2022年4月3日日曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第18回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十八回会合―『主イエス様の臨在によって、不可能な状況が輝かしい可能性に変えられた』
Meeting 18 - An Impossible Situation was Turned into a Glorious Possibility by the Presence of the Lord Jesus

第十八回会合
(1964年2月14日午後)

さて、今夜ここに来られたことを、とてもうれしく思いますし、私たちを招待してくれた愛する友人の皆さまに感謝いたします。そして、今、聞いたことは、これから皆さんにお話しすることの非常に良い前置きとなっています。

今日のこの祝宴について、また、皆さんへの挨拶の言葉について考えている中で、新約聖書にある三つの祝宴のことが心に浮かんできました。そして、その三つとも、背後にはとても考えられないくらい困難な状況がありました。どの場合も、普通ではありえないほど不可能な状態でした。しかし、三つの祝宴のいずれにおいても、中心人物は主イエス様でした。そして、主が中心にいたからこそ、不可能が可能になったのです。絶対的に不可能な状況から、現実的なものへと変えられたのです。皆さんは、私がどの祝宴のことを語っているのかと思っているかもしれません。

ひとつはガリラヤのカナの婚礼です。皆さんは、その話を覚えていますね。ガリラヤのカナで結婚の祝宴がありました。イエス様と弟子たちが招待されました。祝宴も半ばにさしかかった頃、ぶどう酒がなくなってしまいました。たくさんある料理の中で、どれがいちばん大切なのか、私には分かりません。数ある料理の中で、そのひとつが無くなっただけで、祝宴全体が死んだものとなり、それを用意した友人たちにとても気まずい思いをさせるのはどれなのか、私は知りません。しかし、あのカナの婚宴では、もっとも重要だったのはぶどう酒であり、それが途中で無くなったのです。祝宴でもっとも大切なものが、足りなくなってしまいました。イエス様の母親は、困惑し切って主のところへ行き、『ぶどう酒がありません』と言いました。さて、この話の続きは皆さん、覚えていますね。これは、普通ならば、どうにもならない状況でした。手の打ちようがありません。誰にも、解決できない事態でした。その時点で、ぶどう酒はすべてなくなり、祝宴はまだ半分も終わっていなかったのです。

しかし、中心にはイエス様がおられました。それが、すべてを変えました。主は、大きな水がめを水で満たすように命じました。さて、この水がめには飲むための水が入っていたのではなく、もともと、飲み水をためておくためのものではありません。水は使い果たされていましたが、それは人が飲んだからではありません。客たちの足を洗うために、すべて使われていたのです。全部、空でした。かなり大きな容器でした。イエス様は言われました、『水がめに水を満たしなさい。』手伝いの人たちは、これを聞いて、さぞかし驚いたことでしょう。彼らは言ったでしょう、「水は全部、足を洗うのに使ってしまった。なぜ、また彼らの足を洗うのだろう?」しかし、イエス様の母は、手伝いの人たちに言いました、『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』それを聞いて、彼らは、何の意味があるのだろう、また、何が起こるのだろうといぶかり、おそらくは、全てのお客さんの足をもう一度、洗わなければいけないのだろうかと思いながら、水がめを縁までいっぱいにしました。彼らがすべての水がめをいっぱいにしたとこき、何が起こったのか、皆さんはご存じですね。イエス様が、心を御父に向けて、おそらくは、その手を水がめの上にかざすと、水はたちまちぶどう酒に変わりました。不可能な状況が、主イエス様の臨在によって、輝かしい可能性に変えられたのです。これは、宴会の世話役が、『良いぶどう酒をよくも今まで取っておいた』と言ったほどに、驚くべきことでした。イエス様が何かされるときは、たいていそのようになります。私たちは、「これは今までにあった何よりも優れている」と言うようになります。

ここから離れて、次の祝宴に進みます。これは種類の違う祝宴です。ここにある小さな男、あらゆる面で小さな男がいました。体つきのことだけではなく、他のあらゆる点で、彼は小さな男でした。道徳的にも霊的にも小さな男でした。もちろん、皆さんは彼の名前を知っていますね。それはこういう話です。ローマ帝国が来てパレスチナを占領したとき、彼らは民に税を課しました。すべての国民がカエサルに税金を払うことになりました。しかし、難しい問題がひとつ、ありました。それは、今夜ここにいる私たちと同じ問題です。すなわち、言葉の問題でした。ローマ人はユダヤ人の言葉を話すことができませんでした。彼らは、どうしたでしょうか?ユダヤ人を自分たちのために働かせる、すなわち、一部のユダヤ人に税金を徴収させるしかなかったのです。しかし、これは非常に卑しく、下劣な行為でした。そういうことをする人は、誰からも軽蔑されます。自分の国を占領している敵のために働くというだけでなく、その機会を利用して自分もたくさんの金を儲けようとする人たちのことです。実際に、この仕事に手を染めた人たちは、ローマ人のために税を徴収しただけでなく、自分たちの取り分をそこに上乗せすることで、多くの金を儲けたのです。このため、彼らは誰よりも軽蔑されていました。彼らは、道徳心の低い人たちと見なされていたのです。

今、話している小さな男もその一人でした。彼はあらゆる点で矮小な男でした。ザアカイの話を覚えているでしょう。群衆がやってきて、イエス様がその中にいました。みんな、イエス様がしておられるすばらしいわざのことを聞いていました。そして、この小男も、このイエス様に会ってみたいと思いました。大ぜいの群衆がいたので、背が低かった彼が首を伸ばしても、イエス様は見えませんでした。それで、彼が木に登ると、驚いたことにイエス様が群衆の中から出てきて、木を見上げました。そして、主は、『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから』と言われました。イエス様が家に入られたので、ザアカイはごうせいな祝宴を開いて、友人をみな呼び集めました。そこに来た客の多くは、彼と同じような人たちだったと思います。

ザアカイはその日、見事に救われたのです。もし、この時より前に、彼を知る人たちに、ザアカイが真のクリスチャンになれるかどうかを尋ねてみたら、誰もが、「絶対に無理」と答えたでしょう。なぜ?「あの小さな男は金を拝んでいるからさ。あの小さな男は、とにかく自分の利益のことばかり考えている。何かを手に入れるためなら、どんな不親切なことでもする男だよ。」こんな男が救われることができると思いますか、こんな男が完全に変わって、「私の財産を貧しい人たちに施します。私が取った物も返します」などと言うことが考えられるでしょうか。それはすばらしい祝宴でした。ザアカイが、全ての旧友たちの前でそう証しをしたのは、普通ならばとてもあり得ないような状況でした。しかし、そこにイエス様がおられたので、不可能が現実となったのです。

さて、三番目の祝宴へと進みます。そして、他の二つがあり得ないことであったとしたら、ここで起こったのは、それよりもさらに不可能なことでした。ベタニアという小さな町へ行ってみます。ベタニアには二人の姉妹と一人の兄弟が住む素敵な家があり、彼らはお互いをとても深く愛していたので、イエス様も好んでその家に行かれました。群衆や街から離れるとき、主はよくベタニアに行かれました。しかし、今、イエス様は遠く離れた田舎におられ、その小さな家では非常に深刻な事態が起こっています。愛する兄弟ラザロが、重い病気にかかり、誰の目にも彼が死にかかっていることは明らかでした。この家族は、貧しくはなかったと思います。この家、この姉妹と兄弟について読む限り、彼らには何らかの生活の手段がありました。そのことから、彼らは医者を呼んだと考えてよいと思います。彼らは、兄弟がよくなるためなら、お金を惜しまず、あらゆる手を尽くしたはずです。しかし、何をしても、彼の病状は変わりませんでした。この兄弟は死の淵にありました。彼らはイエス様のことを思いだして、すぐにイエス様のもとに使いを送りました。その使いが伝えたことばとは、『あなたが愛しておられる者が病気です。』

イエス様はこの使いのことばを聞きました。この話の書き手は言っています、イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。しかし、主は彼らの訴えにすぐには応えませんでした。イエスは、そのおられた所になお二日とどまられたと書かれています。それから主は言われました、「行こう。わたしたちの友ラザロは眠っています。わたしたちの友ラザロは死んでいます。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」この話の続きはご存じでしょう。そう、ラザロは死にました。ラザロは長い布に巻かれて、墓に入れられていました。そして、その国で、四日間というのは絶望的な時間でした。そこに、イエス様が来られました。話を短くすると、イエス様はその墓まで出かけていきました。主は、「墓の入り口から、その石を取りのけなさい」と言われました。彼らは言いました、「主よ、主よ、もう臭くなっておりましょう。」イエス様は言われました、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」彼らは石を取りのけました。そして、イエス様は大声で叫ばれました、『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んだはずの男、四日のあいだ死んでいた男が出てきました。そして、次の章では、彼らがイエス様のために祝いの晩餐を用意したことが書かれています。ラザロは食卓につき、マリヤも食卓につき、そして、マルタは、いつものように給仕をしました。しかし、その祝宴はイエス様のためのものでした。この祝宴は、不可能な状況をこれほど輝かしいものに変えてくださったお方への感謝から行われたものでした。

さて、この三つの祝宴には、二つの共通点があります。ひとつは、どの場合も、普通ならどうしようもないほど困難な状況であったことです。もうひとつは、イエス様がその不可能な状況を支配されて、全てをひっくり返したことです。今夜のこの祝宴には、この三つの祝宴のすべてが含まれていると思います。ここにいる私たちのほとんどは、この人生とこの世で、何かの失望を経験してきました。私たちはこの世のぶどう酒に満足を見出そうとしましたが、そのぶどう酒は助けにならず、失望を味わいました。私たちはこの壊れた制度の中に満足を見つけようと試みましたが、結局、希望を失いました。カナのぶどう酒のように、私たちはこの世に失望し、「この人生には望みがない」と言ったのです。そこにイエス様が現れ、私たちのために状況を一変させてくださいました。私たち皆が今夜、御国の新しいぶどう酒を味わっています。それは、イエス様が与えてくださる永遠のいのちです。そして、誰もが、自分たちが生まれたこの人生では、どうにもならないことを知っているのです。

私たちは、小男、ザアカイのことを悪く思うかもしれませんが、私たち自身も貧しい者です。私たちは、彼よりすぐれてなどいません。私たちも、彼と同じような卑しいことをします。生まれつきの性質として、私たちは全く希望のない人間たちです。もし、誰かが、私たちは完全に新しく作り替えられると言って、「いや、そんなことはあり得ない」と言っていたでしょう。しかし、イエス様はそれをされたのです。主は、このザアカイのような人たちを変えてくださいました。私たちは皆、罪過と罪との中に死んでいた者でした。私たちは皆、神に対して死んでいました。ラザロと同じように死んでいたのです。しかし、主イエス様が私たちの人生に入って来られ、私たちをすばらしく死者の中からよみがえらせ、新しいいのちを歩むようにしてくれました。こういったことが全て、この祝宴の中にあるのです。ですから、この祝宴は、私たちの人生に現れた主イエス様の栄光のすばらしい証しです。私たちの兄弟、ヨハネは、不可能な状況を主が変えられたことについて、少しだけ語っています。そして、私たちの誰もが――ここにいる全員がそうであればと私は願っています――奇蹟を行う主イエス様の力に対する証しを持っています。ですから、このような機会に祝宴を開くのはすばらしいことです。それは単なる社交の場ではなく、私たちの主イエス様の栄光への証しだからです。

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