私の好きな気味悪い一服の絵があるのですが、その絵がこの考え方の理解を助けてくれます。それは、天使と猿が部屋の中に並んで座って、お互いを見つめ合っているという絵です。
天使と猿が、ひとつになることは絶対にあり得ません。どうすれば、そんなことができるでしょう?
もし偉大なる全能の神が、ご自身の栄光と祝福に満ちた天的な性質を天使から取って、猿の中に預け入れたら、猿は飛び上がり、天使と握手してその名前を呼ぶでしょう。その瞬間、二者のあいだに類似が生じるからです。
一方が猿の性質を持ち、他方が天使の性質を持っている限り、この両者には、どこまで行っても不一致しかありません。ですから、どれだけのお金と文化と教育と科学と哲学があっても、この世界は、なお道徳的な猿なのです。聖なる神は、交わりを持つために自分が妥協することはできないし、その人も神を理解することができません。生まれたままの人間は神を理解することはできず、そこに、交わりはあり得ないからです。
神は、キリストの中で動き、十字架で死に、障害物を取り去り、そして今、新生によって、ご自身の輝かしい神としての性質を罪人に与えるので、その人は天を見上げて、人生で初めて、『アバ、父よ』と言うようになるのです。
あの約束に立っている私には見える、
完全で今に続く、血の中で行われたきよめ、
キリストが解放してくれる自由の中に立つ、
神の約束に立っている。
R.ケルソ・カーター(1849~1928)
アバ、父よというこの声は、あなたとのつながりに思いをはせる私の唇に甘く響きます。かつての私は、道徳観を持った猿にすぎませんでしたが、イエス様が私のために十字架で死なれたとき、すべてが変わりました。ほふられた小羊のためにハレルヤ!アーメン。
My Daily Pursuit, Devotions for Every Day
A.W. Tozer
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