2022年3月24日木曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第17回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十七回会合―『ふたつの種のたとえ』
Meeting 17 - The Parable of the Two Seeds

第十七回会合
(1964年2月13日午後)

引用箇所:マタイ13章24~30節。
私は、自分が主によって、このふたつの御国のたとえ話へと再び導かれたことは間違いないと感じています。ですから、私は主に語るように命じられたことだけをお伝えします。マタイ13章のこの七つのたとえ話は預言です。主イエス様は、ご自身の初臨から再臨までのあいだのこの時代に起こることを予告されたのです。これらのたとえ話が最後には必ず、「今の世の終わり」のはなしで終わっていることにお気づきでしょう。主は、ご自身の再臨まで続くこの時代に、ある事態と状況が起こることをご存じでした。これから起ころうとしているその状況は、主のしもべたちを大いに当惑させ、苦しめることでしょう。そのため、これらのたとえ話を用いて、主は二つのことをされました。

第一に、主は、それが起こることを明確に示されました。主は、御言葉の中で、この時代に引き起こされることを明確に伝えています。この七つのたとえ話には、この時代に実際に起こったことが、完璧に描写されています。

次に、主が二番目に行われたことです。主は、しもべたちには理解し難くても、このすべては、神の絶対的な支配の内で起こされていることを示されました。『天の御国は、これこれのようなものです』と言われたとき、主は、これから多くのこと起こって、人の気持ちをくじき、当惑させるが、その全ては天の主権による支配の中で起こされることを伝えていました。天の御国、あるいは、神の御国というこの名前は、神、あるいは、天の主権のもとでの支配を意味しています。そこで起こることは、その主権による支配によって許されています。私たちには、そのことを理解することができません。そのために、私たちはひどく苦しめられます。そのために、大いに落胆させられるのですが、そのすべては、天の主権による支配の下にあるのです。すべてのたとえ話は、そのようなことばで終わっていることにお気づきでしょう。大切なのは最後なのです。たとえ話がどのように終わるかというところに、私たちは注意しなりません。いつも何かしら、非常に困難なことが起こりますが、最後には必ず神が勝利されます。終わりは神の手中にあります。聖書のたとえ話はすべて、そのように解釈すべきです。あなたがたも、本を読むことがあるでしょう。最初はとても良いのに、何か問題が起こります。何もかも、うまくいかないように見えます。そして、中には、問題が起こると、本の最後をめくって、結末がどうなるかを確認する人もいます。そして、もちろん、最後は必ずよいかたちで終わります。聖書のたとえ話も、そんな感じですね。話しは非常にうまく始まりますが、すぐに困難が起こります。しかし、物語の最後を見ると、うまくいっているのです。

先日、種をまく人のたとえを考えてみました。種をまく人が、種をまくために出かけて行きました。彼が種をまくと、いくつかの種が道ばたに落ちました。そう、まき始めたときには、問題はなかったんです。しかし、その後で事態は悪くなりました。ある種は道ばたに落ち、ある種は岩地に落ち、ある種はいばらの中に落ちました。この三つの場合、種はむだになったようです。これは、とても残念なことです。種を持って出かける働き手にとって、多くの種がむだになったというのは、がっかりさせられることです。ほとんどの人は、結ぶにしても、ほんのわずかの実しか結んでいないのです。しかし、このたとえ話の最後で、他の種は良い地に落ちて、百倍、六十倍、三十倍の実を結びました。大切なのは最後です。終わりまで来れば、全く無意味ではなかったことが分かります。結局、すべてがむだにはならなかったのです。人々がどのように考えようとも、支配しているのは天です。全ては天の主権による支配の内側にあるのです。

さて、この二つ目のたとえ話、二つの種のたとえに入ります。弟子たちはこれを毒麦のたとえと呼びました。原文で使われている言葉は、毒草(tare)ではなく、毒麦(darnel)となっています。このことは、すぐにお話しします。弟子たちは、毒麦のたとえと呼びました。私は、二つの種のたとえと呼んでいます。

さて、このたとえ話をいくつかの場面に分けて、そこで伝えられている意味を考えてみましょう。このたとえ話は、八つの部分に分けられますが、急ぎ足で見ながら、最後で語られているメッセージまで行ってみます。まず第一に、畑ですが、ここで私たちの捉え方をはっきりさせておかなければなりません。このたとえ話が完全に誤解されたのは、ここでいう畑とは教会のことであって、二種類の種は教会にあると考えられてきたからです。それはこのたとえ話の教えではありません。この畑は、種まく人がまきに行ったのと同じ畑です。主イエス様は、『畑はこの世界のことです』と言われました。つまり、私たちは、ここで教会ではなく、世のことを考えているのです。このことに気づかなければならない理由があります。この畑、すなわち、この世は、人の子の正当な所有物です。種をまく者とは、人の子であると言われており、畑は当然、人の子のものです。それは、主の所有物なのです。この世は、まことに主イエス様のものであり、そして、この世は主の民だけが住まうようにと造られたものです。主がまかれる種とは、御国の子供たちです。そして、主のものであるこの世は、御国の子供たちが住まう場所として造られています。私たちが、そこに気づくことは非常に大切です。『地とそれに満ちているものは主のものである。』私たちが主の働きをするために出てゆき、どこかの場所に入っていくとき、当然のこととして、そこは主イエス様のものであると告げる権利があり、その土地に足を下ろして、主イエス様が支配する権利を主張できるのです。ここでいう畑は、世のことであり、それは当然の権利として、主イエス様のものです。良い種とは、主が世にまかれる御国の子供たちのことだと書かれています。主イエス様がこの時代を通して行っておられることは、世に御国の子供たちという種をまくことです。私たちが、御国の子供たちとしてこの世にいるのは、この世に対する主の権利を主張するためです。

さて、次に来るのは敵です。敵は自分の悪い種をまきに来ます。イエス様は、『敵とは悪魔のこと』と言われます。この悪魔、この敵は、自分のものでない場所に入り込んでくることに気を付けてください。サタンはこの世界では侵入者です。サタンは侵略者なのです。この世は、本来、サタンのものではありません。サタンは、敵として入ってきました。これは敵による侵略です。サタンが来たのは、自分の種をまくため、それも、人の子がまく種のすぐ横に並べて自分の種をまくためです。この敵は、人の子を憎んでいます。イエス様は、この者を敵と呼び、「悪魔」という名を与えましたが、これは、「敵対者」、すなわち、人の子を憎む者という意味であり、この敵は、力の限りを尽くして、人の子の働きを無駄にしてやろうと決意している者なのです。そして、そのためにこの敵は、この世という畑に入って来て、良い種と並べて自分の種をまいて行きます。

ここで、非常に大切なことがあります。主イエス様は、この世の救われていない人々は、すべて悪魔の子であると言っているわけではありません。ここに、一片の真実があります。使徒ヨハネは、『全世界は悪い者の支配下にある(第一ヨハネ5:19)』と言っています。これを見ると、救われていない人は、全てが悪魔の力のもとにいるかのように感じられます。しかし、ここで主イエス様はそうは言われていません。主はここで、この世で救われていないすべての人、伝道を受けていないすべての人が、悪魔の子であると教えているのではありません。もし、それが主が語っていることであれば、このたとえ話には、あまり意味はないでしょう。この世には、神の子供たちだけでなく、他の子供たちもいるということは、誰でも知っています。御国の子どもたちがいて、御国の子どもでない人たちもいるのです。そんなことは、私たちは皆、知っています。違う種類の子供たちが毎日、私たちのそばにいることも、誰もが知っています。そんなことを教えてもらうために、たとえ話は必要ありません。主イエス様にわざわざ、教えてもらうまでもなく、私たちはよく知っています。

でも、ここが大切な点なんです。主が語られているこの悪魔の子供たちは、中でも特別な種類なのです。イエス様は、彼らを毒麦と呼んでいます。さて、東方でいう毒麦とは、普通の麦とほとんど同じようなものです。本当の麦と外見上、非常によく似ているので、成長し切ってからでないと、両者を見分けることができません。ここでいう毒麦は、にせものの麦です。まがい物とも言えるものです。本物の麦に対して、偽りの麦です。御国の子どもたちのようなふりをしていますが、本当はそうでないものです。

敵がやってきて、本物と見分けがつかないほどよく似た何かをまいていきますが、それは偽物です。それは、悪魔の嘘から生まれるものです。この類いの人々は、御国の子どもたちと同じような言葉を話します。彼らも聖書を用います。同じ言葉づかいで話します。彼らも、イエス様について語ります。聖書について話すことができます。イエス様の死を語ることができます。しかし、彼らが伝えようとしているのは、違う何かです。

彼らが語るイエスは、人になった神ではありません。彼らはイエス様について話しますが、キリストが神であることを信じていません。聖書について話しはしますが、神の御言葉が持つ神聖な霊感を信じていません。彼らはイエス様の死や十字架について語りますが、それは、英雄的な死を遂げた世の人たちと同等に語っているに過ぎません。彼らはキリストの死から、贖罪の犠牲という神聖な意味を取り去ってしまうのです。そして、他にもいろいろと、この悪魔の子供たちは言葉を発しますが、彼らの声は誰の心にも響きません。彼らは、まがい物のクリスチャンです。彼らは神から生まれていません。彼らは、御霊の確かな働きから生まれた実ではありません。そして、悪魔は、このまがい物を連れてきて、御国の子どもたちの横に並べることによって混乱を生じさせ、御国の子どもたちが違う何かに見えるように画策します。それはまさに、人々のあいだに混ぜ物をしようという働きです。表面的には区別がつかないことが非常に多いのです。それで、その家の主人のしもべたちが来て言いました。『ご主人、畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は答えました、『敵のやったことです。』覚えておいてください、キリスト信仰の真似をすることが、悪魔の手段のひとつです。本物と並べて偽物を立てるのです。

すると、しもべたちは言いました、『では、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』主は言われました、『いや。そうしようとしても、本物と偽物の区別を付けることができずに、本物の麦もいっしょに抜き取ってしまうかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。』これが、主がこの時代を支配される原理です。ああ、ここには多くの意味があります。私たちの役割は、間違いを見つけて暴きたてることばかりではありません。多くの主のしもべが、そうしてやりたいと言う思いにとらわれてきました。彼らは、生活と精力を、自分の目から見て偽物であるものを突き止めて、根絶やしにすることに傾けています。この世は疑いに満ちており、神の民のあいだにも疑いがあります。どこに行っても、誰かのこんな声が聞こえてきます、「全く、この人はどうなっているんだ?この人のどこがおかしいのか、教義に照らし合わせて見つけてやろう。その調べが終わるまで、この人を信用してはいけない。」この世界は、どこへ行ってもこんな思いであふれており、誰もがどこかで誤りを見つけてやろう、この人やあの人の欠点をあぶり出そうとしています。そして、彼らは、これを自分の判断で行っています。このために、多くの真の神の子どもたちが、このような人々によって、根元から引き抜かれているのです。多くの真の神のしもべが、この種の疑いによって、根こそぎにされ、捨てられてきました。主イエス様は非常に力強く言われました――そのようにしてはいけない、それはあなたがたのすべきことではない、どちらも一緒に育てなさい、そうすれば、成長するにつれて、本当の姿を見分けられるようになる。悪は時間が経つにつれて、ますます本当の姿を現し、それが主から来たのものでないことが、誰からも分かるようになります。成長していく過程で、悪は本来の姿を現してゆきます。時が経ち、そして、最後には、それが悪魔から生じたものであり、主に反するものであることが明らかにされるでしょう。

一方で――実はこちらのほうが、このたとえ話が真に伝えていることなのですが――、本当に主にあるものは、主に似た姿に向けて育って、育って、育ち続けるはずです。教会がこの世にあることは事実であり、この世にとって事実であることは、教会にもそのまま当てはまります。すなわち、本当に生まれ変わった神の子ではない人たちが、その中に混じっていることがあります。彼らは主の民と混じり合っています。彼らは神の御言葉を信じていると公言しています。私が言いたいのは、本当は生まれ変わっていない人々が、真の神の子たちのあいだにたくさん、入り込んでいるということです。彼らは真の御国の子どもではありません。主イエス様は、真の御国の子どもたちであれば、主ご自身に似た姿に向けて次第に成長してゆくことを、私たちに理解して欲しいと望んでおられます。他の人たちは、成長しても主に似た姿には近づいてゆきません。彼らは、偽りの告白者にしかなれないのです。

さて、このたとえ話が伝えているのは、主が来られるとき、すなわち、時代の終わりには、主のものとなっている人たちは、完全、かつ、明白に、どこから見ても主のものであると知られるようになるということです。御国の子供たちを見間違えることははありません。誰が御国の子どもなのか、はっきり分かるようになります。間違いなくそうなります。これまでも、彼らは主に似た姿へと、日ごとに成長してきました。主が最初に彼らに注ぎ込んだ真の神の性質が、ますますその姿を現しているのです。こうして強められる過程こそが、御国が支配する手法なのです。このたとえ話は、私たち全員に対して、大きな問いを投げかけます、すなわち、「私は、主に似た姿へと成長しているだろうか?時が経つにつれて、私の中にキリストが、はっきりと現れてきているだろうか?」この時代に完成される偉大な出来事とは、神の子らの顕現です。それを語る言葉がこれです、「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」最後には、誰が御国の子らなのか、はっきりと示されるのですが、その時に向かって、毎日、成長していくのです。この二つの種は毎日、育っていましたが、成長するにつれて、どちらがどちらなのか、見分けられるようになりました。

ここにいる若い人たちに言いたいのですが、次の点をはっきり確かめることから始めてください。すなわち、自分が本当に生まれ変わった神の子であること、自分が真の御国の子供であること、そして、自分が今、この場所にいるのは、他の誰かにそう言われたからではないことです。あなたがそこにいるのは、神があなたの心の内側で行われた非常に現実的な働きのためなのです。そして、あなたの働きがこのように始まったことを踏まえて、あなたが日々、成長し、成長し、成長しながら、確実に主の姿に近づくようになってください。そうなれば、横で見ている人たちが、あの男性、あの女性、あの少年、あの少女には、疑う余地すらないと言えるようになります。彼らは、本物であり、純粋だ。彼らのことで偽りはなく、彼らの中に偽善はない。彼らは、キリスト者のふりをしているのではなく、本物のキリスト者だ。最後には、誰が神の子供たちであるかが、全世界に明らかにされます。

ここで、もう一つ注目すべきことがあります。最後には、何が起こるのでしょうか?主はここで、初めに滅ぼされるのは、悪魔のものであると言っておられますね。すなわち、悪魔が行ったことの全て、悪魔が植えたもののすべてが、はじめに裁かれるのです。主は言われます、「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。」偽りであるもの、真実でないものはすべて、裁きの中で焼かれることになります。それから、主は言われます、「麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい。」これは、敵による悪の働きについての長い物語です。この働きは、私たちに大きな苦しみを与えましたが、最後には主が勝利されます。最後には、主が本物を手もとにおさめ、他のものはすべて消えてゆきます。大切なのは、最後なのです。

さて、なぜ主が私にこんな話をさせたのか、私にはわかりません。私は主にこう申し上げました、「今、ここに集まっている聴衆にこの話をすれば、皆さんは、私が小さな子供相手に教えているかのように感じるでしょう。彼らは、既に多くを学んできています。彼らは、いろいろなことを、もっと深く知っています。このたとえ話を絵本を読み聞かせるように語ったら、彼らは、自分が幼稚園児のように扱われたと感じるでしょう。」しかし、主は言われました、「わたしが命じたことを語りなさい。私たちは、このキリスト教の背後に置かれたものへと立ち返らなければならない。私たちは、根本へとまっすぐに戻らなければならない。自分がどこにいるのか、皆が正確に知っていなければならない。大審判の火がやってくる。私たちは、やがて来る日、すべての本質が明らかにされる日のために働いているのだから、どこまでも忠実でなければならないし、何ひとつ偶然に任せることはできない。自分を主の民だと信じている人たちが、全て、本当に主の民だと考えてはいけない。私たちは、偽ものを取り除くために、できることは何でもしなければならない。悪魔は、キリスト教に非常に多くの偽ものを混じり込ませてしまった。悪魔は、非常に多くの偽りものを、真実の横に並べているので、私たちは、人々が自分は何者で、どこに立っているのかを神の前で正しく知ることができるように、真摯に尽くさなければならない。」

ですから、こんなふうに簡単な話し方をしたことをお許しください、私は、主が命じることを語るしかないのです。このようなやり方をしなければならないことに、あなたがたのほとんどが、賛同してくれると思います。あなたがたが真の神の子であれば、このような話しかたをしても気にされないでしょう。さて、あなたが真の神の子でないなら、ひとこと忠告しておきますが、偽りや嘘のものは何一つ、御国には入れません。真実であるものだけです。ですから、私たちが皆、御国の子供たちであって、私たちを植えてくださった主に似た姿へと日々、成長していけますように。

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翻訳虫 さんのコメント...

(訳注)マニラ講話の第17回目です。

原文はこのサイトで読めます
http://www.austin-sparks.net/english/books/001084.html