2021年9月10日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第6回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合6 — 『霊的な理解こそ何よりも大切です』
Meeting 6 - "The Most Important Thing is Spiritual Understanding"

第6回会合
(1964年2月5日午後)

マタイの福音書、13章1~17節から、神のみ言葉を読むことにします。

『その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」』

『すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」』

次に51~52節も読んでみましょう、
『「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」』

何週間か前、まだマニラに来るつもりはなかった頃、主があることについて、私に語りかけてきました。ここに来ることが決まった時、あなたがたに話して欲しいと、主が願っておられることが示されました。私は、それがキリスト者の生活において、もっとも大切なことであると感じています。このことを、心を留めておいていただくようにお願いします。キリスト者の生涯において、もっとも大切なこととは何でしょうか。それは、<<霊的な理解>>です。私たちにとって、霊的な理解よりも大切なことなどあり得ません。あなたがたも、気づかれたと思いますが、このマタイ伝13章は、この問題を軸に展開しています。全ては、この<<霊的な理解>>と言う問題を中心とし、そこに焦点を当てています。

主イエス様は、ここで神の御国のことを語っています。これは大きな問題で、主はここにすべてを集中しています。神の御国とは、すべてを包み込む問題です。全てがこの神の御国というこの問題に集約されるのです。私たちが理解しなければいけないのは、神の御国とは永遠の問題であるということです。それは永遠の昔にまでさかのぼります。あらゆる年代を通じて受け継がれ、そして、やがて来る永遠の中で完成されます。そして、聖書にあるすべてが、このただひとつのこと、すなわち、神の御国に集約されます。神の御国とは、神の絶対的な支配のことです。神のご支配は、全宇宙、中でも、この地上の全てに及んでいます。この御国は、御父から御子へと与えられ、御子が受け継ぐべきものとされました。ヘブル人への手紙の冒頭で、神の御子について述べられたことばがあります。そこで、御子は、『万物の相続者とされた』とされています。これは、世界が創造される前に起こったはずです。神、すなわち、御父は、御子をすべてのものの相続者に任命されました。言葉を換えれば、神は、御子に御国を与えられました。神の御国は、神の御子の永遠の権利です。神の御子は、万物を統治するように召されています。

聖書で次に示されるのは、人間が、神の御国において、イエス・キリストともに共同相続者となるために造られたということです。神が人間を造られたのは、人が御子とともに支配する者となるためでした。ここでまた、ヘブル人への手紙の中で、この問いかけがなされます、『人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。』『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせました。』『万物を彼の足の下に置かれました。』ですから、次の三つから始まることになります。(1)すべての上にある父なる神。御国は、すべてに対する天の支配、すなわち、神に属するものです。(2)御子には、御座において、御父の隣の場所が与えられています。御父は、御子に言います、『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』(3)そして、人間は御国を御子と共有するように創造されています。これが初めの三つ、聖書の始めにある三つの点です。

先を続けます。次に来るのは、人間が、この御国をサタンに引き渡したということです。人間は、自分が受け継いだものを、悪魔の手に渡しました。こうして、サタンはこの世の君となったのです。そして、この世にある御国は、神の御子から取り去られました。この強奪者が現れて、神の御子がいるべき場所を奪ったのです。使徒ヨハネは言います、『全世界は悪い者の支配下にあります』(第一ヨハネ5:19後半)。これが第四番目です。

さて、五番目です。御子は、受け継いだものを奪われたままでいることはできず、それを奪い返さなければなりません。そのため、神の御子は、御父のそばを離れ、この世に降りてこられました。主は、この御国をご自身へと、また、御父へと買い戻すために来られたのです。神の御子は悪魔の業を滅ぼすために現れました。つまり、御子が来られたのは、神の御国を説くため、御国をご自身と神のもとへと贖うため、そして、人間を買い戻して、御子とともに御国を治めるための器とするためです。キリスト・イエスの中に、また、キリスト・イエスを通して、私たちが永遠の御国、神の御国へと呼び戻されるためです。

マタイの福音書は、神の国について書かれていることが分かります。そして、この第十三章は、神の御国との関わりから言って、特別な章となります。しかし、話をはじめに戻します。神の国は、あるひとつが欠けているために失われてしまいます。ひとつのことのために、私たちはキリストの中に受け継いだものを失う可能性があります。あるひとつのものがないために、すばらしい永遠の王国から得られるる全てのものが、失われるかもしれません。主イエス様は神の御国の全てを、この<<霊的な理解>>というものに集約されます。そして、主は話を進めて、この霊的な理解という問題を、たとえを用いて説明してくれました。主は、この霊的な理解という問題を、一面では何よりも恐ろしいもののように描いています。この霊的な理解がなければ、あなたも、すべてを失うかもしれないと、主は言われます。また一方では、あなたに霊的な理解があれば、それは神の御国への入り口であると、主は言われます。そこで、この種蒔きのたとえになります。このはなしは霊的な理解の意味を平易に説明しています。

主イエス様はこのたとえ話を群衆に向かって語りました。彼らは、おそらく全てユダヤ人であり、旧約聖書の長い歴史を背負っていました。彼らは、旧約聖書にあることをすべて知っていました。モーセが書いたことも全て知っていました。預言者たちが語り、書いたことも全て知っていました。彼らは、旧約聖書を完全に自分のものにしていたのです。それでもなお、主イエス様は、彼らに向かって神の御国のことを、小さな子供に話すように語りました。ある意味、この種を蒔く人のたとえは、小さな子供にも理解できるお話です。子供からすれば、楽しい童話のようなものです。『種を蒔く人が種蒔きに出かけました。蒔いているとき、道ばたに落ちた種がありました。別の種が、土の薄い岩地に落ちました。また、別の種はいばらの中に落ちました。別の種は良い地に落ちました。』この話が理解できない人がいるでしょうか?イエス様が群衆に、『分かりましたか?』ときけば、全員が、『もちろん、分かりました』と答えたでしょう。あなたはどう理解しますか?種を蒔く人が種蒔きに出かけ、種はここに書かれているようになった。しかし、イエス様は言われました、『あなたには分かっていない。小さな子供でも分かる話がわかっていない。』弟子たちでさえ、分かっていなかったのです。イエス様の弟子たちが理解していなかったことを考えてみてください!

今夜、ここにいる皆さんにも、この種蒔く人の例えが理解できるかときいてみれば、『もちろん、分かっています』と答えるでしょう。種を蒔く人が種蒔きに出かけることは、誰にでも分かります。理解しようと努力しなくてもできることです。しかし、イエス様の弟子たちでさえ、理解できなかったのです。彼らは、イエス様のところへ来て言いました、『種を蒔く人のたとえについて説明してください。』彼らが言いたかったのは、『主よ、あなたが言葉にしていないことが多く含まれているのでしょう。話の背後には、何かが隠されていて、私たちにはそれが分かりません。説明してもらえませんか?』そこで、主は彼らに解き明かしをしました。それから、主は尋ねました、『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。』『はい、わかりました。』しかし、この後、イエス様が十字架につけられるまで、弟子たちに理解できていなかったことは明白です。彼らは、自分では真実を理解していると信じているが、実は何も分かっていない、現代人たちと変わりなかったのです。この人たちは、キリスト教の教えをよく知っています。彼らは、新約聖書のあらゆる教義を読んでいます。聖書を持っていて、その中身はすべて、頭の中に入っています。み言葉をどこからでも引用することができながら、彼らには、霊的な理解がありません。そういうことはあり得るのです、愛する皆さん。たくさんの教えを受けながら、少しも理解できていないことがあります。そして、今日のキリスト教におけるすべての問題は、この霊的理解の欠如から生じているのです。

私は、時間をかけて、このたとえを細かく解説するつもりはありません。蒔かれた種がそれぞれどうなったか、主イエスが言われたことはご存知でしょう。しかし、それを詳しく説明する前に、ふたつの一般的な真理のひとつに目を向けてみましょう。

第一に、種を蒔く人は主イエスご自身です。み言葉は主ご自身から来なければなりません。私たちが神のみ言葉から受けるものは、主イエス様から直接、私たちのところに来ます。だから、種を蒔く人は、神の御子であると言われます。種は何でしょう?イエス様は、それを御国のことばと呼んでいます。誰であれ、御国のことばを受けるなら、また、御国のことばを受け取るとき、主イエス様のみ言葉は私たちを、御国へと導くことを目的としています。それが、み言葉のただひとつ目的です。聖書を知ることは非常に良いことではありますが、知ること自体が目的なのではありません。聖書をまるごと憶えて、頭の中に持っていなさいということではありません。それは良いことではありますが、神の目的は、み言葉が私たちを御国へと引き入れることです。

さて、み言葉が落ちたさまざまな地面に注目してください。何種類の地面があるのでしょうか?四種類の地面があると言いたいのでしょう。あなたもそうですか?うなずいていない人もいますが、何かを恐れているのですね!この部屋からつまみ出されのではないかと心配しているようですが、四種類あると言ったら、それは間違っています!六種類、あるのです。これから、そのことをお話しします。当面は、四種類でも、六種類でも良いことにしておきます。この異なった種類の地面は、様々な種類の人々を表しています。

気をつけて欲しいのですが、いろいろな種類の人に対して、同じ主が、同じみ言葉を持って来られるのです。主イエス様は、ある人々が道ばたの地面のようになることをご存じでしたが、「ああ、この人たちはどう見てもダメだ。わたしのみ言葉を伝えるのはやめよう。どうせ、この人たちが大した実を結ばないことは、はっきりしているから、み言葉をあげてむだにするのはやめよう。彼らは、このままにしておこう」とは、言われませんでした。岩地の人たちはどうでしょう?彼らの反応は、よく分かっています。彼らはもちろん、よろこんで受け取ります。彼らは言います、「ああ、これはよい。ここから必ず何かを得られそうだ。」しばらくすると、状況は困難になり始め、迫害と苦しみが生じて、彼らは受け取ったものから目を離します。それで終わりです。イエス様は、彼らのことを、初めからご存知でした。しかし、主は、「彼らにみ言葉を伝えても、時間をむだにするだけだ。彼らに関わるのはやめよう」とは、言われませんでした。それから、いばらの道の人たちについてはどうでしょう?そう、彼らは、この世の問題で頭がいっぱいになっていて、商業主義、すなわち、たくさんのお金を儲けること、できるだけ早く稼ぐことが彼らの関心を占めています。彼らにとっては、利益が全てであり、商売だけに時間を費やしているのです。また、人生の楽しみにしか関心のない人たちもいます。「彼らにみ言葉を与えても、商売や仕事や楽しみのせいで、どこかに詰まってしまう。だから、彼らのために時間をむだにはしない。」イエス様は決して、そうは言われませんでした。主は、こうも言いません、「さて、これは間違いなく良い土地だ。これからは、この土地にだけ、集中しよう。わたしの求めるものを、彼らが与えてくれることは確かだから、わたしも、この人たちだけに心を向けることにする。」いいえ、主はそのようなことは、言ってはいません。

イエス様は、あらゆる種類の人たちに、み言葉をを届けたし、今も届けています。なぜ、そうにされるのでしょうか?今夜、ここにおられる実業家の皆さんであれば、そのようなことはしないでしょう。非常に霊的な人であっても、同じことです。あなたがたは言うでしょう、「それは常識にあわない。利益にならない。その判断は正しくない。絶対に間違いないと思えることだけに集中しよう。信頼できるか分からない人たちのことを、いろいろと気にかけるのは、割に合わない。」しかし、イエス様の感覚は、私たちの感覚とは違います。そして、こここそ、生まれながらの人の理解とは違う<<霊的な理解>>が入ってくるところです。

イエス様はなぜ、このような、世の人々であれば愚かと思うことをされたのでしょうか?理由はただひとつです。主が、ご自身のみ言葉に対する責任を、あらゆる人に負わせたのです。神のみ言葉を与えられたら、それに応じることが私たちの責任です。み言葉を届けたとき、主は責任を自分の手から離して、私たちに負わせたのです。主は、道ばたの人に言います、「あなたも求めれば、良い土地の人と同じだけ受けることができる。」主は岩地の人に言います、「このわたしの言葉は、他の全ての人と同じように、あなたに対しても働く。」主は、いばらにふさがれた土地の人に言います、「わたしのみ言葉は、誰に対しても力強いのと同じくらい、あなたにとっても力強い。」

もし神の御子が、善良な人、立派な性格を持った人、必要なものが備わっている人だけを救うためにこの世に来られたとしたら、あなたはどう思うでしょうか?そして、もし、他の人たちを全て見捨ててしまったら、誰もが同じことを言うでしょう。『それは公平ではないし、正しくもない。私は貧しい種類の生き物としてここにいる。生まれながらの私は、とても貧しい。道ばたの生き物のようなものだ。私には荒れた岩地の心しかない。私は確かに、世を愛するものだ。こんな私には、御国に入る機会はないということだろうか?』こんなことは、ないですよね?

だから、イエス様はみ言葉を携えて来られ、そして、『このみ言葉には、あらゆる種類の人々に対して同じ力がある』と言われたのです。生来の自分の性質が問題なのではありません。ここから、主は本題に入ります。これらのたとえに繰り返し出てくる言葉に気が付きましたか?それは、<<心>>ということばです。心、よい心、<<それは心の問題>>なのであって、あなたの貧しい人間性の問題ではありません。あなたの心がどこにあるのかということだけが問題なのです。あなたには主に捧げる心がありますか?神の御国に向けた心がありますか?本当に、これは心の問題なのでしょうか?あなたに本当に心があれば、それが<<霊的な理解>>につながると主は言われます。そのため、主は、イザヤの預言からこの恐ろしい一節を取り上げています、『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。』この預言者は、この神のみ言葉を民に与えました。み言葉は、毎日、毎週、彼らの前で読まれていました。しかし、彼らには神のみ言葉を求める心がありませんでした。彼らは、心から応えようとしなかったのです。そのため、主は裁きをくだしました。主は、言われます、「あなたがたは自分の目を閉じた。わたしも目を閉じる。あなたがたは自分の耳をふさいだ。わたしも耳をふさぐ。あなたがたは見たいときも、見ることはできなくなる。聞きたいときも、聞くことはできなくなる。わたしはあなたがたから、霊的な理解力を取り去る。」ここには、私たちに向けた警告があります。残念ながら、ときどき、このようなキリスト者に出会います。

若いキリスト者の皆さんに、非常に厳しい言葉を言わせてもらいます。あなたはキリスト者の家庭で育てられたかもしれません。主について、ご両親が教えてくれたことを憶えているでしょう。これまで、会合に連れて行かれたり、日曜学校にも通っていたかもしれない。あなたは多くのことを知っています。そう、あなたは主イエス様を知っています。聖書に書かれていることを知っています。それでも、あなたは主とともに進んではいません。おそらく、あなたはご両親を悲しませています。あなたは、神のみ言葉だけをよろこんではいません。あなたは、神の民のあいだに居場所を定めて、強大な悪の軍勢に対抗するために主を助けに来ている、本当に生きたキリスト者ではないのです。あなたはキリスト者だとしても、名目だけのキリスト者に過ぎません。あなたに何かが起こっているか、あるいは、何かが起ころうとしていて、あなたの持っているものが奪われかけています。あなたは、霊的な理解という力を失っているのです。霊的な視力と霊的な聴力を失いつつあります。あなたは、主の民のあいだで起こっていることをいろいろ見ているのに、あまり関心を持っていません。会合で語られたことを聞いても、どうでもいいこととしか思えません。

そのような若いキリスト者が、たくさんいます。彼らに今、起こっているのは、次のようなことです。彼らは、すべての<<霊的な理解>>を失って、神の御国のすばらしい価値を見失い、神の御子と御国を分かち合い主とともに栄光のうちに君臨することの大切さを見逃す危険にさらされているのです。あなたはそれを見失いかけています。霊的な理解は絶対に必要なものです。<<霊的な理解は、主に向けた心を持つことによって得られます。>>道ばたに落ちたキリスト者、すなわち、心を主に向けていない人たちにはならないでください。ここに、たくさんの力強い可能性を秘めたみ言葉があるのに、あなたに主に向けた心がなければ、何の意味もありません。

あるいは、あなたは、岩地型の人、浅はかな性質で、物事の表面だけで生きている人、何かを聞くと、すぐに反応して、賛同を示すような人かもしれません。ああ、若い人たちが、主にすばやく反応するのは楽しいことではありますが、私くらい長く生きていると、主のことばに即座に飛びついて、「ああ、これこそ、私が求めていたものだ」という人たちの多くは、あまり長続きしないことが分かってきます。彼らは神の御国は、ただ彼らの祝福のためではなく、主の栄光のためにあることを知るようになります。お分かりのように、それが私たちにとってよいものであるがゆえに、祝福を求め、良いものを求めるというのは、キリスト教についての誤った考え方です。私たちは、かつてのペテロのように、「足だけでなく、手も頭も」と求めているのです。ペテロがこう言ったのは、手に入るものは全て欲しいと思ったからです。後に、彼は、全ては主のために備えられていたことを知るようになりました。そして、それに気付いても、彼が失ったものは何もなかったのです。彼が変わって、主だけに捧げる心を持ったとき、彼は御国の豊かさに入ったのです。

ああ、いばらにふさがれた地面はどうでしょう?それは、この世の生活で、立派な職業、商売や役職、よろこびを持っている人たちのことです。そして、こういったことが、彼らの生活において、第一の位置を占めています。彼らの心はふたつに別れた心です。心の一部は主を望んでいますが、大部分では世を求めています。その心は、完全に主だけに向けられてはいません。彼らは御国に入れないという危険にさらされています。主に心を完全にとらえられるまで、私たちは御国の本当の意味を知ることはできません。パウロはエペソの信者たちに、主が知恵と啓示の御霊を与え、彼らの目が開かれるように祈りました。あなたの主に対する反応はどのようなものでしょうか?本当に心から出る反応でしょうか?

さて、あと五分しかないので、何種類の地面があるのかという最初の質問に戻ることにします。あなたは、道ばた、岩場、いばらの場所、そして良い土地の四つがあると言いました。それだけですか?しかし、三種類の良い土地についてはどうでしょうか?主は、良い土地であっても、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶと言われました。つまり、良い土地にも違いがあるのです。そこから、三つの異なった程度の御国が生まれます。百倍の人たちは、そのままでいいでしょう。問題ありません。しかし、六十倍や三十倍の人たちはどうでしょうか?よい人たちではあっても、どこかに問題があるはずです。良い人たちが皆、百倍の実を結ばないのはなぜでしょうか?

そう、主に抗う気持ちが一切ない、良い心を持った人たちがいます。「私には、主のみ言葉はいらない」と言う人たちとは違います。彼らは主に応えますし、それは、心から出てきます。しかし、良い人の中にも、ためらっている人がいます。とても良い人たちがこう言うのです、「全てを主に捧げて生きるようになったら、友人たちは私をどう思うだろう?教会の人たちは、私のことをどう言うだろう?それから、仕事における私の立場も、おそらく、影響を受けるだろう。そこに、よく気を付けないといけない。他の人たちへの影響を失うわけにはいかない。他の人たちが、どう思い、何を言うか、考えておかないといけない。委員会は、私がこうするものと期待している。私が本当に主だけに全てを捧げるようになったら、委員会はひどく怒るはずだ。おそらく、辞任させられることになる。」言いたいことが分かりますか?非常に良い人たちではありますが、彼らは世の考え方に流されているのです。

以前、ある男性と話したのですが、話しているうちに、彼は私が言いたいことが分かったようでした。私が話し終わった時、彼が言ったことはこうでした。「はい、スパークスさん、あなたの言うとおりです。全くそのとおりだと思います。しかし、私が、あなたと同じ道を進むことにすれば、友人たちを怒らせることになるでしょう。そして、主のための活動においても、皆が金銭面での支援を撤回し始めます。ですから、私は、人のことを考え、主の働きのことも考えなければなりません。」とても良い人たち、主に献身的な人たちです。彼らが主を愛していることに疑いの余地はありませんが、このように身を引いてしまうのです。旧約聖書にカレブについて書かれており、彼には人と違う霊があって、そして、完全に主に従っていたとあります。同じ世代の民の中で、彼ともうひとりの男、ヨシュアが、御国へと入っていきました。これが、<<霊的理解>>と言うものの意味です。

私も言います、『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか?』霊的な理解について、あなたがたに話したいことはもっとたくさんあります。しかし、ああ、私に見る目があること、言われたことや行われたことの背後にあるものを見抜いて、主のことばの意味を理解するための目があることは、非常に大切です。あの人たちは、主の言葉を聞き、主の働きを見はしましたが、その意味を理解していなかったのです。そのため、彼らは多くのものを失いました。霊的な理解を与えてくれるよう、主にお願いしてください。そして、理解できなくても、ただ「私には分かりません」と言うだけではいけません。主のところに行って、「主よ、私に理解させてください。私の心の目を開いてください」と願ってください。そうすれば、あなたに主と真剣に向かい合う気持ちがあると示すことができ、あなたが主と真剣に向かい合っていれば、主も、あなたに真摯に語りかけてくださいます。

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