2022年4月16日土曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第19回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第十九回会合―『聖霊を受けることの絶対的な必要』
Meeting 19 - The Absolute Necessity of Our Receiving the Holy Spirit

第十九回会合
(1964年2月15日午後)

神の御言葉から、ご一緒に二、三箇所を読みたいと思います:
『わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。』(ヨハネ16・12、13)

『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。』(ヨハネ14・16~19)

『アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』(使徒のはたらき19・1~6)

さて、ここで挙げた聖句から抜き出してみたい文章が二つあります、『その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。』もうひとつは、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』今、読んだこの聖句は、使徒たちが強くこだわっていたことがらを示しています。そして、ここで、使徒たちが証拠を強く求めていたものとは何だったでしょうか?それは、相手の人たちが間違いなく聖霊を受けたことです。皆さんの中には、「では、私たちが本当に聖霊を受けたのか、また、いつ受けたのか、どうすれば分かるのだろう?」と言う方もいるでしょう。実は、私たちが聖霊を受けたことの証拠となるものは、たくさんあります。そして、その証拠の中で、もっとも一般的なものをいくつか選んでお話しします。

その証拠のひとつ目は、イエス・キリストが私たちの人生全体に対する絶対的な主であることに気づき、認めたことです。使徒たちが説教をしたとき、必ずイエス・キリストを主として示すことから話し始めたことにお気づきでしょうか。イエス様について彼らが初めに語るのは、「イエス様は救い手である」ことではなく、彼らはいつも、「イエス様は主である」ことを、まず最初に述べました。『神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。』彼らは、自分がイエス・キリストを主として述べ伝えていると述べました。絶対的な主としてのイエス・キリストの支配から、彼らの説教はいつも始まりました。

さて、この聖霊の到来は、天で起こったことの地上から見た側面に過ぎません。イエス様は栄光の中へと引き上げられ、栄光の中で、神はイエス様を主とされました。神はイエス様に、「わたしの右の座に着いていなさい」と言われました。天では、イエス・キリストは主と認められていました。天国のすべての御使いは、イエス様を主と崇めています。父なる神はイエス様を『主』と呼びました。これが天で起こったことです。このことが天で起こった時に、聖霊が天からこの地上に降りてきたのであり、聖霊が降りてきたのは、天にあったことを、この地上でも起こさせるためでした。聖霊が来たのは、地上と天とを、『イエス様が主である』という事実でひとつに結ぶためでした。あなたや私が聖霊を持っていることの第一の証拠は、イエス・キリストが私たちの人生において絶対的な主となっていることです。私たちは主イエス様の前にこうべをたれて、『主よ』と言います。そして、その時から、イエス様が私たちの人生にあるすべて、人生を支配するすべてのものの主であることを認めます。

イエス様が主であるとき、聖霊が必ず行うことがひとつあります。聖霊が、主イエス様の栄光を心の中へともたらすのです。イエス様が天国で栄光を受けたのは、イエス様が天で主であったからです。イエス様が私たちの人生の主となる時、その天国の栄光のある部分が私たちの人生に入り込んできます。新約聖書に登場する人々が、聖霊を受けたとき、大きなよろこびに満たされたことをご存じでしょう。そのよろこびとは、イエス様の栄光の表れでした。本当にイエス様を主とするとき、私たちがとても幸せになり、大きなよろこびに満たされるのはこのためです。そのよろこびを自分の中に留めておくことなど、とてもできません。皆に知ってもらいたくなります。聖霊は、主イエス様の栄光を、私たちの人生へともたらしたのです。これが、あなたが既に聖霊を受けたかどうかを見分ける第一の方法です。あなたの心の中には、イエス様の栄光を表すものが何かありますか?

キリスト教が世界でただひとつ、本当に歌う宗教であることをご存じでしょう。他の宗教の中には、おかしな騒音を立てるものがあります。自分では歌っているつもりなのでしょう。しかし、それは惨めな騒音です。彼らが出すのは、耳障りな騒音にすぎないのです。私たち、キリスト者は歌いますが、なぜ歌うのでしょうか?それは、聖霊が歌わせるからです。キリスト者たちが主イエス様のことを歌っている時、どんなにうれしそうに見えるか、お気づきでしょう。それが、私たちが聖霊を受けたという最初の証拠ですね。

もう一つ、私たちが聖霊を受けた証拠となるものとは、私たちの生き方に起こされる完全な変化です。これが真実であることは、新約聖書を見ればわかります。五旬節の日より前の弟子たちを見てください。イエス様が十字架につけられるまでの弟子たちを見てください。それより前の弟子たちについて、誉められることはほとんどありません。五旬節の時までの弟子たちは、打ち負かされた弟子たちでした。イエス様が兵士たちに連れて行かれたとき、彼らは皆、主から逃げてしまいました。誰一人、主のそばにとどまらなかったのです。彼らは、怖くて震えていました。そして、ペテロ、哀れなペテロは、誰よりも貶められました。三度もペテロは、イエスと知り合いであることをはっきりと否定して、『そんな人は知らない』とまで言ったのです。この言葉を口にしているペテロを想像してみてください。あの自信に満ちていたペテロがそんなふうに振舞い、主を否定することで自分の命を守ろうとしているのです。そう、十字架のことになると、彼らは皆、完全な敗北者でした。

しかし、五旬節の日とその後の弟子たちを見ると、彼らは、絶対的な勝利の中に立つ男たちに変わりました。イエス様を十字架につけたのと同じ支配者たちが、この弟子ちを逮捕して、死刑にすると脅したとしましょう。その時、弟子たちはどうするでしょうか。逃げ出すでしょうか?「私たちはイエスなんて知らない」と言うでしょうか?いやいや、彼らは全く違う人間になったのです。彼らは、今や勇気にあふれています。彼らは支配者たちに立ち向かいました。そして、「使徒たちは、キリストの御名のためにはずかしめられることを喜んだ」とあります。聖霊を受ける前は、彼らはいつも怖がっており、恐怖に震えていました。イエス様が死からよみがえった後も、弟子たちは皆、部屋の中にいて、ユダヤ人を恐れてドアにかんぬきをかけていたと書かれていますね。こちらに向かってくる足音が聞こえたら、顔は恐怖で真っ青になって、「今度は、私たちを捕らえに来たのだろうか」と震え始めたでしょう。恐怖でいっぱいの男たちでした。では、聖霊を受けた後の彼らを見てみましょう。真っ青な顔はひとつもありません。恐怖で震えている人もいません。恐怖は、すばらしい勇気に置き換えられたのです。彼らは、どんな相手にも立ち向かいます。

そして、イエス様が十字架につけられた後の彼らをもう一度、見てください。エマオという村に向かっていた二人の弟子たちが、歩きながら暗い顔つきになっていたとあります。彼らはとても悲しく、沈んだ気持ちでした。そして、その時の弟子たち全員が同じだったと思います。彼らはすべてを失ったと思ったのです。そう、彼らは大きな悲しみのうちにありました。

では、聖霊を受けた後の彼らはどうでしょう。彼らはよろこびと聖霊に満たされたとあります。よろこびが悲しみに取ってかわったのです。それまでの彼らは、どれほど弱かったことでしょう。年若い小さな女中にさえ、言い返すことができなかったのです。この話を覚えていますか?イエス様が裁判にかけられ、ペテロは近くの中庭にいて、火で手を暖めています。あなたがたも恐ろしい思いをしているときは寒く感じるでしょうが、ペテロも非常に恐れていたので、とても寒く感じていました。そこに若い女中が来ました――小さな女の子、召使いの女の子です。そして、この子はペテロに、『あなたも弟子たちの一人ですね』と言いました。そして、ペテロはこの小さな女の子を恐れました。彼は言いました、『私は、その人を知りません。』そう、彼にはこの女の子が怖かったのです。何という弱さでしょうか。それが、五旬節の後では、世界中のすべての少女たち、すべての男たちを連れてきて、ペテロや他の弟子たちに何を言わせても、彼らは弱みを見せない強い者たちになりました。

もうひとつ、別のことがあります。五旬節の日より前、聖書は彼らにとって閉じた書物でした。聖書は一冊の本に過ぎませんでした。彼らはモーセや預言者たちや詩篇を読んでいましたが、理解はしていませんでした。聖書に書かれていることを、理解できていなかったのです。聖書を書物として知ってはいてもなお、それは閉じた本でした。さて、五旬節の日の彼らを見てください。なんと、彼らは新しい聖書を手に入れたのです!五旬節の日にペテロが群衆に述べたことばを注意して読んでみてください。旧約聖書をどれだけ引用しているでしょうか。彼が旧約聖書をどのように説明しているかを見てください。今、彼の目は開かれ、旧約聖書のいたるところにイエス様を見るようになりました。そう、彼らは新しい聖書を持つようになりました。聖書はもはや閉じたものではなく、開かれた書物となりました。この全ては、彼らが聖霊を受けたことのしるしでした。聖霊が敗北した人間を勝利の人に変えました。聖霊は、恐怖に震えていた男たちを、勇気の人に変えました。聖霊は、悲しみにくれていた人間をよろこびにあふれた人に変えました。聖霊は弱い者を強い者に変えました。そして、聖霊は彼らに完全に新しくなった聖書を与えました。これが、彼らが聖霊を受けた証拠です。これで、皆さんも、聖霊が非常に重要であることが分かっていただけると思います。

こういったことが、キリスト者の生活の真の特徴です。今夜はこれ以上、皆さんを引き留めるつもりはありません。またお話しする別の機会があれば、おそらく、そのときは、この点からさらに話を進めて、聖霊の意味、生活の中で聖霊が私たちにとってどのような意味を持つか、もっとお話しすることになるでしょう。しかし、今夜の大切な点とは、私たちが聖霊を受けることの絶対的な必要です。そして、自分が聖霊を受けたと確信することです。そして、それは、私が述べてきた事柄によって確かめることができます。聖霊を受けたことを試し、証明することができるのは、私たちにとって、イエス様がすべての主だからです。イエス様は、私たちの人生の絶対的な主です。そうさせるのは聖霊です。私たちにとって、そのようになっていれば、私たちは聖霊を受けています。また、これまで私が述べてきた他のことも、真実となっていなければなりません。

そのことを証明する問いがこれです、「あなたは聖霊を受けていますか」。あるいは、パウロの言い方を借りれば、「信じたとき、聖霊を受けましたか。あなたの中に住まう聖霊が本当にいますか?」そして、あなたは、『どうしたら、それが分かりますか』ときき返します。あなたが既に聖霊を受けたかどうか、自分で知ることができる事柄をいくつかお話ししてきましたね。もちろん、私たちはそれを別のかたちで表現することがよくあります。私たちは、主イエス様を受けたかどうか、人に尋ねることがあります。そんなときは、主イエス様を心の内に持つことについて話しますが、これは全く同じことなのです。イエス様は、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言われました。そして、聖霊とイエス様も一つです。聖霊が来たのは、イエス様を私たちの中に住まわせるためです。これは同じことです。しかし、そのことを、私たちは確信しなければならないのです。

さて、この質問はこの辺にしておきます。私は非常に誠実でありたいと思っているし、キリスト者の生活の土台の部分に踏み込もうとしているんです。私は、この時代のキリスト教の最大の弱点の一つは、あまりにも多くのことを当たり前のように考えているところにあると思います。だからこそ、使徒たちはこの問題にこだわったのです。彼らは、このことを個人的な問題ととらえました。彼らは、そして、それをもっとも重要なこととして扱いました。彼らは言いました、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』真のキリスト者の生活とは、聖霊によってイエス様が主となる生活に他なりません。

さて、これが今晩、私から皆さんへの、簡単ではありますが、非常に重要なことばです。私は、あなたがたに話すために遠くから来ましたが、ここにそう長くはいられないし、ここから去った後、この地上では二度と会えないかもしれません。しかし、あなたがたに話すとき、私はできるかぎり誠実でありたいと思っているし、キリスト者の生活――聖霊がイエス・キリストを主にする生活――の真の性質については、あなたがたにひとつの疑問も残らないようであって欲しいと願っています!おそらくこの後、キリスト者の生活の進め方についてもお話しすることになるでしょうが、その生活とは、このように始まるべきものなのです。

0 件のコメント: