2017年4月6日木曜日

神前有能[第8日]『だから、こう祈りなさい』(4)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第8日
『だから、こう祈りなさい』(4)


『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。』詩篇103:1

『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』マタイ6.9~13

主は、この最後の部分で、三つのことで神を讃えるように教えています、『国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』この賛美で、国が父のものであり、力は父のものであり、また、栄えが父のものであることをうたいあげます。讃えられるべきこの3つのものは、悪からの解放と結びついています。それどころか、この3つは、主が教えられた祈りの全てとつながっているのです。悪からの解放を祈るのは、御国が父のものであって、サタンのものではなく、力は父のものであって、サタンのものではなく、そして、栄えは父のものであって、サタンのものではないからです。心に留めるべきはここです。すなわち、御国は父のものですから、私たちはサタンの手に堕ちるべきではなく、力は父のものですから、私たちはサタンの手に堕ちてはならず、そしてまた、栄えは父のものですから、私たちはサタンの手に堕ちることはありません。これは非常に力強い動機となります。私たちがサタンの手に堕ちたら、どうして父が褒めたたえられるでしょう?しかし、支配するお方が主であれば、サタンは私たちに何もできません。天の御国は父のものなのですから、私たちはサタンの手に堕ちることはないし、また、堕ちるべきでもありません。


力に関しては、主が言われたことを思いだしてください、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』(ルカ10:19)ここで主が授けたと言う権威は、敵のどのような力をも打ち破るものです。その権威には力があるからです。御国には権威があり、そして、その権威の裏には全てを支配する力があることを、主は私たちに理解して欲しいのです。御国は神のものであって、サタンのものではなく、当然、権威も神のものであって、サタンのものではなく、そして、力もまた、神のものであって、サタンのものではありません。そして、栄えについても同じく、神のものであって、サタンのものではありません。国と力と栄えは全て、神のものですから、神から出た者には、試みから、そして、サタンの手から解き放たれる希望があります。新約聖書においては、一般に、主の名は権威を象徴し、聖霊は力を象徴します。全ての権威は主の名にあり、全ての力は聖霊の中にあります。御国は天が支配していることを示し、それが神の権威となります。御霊は、それを通して神が働く力です。御国は父のものですから、サタンが支配する余地はなく、力は聖霊のものですから、敵にはその力と競うすべもありません。マタイ伝12章28節には、悪霊が聖霊に会ったとたん、追い出されるようすが描かれています。そして、最後に、栄えもまた、神のものです。だからここで私たちは大きな声でうたい、また、高らかにこう讃えるのです、『国と力と栄えは、とこしえにあなたのものです。アーメン。』
 

主は、私たちにこのやり方に沿って祈るように教えています。とは言え、それを形式的に繰り返すのではなく、この祈り方が示す原理に即して祈るように言われているのです。これはあらゆる祈りの土台となります。神のために、私たちは熱心に、御名があがめられること、御国が来ること、そして、みこころが天で行なわれるように地でも行なわれることを願います。また、同じように、御国と力と栄えは神のものであるという事実のゆえ、私たちは神にすべての賛美を捧げます。国と力と栄えは神のものだからこそ、神の御名があがめられ、御国が来て、そして、みこころが天で行なわれるように地でも行なわれるという、このすべてがならなければなりません。国と力と栄えは神のものですから、私たちは日々の糧を、負い目の赦しを、また、試みと悪からの解放を、神に祈るべきです。私たちの祈りは全て、これ手本とすべきです。

この祈りは、『主の名によって』という言葉で終わっていないから、私たちキリスト者に与えられたものではないかのように語った人もいます。そのような考えは、愚か(不合理)なものとしか言えません。ここで主は、形式にそった祈りを教えているのではないからです。それどころか、新約聖書には、『主の名によって』という言葉で終わる祈りなど、ひとつも思い当たりません。例えば、弟子たちが舟の上で主に向かって、『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです』(マタイ8:25)と泣き叫んだとき、そこに、『主の名によって』などという言葉を加えたでしょうか?あきらかに、主はこの言葉をそのまま唱えるように命じているのではなく、ここで語られた原理に沿って、私たちが祈ることを望んでおられます。主は私たちが何について祈るべきか、目の前に並べ(特定し)ますが、そこでこの言葉を繰り返すように求めたりはしません。

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