2022年3月10日木曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第16回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十六回会合―『無償で得た物を主にささげることはできない』
Meeting 16 - "I Will Not Offer Unto the Lord That Which Cost Me Nothing"

第十六回会合
(1964年2月11日午後)

引用箇所:第一歴代誌21章1節、7~30節。
このオルナンの麦打ち場が、後に大神殿の敷地となったことは、皆さんもご存じだと思います。ここは、ソロモンによって大神殿が建てられた場所です。そして、祭壇がこの麦打ち場に置かれたことは、神の家がギベオンからエルサレムへ移ったことを告げるものです。神の家が麦打ち場の跡に建てられたというのは、非常に印象的なことです。麦打ち場が何をするところか、皆さんもご存じでしょう。竿を力いっぱい降り下ろして、小麦の穂にたたきつける場所、麦の粒が殻から離されるところです。そして、この麦打ち場で、霊的な意味で同じことが起こったのです。そこは、罪が裁かれる場所でした。神の家について、何よりも大切なこととして、その家は罪が裁かれる土地に建てられたのです。ダビデは、その前に言っています、「私は、大きな罪を犯しました。私はほんとうに愚かなことをしました。」ダビデの罪は、神によって恐ろしい裁きを受けました。そして、神の家の土台は、罪が裁かれた場所に置かれました。これは新約聖書でも同じことが言えます。

主の教会が生まれる前には、主の十字架がありました。どこであれ神の家が存在するためには、まず、罪が裁かれる麦打ち場が必要です。それは、すべての高慢が砕かれる場所です。ダビデの罪とは、高慢の罪でした。サタンがダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせたとき、その狙いは、ダビデにイスラエルの偉大さを誇らせることでした。非常に肉的な人であったヨアブでさえ、ダビデが間違っていると警告しました。ヨアブはダビデに、イスラエルは非常に偉大な民だから、わざわざ数える必要はないと進言しました。ダビデがそのようなことをしたのは、高慢のなせるわざでした。それは、ただこう言いたかったからでした、どれだけ多くの民がこの国にいることか。私たちは何と偉大なる民ではないか。どれだけ多くの人が心を変えたのか見てみなさい。神の御言葉は言っています、『この命令で、王は神のみこころをそこなった。』麦打ち場は、全ての高慢が塵へと砕かれる場所であり、罪の告白の場、罪が裁かれる場、そして、罪が赦される場でした。裁きとあわれみが出会う場所でした。そういう場所が、主の家の土台となったのです。祭壇が人々の前に築かれるために、まず、ダビデ自身があの体験を通る必要があったのです。その祭壇は、ダビデの心に剣のように突き刺さりました。十字架がダビデの中に深く働きかけてはじめて、ダビデは祭壇を公に設置することができました。

これは、神の家の変わることのない原則です。しかし、この第二サムエル記、二十四章から、二十四節のこの短い言葉を見てみたいと思います。『私は、無償で得た物を主にささげることはできない(新共同訳)。』神の家で何かの役割を果たすということには、大きな代償を伴います。そこには、安くて簡単なことなどありません。そう、神の家に入るということは、非常に高価なことなのです。何よりもまず、神がそのひとり子をお与えになったことが、非常に大きな代償でした。その御子は、ご自身の中にあった天国の豊かさと栄光を捨て去るという大きな代償を払われたのです。人間の罪は、非常に高価なものです。神の家に入ることが、どれだけ高価であるかを知らなければ、私たちは神の家にいるよろこびを受けとることはできません。神の家とは、交わりの場です。神の家とは、神の民の交わりそのものです。しかし、交わりとは高価なものです。あなたは生きていくうえで、この教訓を学んでいくことでしょう。神の民の交わりは、安くて簡単なものではありません。その交わりに関することにはすべて、何かしらの代償を伴います。

神の家にいる二人のあいだで、交わりが乱されたとき、片方が進み出て、自分が間違っていると告白するのは容易なことではなく、また、そこで犯した誤りを謝罪することも簡単ではありません。お互いの前でへりくだることは容易ではなく、私たちは他の兄弟姉妹の前にへりくだるくらいなら、代わりに、他の何かをして済まそうとします。交わりとは代償を伴うものです。交わりには、屈辱と告白という代価が生じます。二人のあいだで当てはまることは、大勢のあいだにも、そのまま当てはまることが多いものです。私たちが神の家での交わりを保とうとするなら、必ず何らかの代償がともないます。そのために支払わなければならない代価があるのです。そして、私たちが交わりに対する代価を支払う気持ちがないとしたら、それは貧しい交わりしかないからです。大した価値がないものには、あまりお金を払おうとは思いませんよね。私たちが神の家、すなわち、主の民の交わりを本当に愛しているなら、その交わりを保つためには、どんな代価も支払おうという気持ちになるはずです。私たちにとって価値のあるものとは、それに対してよろこんで代価を支払えるものです。それは、主に対する奉仕にあっても同じです。

今晩、私たちは祈りのために、ここに集まりました。さて、私たちの祈りの集いには、ときどき、大した費用をかけないで祈れる人たちがいます。人によっては、祈ることはとても簡単です。水道の蛇口をひねるようなもので、何の努力もせずに祈りが溢れてきます。しかし、人によっては、祈ることには、たいへんな費用がかかります。祈ることが全く容易ではない人たちもいます。その人たちにとって、祈りとは心から搾り出されるものなのです。祈りに本当の価値があるのは、そのために大きな何かを犠牲にしているときです。

これは、主に対する務めでも同じです。さて、今夜ここにいる皆さんは、聖書を語る聖職者ではありません。しかし、壇上から話をするのが大好きな人たちがいます。そのような人たちにとって、人前で話している時ほど幸せな時間はありません。そして、彼らにとって、人前で話すのは、実にたやすいことです。さて、本当に価値のあるものには、何か費用がかかるものです。主の十字架、主の祭壇が私たちの祈りの中心に置かれていなければなりません。このふたつが務めの中心になければなりません。そうなったとき、主が私たちを通して行うのでなければ、務めをすることができなくなります。主が語るのでなければ、壇上で話すよりも、遠くへ逃げ出したほうがましだと思うようになります。さて、要点はおわかりいただけたと思います。「私は、無償で得た物を主にささげることはできません。」

神の家は、私たちにとって、どれほど大きな意味を持っているでしょうか。祈りには、実際にどれだけの意味があるでしょうか。主の民の交わりは、どれだけ大きなものでしょうか。大きな価値を持つものとなっているでしょうか?そうであれば、私たちはそのために大きな対価を払う用意があるはずです。もし、上で挙げたようなものに対して、また、主が私たちのためにしてくださったことに対して、価値をみとめられなければ、ためらうことなく投げ捨ててしまうでしょう。さて、このダビデの物語には、多くの教訓があります。もう一度、読み直し、そして、読みながらじっくり考えてみてください。しかし、この一点を決して、忘れないでください。私たちは、価値のあるものには、代価を払う用意があります。そして、もっとも大きな価値のあるものには、もっとも大きな代価を払います!


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