼らに型について、いろいろと指図しました。

さて、主イエス様は、神の幕屋として天から来られました。「この方は、私たちの間に幕屋を張られた」と、ヨハネは言いました。主は、神の心の完全な啓示です。そして、主イエス様は、弟子たちに、ご自分のことを、言葉によって、また、行いによって教え始めました。弟子たちに、ご自身について、指導したのです。弟子たちは、主を見つめ、主の言葉に耳を傾けることで、自分たちに対する神の御心を本当に知るようになったのです。こうして、私たちに新約聖書が与えられたわけですが、新約聖書とは、キリストに関するすべての事柄を、ただ一つの目的のために具体化したものです。主イエス様について、たくさんの細かいことが記されていますが、そのすべては、ただ一つのことにつながっています。幕屋の作り方を、細かいところまですべて数え上げるには、長い時間がかかるでしょう。キリストに関するすべてのことをまとめ上げるには、永遠に近い時間がかかるでしょう。新約聖書には、主イエスに関する非常に多くの事柄が書かれています。しかし、その多くの事がらの中に書かれているのは、ただ一つの事実です。その事実とは、主の臨在です。それは、全てを大きく包み込むものでありながら、細部にわたるものでもあります。主の臨在は、その小さな細部に関わるものです。新約聖書から、それを読み解くことができます。新約聖書では、主の心に従っていないことが行われると、すべてがおかしくなりました。神は、すべてがキリストに従っているときだけ、彼らと共に歩みました。

二番目に大切なのは、私たちがキリストについて教えを受けることです。新約聖書の中にも、とても短い部分ですが、私にとって非常に重要で大きな意味を持つ箇所があります。あの使徒が、誤りを指摘しているのです。彼はこの一文を使っています、「あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした!」それは、あなたがたがキリストを学ぶべき道ではない。それはキリストを学ぶことではない。これがどれほど重要なことか、分かりますか?全ては、あなたがキリストを学んだことから、来るものでなければならないと、この使徒は言っているようです。そのことは、人間から、あなたがた自身から来たものにすぎない。すべてのことにおいて、私たちはキリストを学ばなければならないのだ・・・・と。

さて、三番目の点です。前にベツァルエルとオホリアブという二人の男について話しました。この二人は神の霊に満たされて、様々なものを建て上げるために働いたと書かれています。だから、その仕事を始め、続いていったとき、それは人の知恵だけで行われたのではなかったのです。主は、「さあ、これが型だから、すぐに取り掛かりなさい。この型を取り上げて、その通りに作り上げなさい」などとは言いませんでした。主はそのようなことはされません。主はこの二人の男を選び出し、彼らを御霊で満たしました。それによって、彼らは物事をどのように進めればよいかを示す、主の道具となったのです。ここで私が語りたいのは、この男たちのことではありません。主は、このように働きのために、人間を思うように動かすことがあります。しかし、私が言いたいのは、働きは聖霊によってなされなければならないということです。神の道具として、働きの中に入るのは、聖霊に満たされた人たちでなければなりません。前にも述べたように、新約聖書では、働きはこのように始まります、「あなたがたの中から、御霊に満ちた人たち七人を選びなさい。」これは、働きをどのようにやり遂げるかということに関わっています。すなわち、全ては、聖霊の油注ぎのもとで行われなければならないのです。

愛する友人の皆さん、今日、主の務めをしているたくさんの人たちの中に、その務めのために油を注がれていない人が数多くいます。彼らは人間によって、その場所に置かれただけなのです。人間たちは、いずれは自分がその仕事にふさわしい良い人物となるだろうと考えてきたのです。もちろん、彼らは主を愛し、主に身も心も捧げており、そして、主のために働きたいと願っています。だからこそ、指導者たちは彼らを取り上げ、持ち場に就かせるのです。その務めを見ていると、彼らはその持ち場を守るための油注ぎを、神から受けていないことがわかります。神のための働きにおける指導者の立場とは、油注がれた指導者の立場です。霊的な人々から見て、その男、その女は、その地位のために油注がれていると分かるようでなければなりません。彼らがそこにいるのは、彼ら自身が自分をそこに置いたからではないし、他の責任を持った誰かが、彼らがその責務を行うの適していると考えたからでもありません。そうではなく、主が明らかに、その務めのために、彼らに油を注いだのであり、そのゆえにこそ、主は彼らとともにおられるのです。彼らには人間としての欠点がたくさんあるし、彼らのことであなたから見て本能的に嫌だと思うこともあるかもしれません。彼らが生来、欠陥だらけの人たちであることは分かっていても、主はあの男、あの女とともにおられることを、あなたは認めなければなりません。彼らが正しい位置にいるのは、主が彼らをそこに置いたからです。

キリストに関するすべての事柄の中で油注ぎが大きな要素となるのは、この理由からであって、それは、人間からの油注ぎではありません。人の数だけ、それぞれに油注ぎがあるのではありません。油注ぎは、ただひとつであり、それはかしらとしてのキリストが定めることです。私たちが油注ぎを受けるのは、キリストのうちにいるとき、そして、指導者としてのキリストの支配下にいるときだけです。もし私たちが自分で自分の立場を選んだり、人が私たちをその立場に置いたのなら、私たちは油注ぎのもとにはいません。油注ぎとは、キリストの油注ぎでなければならず、私たちは完全に主の支配の下にあるときに、油注ぎを受けるのです。もちろん、これは今、ここで考えるにはあまりにも大きな問題ですね。しかし、ここで私が言いたいのは、キリストに従って何ごとかが行われる過程では、それを支配する原理は、聖霊の油注ぎであるということです。

次に私たちが見たのは、すべての霊的な進歩は、主の臨在に支配されるということです。荒野の状況を想像してみてください。私には想像できるのですが、この民が、幕屋を撤去して片付け、ラッパを吹いて行進するときには、さぞかし熱気に包まれていたことでしょう――「これから約束の地に向かう、もうすぐ約束の地に着くのだ」と。

彼らはこの務めを前向きにすすめたいという気持ちでいっぱいでした。しかし、しばらくすると、頭の上にあった雲が止まり、主は彼らに荷物をほどいて、そこに幕屋を立てるように命じました。『私たちはしばらくここに滞在することになった。』おそらく、民は言ったでしょう、『ああ、なぜ私たちは、ここでとどまって待ちながら、時間を浪費しなければならないのか、先に行きたいのに、なぜここで立ち止まって待つのだろう?いつまで、ここにいればいいのだろう?』雲が何日も同じ場所にとどまっていたら、彼らは言ったかもしれません、『ああ、なぜ私たちは時間をむだに費やしているのか?なぜ、命じられた働きに取り掛かれないのだろう?』なぜ、そうなったのでしょう?主は、彼らの心が旅そのもので占められるのではなく、主ご自身のことに向けられることを望まれたのです。主は、彼らが主のことだけで心が占められた状態で進むことを望んでいたので、彼らの心に主のことしかないような状態になるまで時間を置いたうえで、「さあ、先へ行こう」と言われたのです。はっきり、そうは言いませんでしたが、主は、また後で止まることもあることを知らされました。今も主は、さまざまなかたちで、同じことをされます。人間は、まず必要なものを手に入れたうえで、それを用いてことを進めたいと考えるものです。私たちは、神のことでも、まずは自分が活力で満たされてから、「さあ、全てを成し遂げよう」と言いがちです。そして、そのように行動してしまいます。時に主は、「少し立ち止まれ」と言われます。主は、何か問題を起こされ、何らかの逆境や苦しみによって私たちを追いつめることがあります。何かが起こるとき、私たちは、主がこう言われたとことに気づきます、「止まれ、あなたは忙しすぎてわたしの話を聞いていない、わたしの働きを行うことで頭がいっぱいになっているので、わたし自身に心の全てを向けていない。」私たちは主のことだけで心が占められる時間を持たなければなりません。私が言いたいのは、すべての霊的な進歩は、主の臨在によって起こるということです。

モーセが民を呼ぶと、神に仕えたいと願う人たちは、それぞれが働きのために使えるものを手にして、集まってきました。このようなかたちで、主は民に責任を負わせられたのです。幕屋は出来上がった状態で天から降ってきたのではなく、型だけが天から示されたのでしたね。そして、主は、その上で、『よく注意しなさい。型に従って、すべてのものを作りなさい』と言われました。主は、この問題の責任を民の肩に負わせました。民は型を理解して、その型の通りに実現する責任を持っています。彼らが、その通りに行った時、主の栄光が主の家に満ち溢れました。

しかし、彼らも、示された型から外れることもあったので、そのような出来事のひとつを見てみましょう。アロンには二人の息子がいました。アロンの二人の年長の息子たちでした。彼らの名はナダブとアビフです。ナダブとアビフは、アロンの後について祭司の務めを行っていました。ですから、ナダブとアビフは、その型について、すべて知っていたに違いありません。彼らが、神が言われたことを、細かいところまですべて知っていたことは確かですが、神から示されたことの中にある大切な点がありました。祭司が火皿を持って主の前に入るとき、彼らは祭壇から火を取ることになっています。では、祭壇に置かれたこの火はどこから来たのでしょうか?皆さんは、この話を読んだことがあると思います。ここに、祭壇があり、祭壇に置かれた木があり、すべてが備えられています。そこに、祭司が近づき、マッチを擦って、薪に火をつけたのでしょうか?あるいは、どのようなかたちにせよ、自分で火を起こしたのでしょうか?どこかで火をおこして、祭壇に持っていったのでしょうか?いいえ、祭壇の火は天から来たのです。祭壇が築かれ、その上に薪が置かれ、いけにえの動物が殺されて薪の上に置かれると、主の火が下りてきて、その火が消えることはなかったのです。火をつけ直す必要などなかったのです。幕屋がその場所に置かれているあいだ、火は昼も夜も燃え続けました。誰も火を起こす必要などありませんでした。それなのに、ナダブとアビフは、祭壇から火を取らず、自分たちで火を起こしに行ったのです。彼らが、別の場所で、別の方法で火を取り、その火を自分の火皿に入れて、主の前にささげると、主が彼らを打たれたので,彼らは主の前で死にました。彼らは異なった火を捧げたのです。それは、主の十字架から来た火ではありませんでした。それは、彼ら自身の火であり,肉の火、生まれたままの人間の火、彼らのたましいの火であって、御霊の火ではなかったのです。主は、それを異なった火であると言われます。それは、型に合ったものではなかったので、主は彼らを裁きました。これをどう解釈するかは、あなたがたに委ねなければなりません。

「キリストに対する責任」が、どれほど大きなものか、お分かりいただけたでしょうか?主は、私たちに責任を負わせたのです。主は言われます、「もし、あなたがたがすべてを型どおりに作るなら、わたしはあなたがたとともにいる。あなたがたは祝福を受け、わたしはあなたがたとともに歩む。もしあなたがたが、その型どおりに行わず、人間が定めたものを持ち込み始めたら、それは霊的な死をもたらす。」主が私たちに霊的な理解を与えてくださいますように。


(訳注)原文は下のサイトで読めます

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