2021年8月16日月曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第8回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合8 — 『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか』
Meeting 8 - "Have You Understood All These Things?"

第8回会合
(1964年2月6日午後)

もう一度、マタイによる福音書、第13章、1~3節を読むことにします。

『その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。』

今度は51節と52節、
『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。』

主イエス様が語られたこれらの天の御国のたとえと、主が教えられた多くのことを読むとき、私たちは、それぞれの話しごとに何か意味があるものと考えてしまいますが、これは危険なことです。例えば、イエス様のたとえを取り上げて日曜学校で子供たちに教えるとき、イエス様が語った物語として話し、おそらく、私たち自身も、そのように読んでいるのです。どれも非常におもしろい話しです。

マタイ13章には、七つのたとえ話あります。七つの非常におもしろいはなしであり、福音書には、他にも、もっと多くの話があります。私たちは皆、ルカ15章に出てくる、三つの話をよく知っています。九十九匹の羊と迷子になった一匹の羊の話。これは、とても興味深い話です。この話について、多くの説教が語られてきました。それから、ひと続きになった十枚の銀貨を持っていた女の話しが続きます。それは、結婚したときに夫からもらったものでした。そして、ある日、首飾りから銀貨の一枚が落ちてしまいました。彼女は、灯りをつけ、家中を探し回って、銀貨を見つけました――とても、興味深い話しです。次に来るのは、放蕩息子と呼ばれる、誰もが知っている話です。そして、これらの多くのイエス様の教えに対して、私たちは、それぞれに意味を持った話しとして読むだけで、もっとも重要なことを忘れています。

イエス様の教えが与えられたのは、非常に大きな危機の中、おそらくは、世界が歴史上、最大の危機にあった日でした。それは、イエス様が再び来られる日まで続く危機です。それは、あらゆる危機の中でも最大の危機となります。しかし、イエス様も人生で非常に大きな危機にあった日に、教えを授けていたのです。その危機とは、次のようなものです。何千年にも渡って、すべての中心となってきた民族がこの世にいました。その民は、ずっとこの世界に対する神の関心の中心でした。世界の他の国々は、この民族を見ているだけでした。その国こそ、すべての国々の中心であると、誰もが感じていました。その国で起こったことは、すべての国々に影響を与えました。神がその国を選んだのです。神は、その国にご自身を啓示されました。神は、旧約聖書にあるすべてのすばらしい真理を、その国に与えました。神は、その国を導くために、歴史上、もっとも偉大な指導者たちを立てました。神は、この民に、それまではいなかった偉大な預言者たちを与えました。神は、この民に、どの国々にもまして、最高の王を与えました。神は、イスラエルの国にどれほどのことをしてくださったでしょう。カルデヤ人のウルでアブラハムに手をおき、アブラハムに向かって、『わたしはあなたを大いなる国民としよう。・・・・あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる』(創世記12:2、22:18)と言われた日からです。その日から、イエス・キリストが世に来られた日までは、その国にはすばらしい歴史が続きました。

しかし、イエス・キリストが来られたことで、全てが終わりを告げ、その国は神から捨て去られようとしています。神はイスラエルを拒絶しています。イスラエルが国ではなくなる日まで、そう長くないでしょう。彼らの都は破壊されます。立派な神殿は倒されます。祭司たちは殺され、散り散りになります。その日から今まで、彼らには、都も、王も、神殿も、祭司も、祭壇も、いけにえもありません。すべてはこのとおり起こり、イエス様はそうなることをご存知でした。そして、たとえ話はすべて、このことについての預言だったのであり、主はその大きな危機に注意を向けるために、たとえ話をされていたのです。主が言われていたのは、『あなたがたの歴史が全て、終わるときが今に来る。あなたの生活を成してきたすべてが終わりを迎え、まったく新しい秩序がもたらされて、支配し始める』ということです。

つまり、これらのたとえは、御国のたとえと呼ばれるように、ひとつの王国が消えて、新しくもたらされた王国と代わることを告げていました。この王国が消え去り、そこにあるすべてが壊されたとき、バプテスマのヨハネが登場し、荒野で叫ぶ者の声がして、おおぜいの人たち彼のことばを聞くために集まってきました。彼は何と言ったでしょう?『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』(マタイ3:2)。それが、キリストに先立って現れたものが伝えたことばでした。イエス様がバプテスマを受けて、ヨルダン川から現れ、説教を始めたときも、主は同じことを言われました。主は、『天の御国が近づいた』と言われたのです。それが、使徒たちが伝えたことばでした。イエス様が、この地上を離れて父のみもとに帰ろうとしていたとき、主は復活の後で、弟子たちに語られ、天の御国のことを話されたとあります。五旬節の日、そこで告げられたのは、御国の偉大な知らせでした。そして、使徒たちは全世界に出て行き、御国を宣べ伝えました。使徒パウロが、ローマの牢獄で人生の終わりを迎えたとき、多くの人々が牢獄にいる彼に会いに来ましたが、彼は集まった人たちに、御国についての話をしたと言われています。

このヘブル人への偉大な手紙の最後では、すべてがこの一点にまとめられています。このすばらしい手紙で、書き手がが語ってきたことは、次の一文に集約されています、『こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのです。』文法的に正確な時制で言うと、『こういうわけで、揺り動かされない御国を受け取っているところなのです』となります。黙示録には、聖書の最後であがる大きな勝利の叫びがあります。すべての物語が語られたとき、その声は言います、『今や、私たちの神とキリストの国が現われた。』(黙示録12:10)。この神の御国は、神のみ言葉の中で、どれほど大きく重要な位置を占めているでしょうか。神の御国にいるのは、なんとすばらしいことでしょう。神の御国に入れないのは、なんと恐ろしいことでしょうか。

国としてのイスラエルは、神の御国を逃してしまいました。イエス様は、彼らのことで、もっとも恐ろしいこと、すなわち、この神の国の子どもたちは、外側の闇に入ることになると言われています。そこで人々は、泣き叫び、嘆き悲しみ、歯ぎしりするというのです。お尋ねしますが、これまでの二千年間、イスラエルはこのとおりだったのではないでしょうか?イスラエルは二千年間、外の暗闇にいました。その間のイスラエルの歴史は、嘆き、悲しみ、そして、歯を食いしばるものでした。私たちは、最近まで続いてきたイスラエルの悲惨な歴史を知っています。ああ!イスラエルはどれだけ憎まれているでしょう。彼らの住む街は二つに分かれ、街の片側には、彼らを憎み、滅ぼそうとする民がいます。それもこれも、彼らが神の国を失ったからです。神の国を失うのは実に恐ろしいことです。しかし、その一方で、神の国にいるのは、実にすばらしいことでもあります。さて、ここで、昨夜、話を始めたところに戻ります。あの時、言ったことを思い出してみてください。神の国がそれほど偉大で重要なものであり、その国を逃すことはかほどに恐ろしく、その国にいることが輝かしいことであるならば、私たちはこの御国に入る奥義を知らなければなりません。この二つを、主イエスさまはいつも、ひとつにまとめています。ここに神の国があり、神の国に入る道は、『霊的な理解』によるものです。霊的な理解がなかったので、イスラエルは神の国を失いました。彼らが霊的な理解を持つことはできたのです。彼らに霊的な理解を得ることが不可能だったのではなく、他のすべての人と同じように、それを得ることはできたのに、彼らは不信仰で不従順だったのです。そして、この不従順と不信仰のために、彼らの霊的な目は閉じられていて、見ることができなかったのです。彼らは見えなかったために、御国を失いました。

さて、これから数分間、このことを頭に入れておいてください。イエス様は、七つのたとえを全て語られた後で、弟子たちに問いかけました、『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。』天の御国に関わるすべてのことは、『霊的な理解』という問題にかかっています。

ここから、とても身近な神のみ言葉に目を向けてみましょう。ヨハネの福音書の第3章です。新約聖書が章に分けられているのは、とても便利なことではあります。しかし、これには非常に良くないところもあり、これは、残念な章分けの例なんです。第3章は、本当は第2章の23節から始まるべきなのです。あなたがたが聖書を持っているのを見ると、私はうれしく思いますし、大きな助けになります。さて、2章の23節に、「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」とあります。先に進む前に考えてみましょう。これは本当の信仰だと、あなたは思いますか?彼らはしるしを見たから信じたのです。これで、いいのでしょうか?今は、これだけにしておきましょう。

先を続けます。『しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。』さて、注意してください、「ここにある男がいた。・・・・主は、人のうちにあるものを知っておられたので、ご自身をその人にお任せにならなかった。」『さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」』しかし、イエス様は人の中にあるものを知っていたので、ご自身を彼にお任せにならなかった。主は何を言われたでしょうか?イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』

さて、ニコデモにはこれが見えていたかどうか、考えてみます。『ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」』イエス様は、この質問に答えず、何も説明しませんでした。ご自身を彼に任せなかったのです。イエス様は答えました、『「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です』(ヨハネ3:4-6)。さて、ニコデモですが、彼は誰なのでしょう?何者でしょうか?彼は全イスラエルを代表する者です。ニコデモという人物の中に、この夜のイスラエル全体が表されていました。そして、このニコデモという人の中に込められたイスラエル全体に対して、イエス様が言われたことは、『あなたにはできない。あなたには無理。あなたは見ることも、入ることもできない。肉と血は、天の御国を受け継ぐことはできない。見るために、そして、御国に入るために、あなたは上から生まれなければならない。生まれたままのあなたは肉の人だ。霊の人だけが、霊的な国に入ることができる。霊的な人たちだけが、その国を見ることができる。』これは、ニコデモも当てはまることです。

イエス様がこうに言われたとき、ニコデモは言いました、『ああ、どうしてそのようなことがあり得ましょう?私には、理解できません。あなたの言っていることが分かりません。どうしてこんなことが起こるでしょう?』イエス様は言われました、『あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか?』イスラエルの数千年に渡る歴史とたくさんの教えの中で、ニコデモが知らないことなどなかったのです。彼は旧約聖書のすべてを知っていました。モーセが教え、書いたことも全て知っていました。詩篇にあることも全て知っていました。預言者たちが書いたことも全て知っていました。彼は、その全てを知っていたのです。ニコデモには、イスラエルの歴史、イスラエルの教義のことで、人から教わることなど何もなかったのですが、それでいて、この男は天の御国を見る能力も余裕もなかったのです。

ここで、少し立ち止まることにします。それはとても厳粛なことがらです。私が今、ここマニラに来ている背景に、このことがあります。私は何か新しい教えを授けたくて来たのではなく、私が何を語っても、中には、「ああ、それは前に聞いたことがある」と言う人もいるでしょう。「まあ、それは知っているよ」と思う人もいるでしょう。問題はそこではありません、愛する皆さん。あることを知っていることと、霊的な目でそれを見ることには、天と地ほどの違いがあります。さて、これはもっとも厳粛なことであると言っておきます。これは、私の人生の中でも、もっとも辛く悲しい出来事のひとつなのですが、私が知っていたある人たちのことで、彼らは私たちのところに来て、私たちが教えたことをすべて受け入れ、それを信じると公言して、外に出ていって、学んだことを述べ伝え、世界のさまざまな場所で教えているのです。あなたも、彼らの姿を見て、話を聞けが、彼らは全てを知っている人たちだと思ったでしょうが、その後で、彼らはすべてを否定するような行動を取り始めました。彼らの行動や振る舞い、生き方によって、その全てが否定されてしまうのです。私はそのようなことが起こった事例を一度ならず聞いており、非常に大きな疑問を感じています。彼らは全てを受け入れたように見えます。全てを信じたようにも見えます。いたるところで人にその話しをしています。それなのに、その全てを否定するような人生を送っているのです。そして、その後の彼らの立場や教えの全てが、彼らが信じると公言していることに完全に矛盾しています。

何が問題なのでしょうか?結局のところ、彼らには見えていなかったという結論しかありません。彼らは、自分の知性で見たのです。彼らは、頭で受け入れました。生まれたままの能力をもって、教えたのです。しかし、彼らには、本当は見えていなかったのです。一度でも神の子の声を実際に聞いたら、もう前と同じあなたには戻れません。多くの人が、しるしを見たために、主の御名を信じました。しかし、彼らはニコデモと同じでした。彼らは、自分が理解したと思っていました。自分では理解していると言ったでしょうが、イエス様は、彼らにご自身を任せませんでした。主は、人の中にあるものを知っておられました。

ニコデモという人を詳しく見てみましょう。彼はとても知的な人物です。優れた頭脳を持ち、高度の教育を受けた人で、敬虔な宗教家であり、人々の教師であり、そして、他にも多くの良い点がありました。誰もが、ニコデモはすばらしい人だと思います。しかし、ニコデモは神の国を見ていなかったのです。それは、知的な能力の問題ではありません。その能力は、他の問題では非常に役に立つかもしれません。教育の問題でもありません。どれだけ敬虔かという問題でもありません。ニコデモはその全てであり、それ以上の人でした。彼は、何者でしょうか?

イエス様がニコデモに言われたことばを見てみます、『風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。』どういうことでしょう?ニコデモにとって、どんな意味があったのでしょう?私たちにとっては、どんな意味があるのでしょうか?あなたは、陸であれ、海であれ、荒れ狂う大嵐に巻き込まれたことがありますか?ハリケーンに遭遇したことがありますか?本当に、ひどい風でしたか?大風が吹いているとき、あなたには何かできるでしょうか?その風に耐えることができますか?抵抗できますか?風に、「ああ、お前には動かされたりしない」と言えるでしょうか?風に向かって、「お前は誰だ?お前なんか怖くない」と言えますか?風に対して、何ができるでしょう?何もできません。全くの無力です。風の力の前では、あなたは弱者です。強大な嵐の前では無に等しいのです。あなたにできることはただひとつです。降伏し、なされるがままで、「もうだめだ、私には何もできない。この風の吹かれるままになるだけだ」と言えるだけです。

御霊によって生まれる者もみな同じです。風は、思いのままに吹きます。『今日の風はこっち向きに、明日の風はあっち向きに吹いてくれ』などと言えません。風は、途中にあるものを全て巻き込んで、思いのままに吹いてゆきます。気の済むまで風に語りかけても、風はあなたに気付きもしません。御霊から生まれた者も同じです。ニコデモが学ばなければならなかったことは何でしょうか?あなたがたと私が学ばなければならないことは何でしょうか?神の霊は、神の権威を持った霊であるということです。そして、行うべきことは、ただひとつ、聖霊の思うがままにしていただくことです。聖霊の権威に身をゆだねるまでは、決して、御国を見ることも、御国に入ることもできません。

一点だけ述べて締めくくろうと思います。弟子たちは、自分に非常な自信を持った人たちでしたね。イエス様が弟子たちに、「あなたがたはみな、わたしのゆえにつまずきます」と言い、ペテロには、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと言います」と言ったとき、ペテロは、姿勢を正しました。彼は言いました、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。死ななければならないとしても、私は、あなたと一緒に行きます。」さて、書き手がここにはさんだ言葉に注目してください、この一文を入れています、『弟子たちはみなそう言った。』(マタイ26:31, 34, 35)。

彼らは皆、自分に大きな自信を持っていました。自分にはすばらしいことができると信じていたのです。試練にさらされても、自分はなんなく乗り越えることができることを疑いませんでした。しかし、この悲しい物語を見れば、イエス様が裁きの場に連れて行かれた夜、主が中庭にある裁きの場に着く前に、ユダが主を裏切り、兵士たちがイエス様を捕らえると、彼らは皆、イエス様を見捨てて逃げたとあります。今や、イエス様は十字架につけられました。残されたのは、なんと哀れな人たちでしょうか。

二人の弟子がエマオに向かって歩きながら、話していることを聞いてみます。見知らぬ人が近づいて、彼らの話しを聞きながら言います、『歩きながらふたりで話し合って、そう悲しげにしているその話は、何のことですか?』彼らは立ち止まり、主を見て、『エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。』主は、「どんな事ですか」ときかれました。彼らの答えは、「ナザレ人イエスのことです。この方は、神の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと、望みをかけていました。それなのに、私たちの指導者たちは、この方を死刑に定め、十字架につけたのです!」この二人が他の全ての人を代表していたと考えてもいいのではないかと思います。

何が起こったのでしょう?彼らの期待は完全に消えてしまったのです。望みはすべて裏切られました。彼らが信じていると思っていたものは、すべて崩れ去りました。よく、「すべて、底をついてしまった」という言い方をします。愛する友よ、そうならなければならなかった。それが起こるまで、聖霊が来ることはできなかったのです。この人たちが、自分への自信を完全をなくするまでです。彼らが、頭で考えていることが、自分の心にはないことを悟るまで、それは起こらなかったのです。彼らは耳で聞き、目で見ていましたが、霊的な理解がなかったのです。聖霊が来るためには、彼らはこの状態にならなければなりませんでした。

霊的な人間が生まれるためには、先に、生まれたままの人間が崩れ去ることが必要なのです。御国へと導く霊的な理解を得るためには、まず始めに、自分なりの理解を終わらせなければなりません。今夜、ここにいるあなたがの多くは、自分は優れた頭脳と高度な教育を受けているから、そして、自分はとても信心深いから、御国を見ることは保証されていると考えています。あなたは大きな錯覚に陥っています。霊的な者だけが、神の国を見て、そこに入ることができるのです。『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。「あなたがたは新しく生まれなければならない」、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。』キリスト者の生活の始まり、つまり、御国に入ることについての真実は、御国にいるとき、そこにある全てについても真実です。私たちが、霊的に成長している過程では、この御国にあるものについて何も知ることができません。私たちの知的な生活が霊的な生活よりも前に出てしまうことが非常によくあり、そうなったとき、私たちは長い道のりを引き返して、やり直すしかありません。私たちは、自分が本当に知っていることよりも、ずっと多くを知っていると考えてしまいがちです。聖霊の力に支配される生活だけが、天の御国のことを学ばせてくれるのです。

さて、今日はこの辺でやめることにします。私は、あなたがたに新しい真実を教えようとしているのではないと言っておいたし、ここにいる誰もが、『そんなことは知っている』と言えたかもしれませんが、では、なぜそれを知っているのですか?誰かが言ったから、知っているのでしょうか?聖書で読んだから、知っているのでしょうか?学校で勉強する課目のように学んだから、知っているのでしょうか?それとも、「本当に神の霊が、その書物に書かれていることを私の心に啓示してくれた」と言えるでしょうか?そして、さらに進んで、『神の御霊が、御国の全てを絶えず、私の心の中に明らかにしている』と言えますか?ここでもうひとつ、大切なことを言わなければなりません。私たちは、イエスの時代のイスラエルと同じくらい大きな危機の中にいます。主は、私たちに迫っていることをご存知なのかもしれません。私たちには、『ああ、それはあそこで起こるかもしれないけど、私たちに起こることはあり得ない』と言ってしまいがちです。中国で起こったことは、もちろん、フィリピンでは起こらないだろう。それは、フィリピンで一度、起こったことを、お伝えしておきます。それは、もう一度、起こるかもしれません。世界のどこでも起こりうることです。

すべての国々が、大きな不安に見舞われています。人々の心は恐怖に打ち負かされそうになっています。いつ何時、どんなことが起こっても不思議ではありません。あなたが考えているよりもずっと早く、何かが起こるかもしれません。キリスト教の外見的な形式が全て取り払われたら、あなたには何が残されるでしょうか?楽しい会合を開いて、美しい霊的交わりを楽しむことができなくなったら、何が残るでしょうか?もし、教師を持つことがもはやできなくなったら、何が残るでしょうか?それは、危機のしるしです。危機について、私たちの心は、どう捉えているでしょう?聖霊は、私たちに、本当に何を示されたでしょうか?私たちの人生の一部となってしまっているため、いのちを奪わずにそれを取り去ることができないものとは何でしょうか?この時代の終わりは、このような危機が知らせることになるのです。そして、これは大きな問いかけです。私たちは、聖霊によってどれだけのことを得たでしょうか?『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか?』霊的な理解ができていることを、しっかり確認してください。

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