私は、「だれを遣わそう。・・・・」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)
福音の招きは誰にでも、無料で提供されていますが、多くの人は自分のことで手一杯で、聞くことも心に留めることもしません。彼らは、神からの呼びかけが何かを決める理由となることを受け入れません。その結果、自分は神からの呼びかけなど一度も聞かなかったと言いながら、生涯を終えることになります。
答えは明白です。神はずっと彼らに連絡を取ろうとしてきたのに、この世のものを追い求めることに夢中で、彼らの回線はいつもふさがっているのです。
『宗教のことをお話しましょう』というのは、一見すると、親切な申し出のように思えます。しかし、その後で彼らは、『ただし、宗教を個人的なものにはしないでください』という免責事項を付け加えます。ほとんどの人々は、その中にキリストの十字架がないときだけ、宗教を受け入れることで折り合いをつけているようです!
しかし、神が人を、キリストはご自身の死とあがないによって、神に通じるただひとつの道を開いてくれたという信仰へと召されると、世はこの信仰に反感を抱くようになります。アブラハムの時代もそうでしたし、私たちの時代もそうなのです。
主よ、私に語られるあなたの声を聞けるように、自分の通信の回線を、いつも開いておきたいと思います。
『トウザーの朝ごとの祈り』
Mornings with Tozer --- Daily Devotional Readings
A. W. Tozer
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