旧約聖書には、哀れみについての記載が、新訳聖書の四倍もあります。一方、奇妙で驚くべきことに、新約聖書では、旧約に比べて、恵みについて、三倍以上もふれられています。
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したと書かれています(ヨハネ1:17を参照)。キリストは、恵みが流れ出る祝福された管ですが、その意味が誤解されることがあります。残念ながら、非常に多くの人が誤解しています。
よい信仰を持った人たちでさえ、ここを誤解しやすいのです。多くの人々が、これを、モーセは律法しか知らず、キリストは恵みしか知らなかったと言う意味に捉えています。私たちの父たちはそのように教えていないし、清教徒の書物、ジョン・カルビンや有名な信仰復興論者、改革者たちの著作にも、そんなことは書かれていません。
神のみ言葉が、神のみ言葉であるためには、その全てが必要であることは、何度でも繰り返しても言わなければなりません。み言葉の一部分だけ見ることには、その切り出し方によらず、誤解する大きな危険をはらんでいます。聖書を分割、分類しようとすれば、神の考えと願いを誤って解釈する危険に入り込みます。この仕事は、人の心に真実を吹き込む聖霊に任せましょう。
なぜなら、主なる神は良き方だからです。
主の哀れみはいつまでも確かなものです。
主の真実は、どんな時もしっかりと立っています。
そして、時代から時代へと続いてゆきます。
ウィリアム・ケテ(?~1594)
あなたのみ言葉は、ああ、神よ、私を取り巻く生活そのものです。
あなたに祝福された聖霊が私の心を開いて、あなたの優美な恵みで、私のたましいを満たしてくれますように。イエス様の御名によって、アーメン。
My Daily Pursuit, Devotions for every day
A.W. Tozer
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