私が、自分では乗り越えられないもの、頭を垂れて、日々、ざんげの祈りを捧げるものとは、私自身の不義です。
私は、自分が生まれ変わったことは知っています。自分が天国に向かっていることも知っています。イエス・キリストが、私の多くの罪のために十字架で死なれたことも知っています。
私の心の奥深く、自分の不義に苛立つ気持ちがあります。この聖なるお方をよりよく知るほど、私の不義は恐ろしいものになってゆきます。私が自分自身を、神が見るように見つめ、そして、主の目、その聖なる目を通して私自分を見始めるとき、私は、自分の不義を、神が感じているのと同じように感じるようになります。
振り返ってみると、男も女も祈りの祭壇に来てひざまずき、震え、おののきながら、自分の不義を認めて、その苦しみに涙するのが常であった日を思い出します。
今、そのような光景が見られないのは、私たちが説いている神が、不義を見過ごすことのない、永遠で、厳かにも聖いお方ではないからです。
聖なるお方がご自身を現すことを望まれて、私たちがそのお方を心の目で見るとき、その姿は、私たちを主の似姿に変える強い力となって戻ってきます。
主よ、私の心を悔い改めへと向けてください。
今、自分の堕落を悲しみ、
私自身のそむきを深く嘆くように、
涙を流し、信じ、もう罪を犯さないように。
チャールズ・ウェズレー(1707~1788)
私の罪、ああ、神よ、私の罪はいつも私とともにあります。あなたのもとに近づくほど、私の罪はより恐ろしいものとなります。私をきよめ、大胆に御前に出られる者としてくれた血潮のゆえに、イエス様のみ名をほめたたえます。イエス様の御名を讃えます。アーメン。
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