2017年4月22日土曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第2回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』

フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

会合2 ― 『彼らもわたしたちにおるようになるために』
Meeting 2 - "That They May Be In Us"


第2回会合
(1964年2月2日午前)

ヨハネ
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。


新約聖書を開いていただけますか。初めは、ヨハネの福音書、17章の21節です。この章には、十字架に向かう直前の主イエス様の祈りがありますね。その祈りの中に、イエス様が御父に言った21節のこの言葉があります、『それは、あなた(御父)がわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。』

この最後の一節に、主が、『彼らもわたしたちにおるようになるため』という大切な言葉をさし挟んだ意味に注目して欲しいと思います。では、マタイの福音書、第27章46節を開いてください。『三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。』これは、主が十字架で発せられた事実上、最後の言葉です。この後、主に残されたのは、ご自身の霊を御父に渡すことだけでした。まさしく、『わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』、これが主の最後の言葉となりました。死を目の前にしたイエス・キリストが最後に言ったことであり、ここで主の霊的な生活と経験は大きく転換することになります。イエスはその全生涯を、御父の中で生きました。主は、弟子たちに言いました、『わたしが父におることを、あなたは信じないのですか。』主の生涯で起こったことのすべてが御父の中にありました。主が、御父から離れることを拒んだ例は数多く記されています。


ガラリアの小さな町、カナで、主がはじめの奇跡を行われたことを憶えているでしょう。それは婚礼の宴会で、水をぶどう酒にかえるという奇跡でした。宴会が続く中、用意されたぶどう酒が全てなくなってしまったのです。宴会ではぶどう酒はとても大切なもので、これは非常に困った状況となりました。食卓で隣に座っていたイエス様の母は、主の方を向いてこう言いました、『ぶどう酒がありません!』彼女は、もちろん、主が何とかしてくれると信じていて、自分の息子である御子に状況を伝えたのです。具体的は、彼女はこんなふうに言いました、『何とかしなくてはいけませんよ。このままでは、婚礼の宴会は続けられません。みんなが困ってしまいますよ。』こうなると、主はどうにかしないわけに行きません。

主イエスはなんと言われたでしょう。母の方を向いてこう言いました、『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』ここには二つの点があります。イエス様は、その場の必要を満たすために、何かをすることはありません。何かをして欲しいと誰かが願っていると言う理由では、主はそれをしません。主は、何かを待っています。主は言われます、『わたしの時はまだ来ていません。今はまだ、それをできません。深刻な状況であることは分かっていますが、今はできません。この人たちは本当に気の毒だと思いますが、私には何もできません!』

主はなぜ、このとき、何もできなかったのでしょう?主は御父の中にとどまっており、この地上の世界には生きていませんでした。霊の中で、主はこう言っていました、『父よ、これはあなたの望むことですか?この人たちは困っています。愛する母も、私が何かすべきだと言っています。しかし、父よ、あなたが言われるまで、私は何もできません。』主は、御父の中に生きていました。主が待っていると、御父はこう言ったようです、『よし、では始めなさい。』そして、主は言われました、『水がめを水で満たしなさい。』イエスが御父の中に生きたことが初めて示された場面です。

しばらく後、エルサレムで祭りが催されましたが、イエスと弟子たちはその時、別の場所にいました。主の肉の兄弟たちも一緒でした。ご存知のように、彼らは主を信じていなかったと言われています。兄弟たちは主に言いました、『わたしたちは祭りに行きますから、あなたも行きなさい。皆がこの祭りに上っていきます。誰もがそうするのです。もし、あなた(主)が祭りに上って行かなければ、誰もあなたを理解せず、あなたを非難するから、彼らの心を変えることはできないでしょう。人に好かれたいなら、他人がしているのと同じことをすれば良い。私たちは祭りに上って行きます。』次いで、彼らはイエスに言いました、『あなたも祭りに上って行きなさい。』

イエスはどうしたでしょう?人に好かれるために、何かをしたでしょうか?主は、他の人たちが皆、しているからという理由で、何かしたでしょうか。主が、それが習わしだからと言って何かされたでしょうか?いいえ、主は、肉の兄弟たちの方を向いて、こう言いました、『あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。』こうして、兄弟たちは出発しました。そして、兄弟たちが発ったあとで、イエスも、祭りに行かれました。

さて、これはとても奇妙なやり方ですね。主は、兄弟たちと一緒に行動したくなかったのでしょうか?そのために、心にもないことを言ったのでしょうか?『私は上っていきません。あなたたちが行きなさい。』主は、兄弟たちを欺いたのでしょうか?何故、こんなことを言ったのでしょう。主が御父の中にいたからです。主は、上っていくようにと御父が言うのを待っていました。主は、多くの人が望んでいるからという理由で、何かをなさることはありません。主は、敬虔な人ならこうするからといって、何かをすることはありません。それが習わしだからと言う理由で何かしたこともありません。皆とうまくやって行きたいという理由で何かをしたこともありません。主の生き方を決定するのはただ、『御父が主にそれを望んでいるか』ということでした。ですから、兄弟たちが上って行った後で、主は言いました、『父よ、私が上っていくことは御心ですか?』そして、時が来て、御父が、『今こそ、行きなさい』と、言われたのです。こうして、イエスは上っていきました。このときを待っていたのです。主は、御父に言われるまで、何もすることはありません。

あるとき、イエスは弟子たちに、自分がいずれエルサレムで死ぬことを話されました。するとペテロは、主を引き寄せて、『そんなことが、あなたに起こるはずはありません』と、いさめ始めました。主はペテロの方を振り向いて、言いました、『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』(マタイ16:22、23)もし、御父が、私がエルサレムに上って十字架に付けられるというなら、そのとおりになる。私は自分の命を守るためには、何もしない。

後に、最後のときが近づくと、イエスは弟子たちに、『ユダヤに行こう』と言われました。主を逮捕し、十字架に付けようとする人たちがいたのがユダヤでした。トマスは言いました、『いや、ユダヤに行くのはやめましょう、主よ。ユダヤの人たちは以前、あなたを石打ちにしようとしたではありませんか?そこへ戻るのですか?』イエスは答えました、『私は、御父が言うとおりにします。それが十字架を意味していることは知っていますが、私は父の中にとどまるしかないのです。』

サタンはいつも、イエスを御父から隔て、御父から離れて行動させようと試みました。荒れ野での3つの誘惑は、イエスと父の間に割って入ろうと狙ったものでした。主の全生涯を通して、サタンはイエス様を御父から引き離そうと試み続けました。十字架につけられ、恐ろしい苦しみの中にいた主の足元で、サタンは邪悪な人間の中から、『十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから』と、語りかけました。イエス様は降りてくることはできたのです。主は、この少し前、こう言われています、『わたしが父にお願いすれば、十二軍団の御使いを送ってくださる。』

一人の御使いがどれだけのことができたか、憶えているでしょう。旧約聖書では、一人の御使いが現れて、大群をなす兵士たちを打ち倒しました。ひとりの御使いにそれができたなら、12人の御使いの軍勢はどれだけのことができたでしょう。イエスがただ御父に願うだけで、御使いの軍勢が遣わされて、主を十字架から降ろしていたでしょう。しかし、主は御使いたちを留め置かれました。主はかつて、言われました、『父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう』(ヨハネ18:11)。最後の時が来る前、サタンは主と御父の間に割って入ろうと試みましたが、イエスは神の中にとどまる大切さを、よく知っていたのです。

そして、最後に来て状況が変わりました。『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』イエスは神の外にいます。イエスは神から離されています。主と神の間には大きな隔たりがあります。それまで、このようなことは一度もありませんでした。生涯で一時たりとも、主にはそんな経験はありません。神は今、遠く離れています。御父と御子のあいだは、大きく分断されています。イエスは御父から離されただけではなく、それが意味する恐るべき孤立を知っています。この『見捨てる』という言葉は、実に恐ろしい結末へとつながっています。神に見捨てられたのです。これより恐ろしいことなどありません。たましいの最も恐るべき孤立です。遠く離れ、孤立しているだけでなく、暗闇の中に置かれたのです。

『どうして』という言葉に込められる意味は、『私には分からない、真っ暗闇の中にいる、これはまったく理解できないことだ』という思いです。『どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』それだけでなく、主は絶望的な弱さの中にいました。使徒パウロは言います、『(キリストは)弱さのゆえに十字架につけられました』それは、肉体的な弱さだけでなく、霊的な弱さでもあります。人は主をあざけって、『他の人は救えたのに、自分は救えない』と言ったとあります。ここに多くの真実があります。『いいえ、』主は、自分を救うことはできませんでした。主には、自分を助ける力はなかったのです。完全に弱りきっていて、御自身を救う力など残っていませんでした。

おそらく、あらゆる物事の中で最悪なのは、神の怒りを感じることでしょう。『神はもはや、私を喜んでいない。神は怒っている。周りの全てが、神の怒りを告げている。私は神の御怒りを受けている。』生涯の全てを御父の中で生きてきた方にとって、これが何を意味するか、想像できますか。さて、何故こんなことが起こったのでしょう?

イエスにつけられた名前のひとつが、『最後のアダム』であることはご存知でしょう。これまでのことを説明するためには、『初めのアダム』まで、立ち戻る必要があります。この時、イエス様が十字架の上で味わった全ては、はじめのアダムが人類にもたらしたものです。それは天国で始まりました。サタンが神に反逆したのです。神に謀反を起こす前、サタンは神の中に生きていました。この反逆によって、神の外へと追放されたのです。神の存在だけでなく、神の中の生活も取り上げられました。その瞬間から、サタンは神の外にあり、神とサタンの間には大きな隔たりが生まれました。サタンは暗闇の君主となったのです。サタンは、暗闇の中へと放り出され、神の怒りの元に生きることになりました。

サタンがアダムのもとに来たとき、アダムのいのちはまだ、神の元にあり、神の中で暮らしていました。アダムは、神のうちに生きていました。神の中にすべてを持っていたのです。その後、サタンの誘惑を通して、アダムは、サタンとまったく同じことをしてしまいました。アダムは神に背きました。神に反逆したのです。何が起こったのか、分かりますか。アダムは神から切り離され、はじき出されたのです。彼は、神から隔てられました。アダムのいのちはもはや神の中から失われました。彼は孤独の中へとさまよい出ました。地上はアダムのために、呪われたものとなりました。あらゆる悪しきこと、曲がったことが地上に、はびこり始めました。かつて美しい園だったところが、荒れ野に変わりました。アダムは暗闇の中へとさまよい出ました。

アダムはその後も、神を理解しませんでした。彼は神のことを何ひとつ知らなかったために、完全な弱さの中に置かれ、自分を救う可能性も失われました。人類の父だった彼が、神の御怒りを受け、すべての人間をこの苦境に追いやったのです。アダムの末に属するもの全ては、生まれた時から同じ状態にあります。神の中に生きるとはどういうことか、生まれた時から知っている人はいません。誰もが、自分が神から遠く離れていること、神は自分から遠く離れていることを知っています。そして、この状態に本当に気づいている人は誰でも、自分が絶対的な孤独の中にいることを知っています。

人間は心の中で泣き叫んでいます、『ああ、かつては私は神がどこにいるかを知っていた。今は、神から遠く離れて、ここにいる。荒れ野にいるかのようだ。ここは暗闇だ。私には、神が全く分からない。人生は苦しみばかりで、誰も何故なのか教えてくれない。何故こんなことが、あんなことが起こるのだろう?考えようとしても、闇の中にいる取り残されるばかりだ。そして、神は私に敵対しているようにしか思えない。』これこそ、アダムの反逆がもたらした人類の姿です。人と世は、神から離れたのです。

ここで、十字架の本当の意味を考えてみましょう。最後のアダムであるイエスが、初めのアダムと置き替わります。アダムが人類にもたらしたこの状態を、主が自分の身に負われます。アダムは、神のいるところから離れました。アダムは、いのちの場所から、闇に光さすところから外へ出てゆきます。かつてアダムが置かれたここは、今、私たちがいる場所でもあります。全てが、この言葉につながってゆきます、『どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』この問いへの答えは、神へと戻っていく道を開くためです。

愛する友よ、このような世界に生まれおちたことを、あなたも私も認めなければいけません。生まれたときから、私たちのいのちは、神の中にありません。私たちは神から離れています。私たちには、自分を救う力はありません。私たちには、神なるものを理解する力はなく、御怒りを受ける子どもですが、主イエス様はそのすべてをご自分の身に負われたのです。

そしてここで、マタイの福音書の第27章から28章に移りましょう。28章は復活の章です。27章は、墓に封印をした章であり、封印の歴史です。復活の章には、神への回帰があります。イエス様の復活の全てが、主は御父の元に帰ったことを物語っています。苦しみの物語は終わったのです。主は今、御父から離れてはいません。主は.父の御胸に戻りました。そして、十字架での主が、あなたや私、全人類を象徴していたとすれば、復活における主は、主を信じる私たち全てを象徴しています。これは新しい見方ですが、ここで強調したいのは、この小さな言葉ひとつです。主は、私たちを神に近づけただけではなく、私たちを外から神と結び合わせただけでもありません。すばらしいのは、主が私たちを神の『中へ』と引き入れたことです。今、私たちの居場所は、神の中にあるはずです。だからこそ、はじめにヨハネ17章からこの一節を読んだのです、『それは、あなた(御父)がわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。』

主の子供として生まれ変わった私たちのいのちは、神の中のいのちでなければならず、神と並んで歩くだけではなく、神の中で生きる人生です。神とは、私たちのいのちが存在するところです。神にある全てが、私たちの住む世界です。この点を理解していただきたいので、がまんして聞いてください。これが分からないと先に進めないからです。この会場のどこかにも洗礼堂があると思います。あなたが洗礼を受けたとき、洗礼堂に入ってきて、水のほとりに座っただけではなく、おそらく、できる限り水に近づいて、水に手を入れてみたのではないでしょうか。私は洗礼の水のもとに来たと言葉にしただけでなく、水の中に入ったのです。洗礼を受けたとき、全身が水に浸けられ、水の中に沈みました。キリスト者の生活とは、神のみそばに来て生きるというだけではありません。キリスト者は神の中で正しく生きるよう召されています。

さて、次に言いたいのは、キリスト者たちが御霊をいただいていることです。なぜ、御霊が与えられたのでしょう?何故、あなたは御霊を受けたのでしょう?何故、御霊は私たちの中にいるのでしょう?それはただ、神の中に生きることの意味を、私たちに教えるためです。すなわち、何が神の中にあり、何が神の中にはないかを理解させるためです。もし、私たちの中に御霊がおり、その御霊を感じることができるなら、何か正しくないことを言ったときは、御霊が教えてくれます、『これは主が語る言葉ではない、あなたが言うことだ。』間違ったやり方で何かをしたとき、御霊がこう言います、『それは御父ではない、あなただ。それは父のうちにはないことだ。』こうして、私たちを教え、何が神のうちにあり、何が神のうちにはないかを知らせるために、御霊が遣わされたのです。

自分の中に生きながら、神の中にも生きることはあり得ません。イエスは言います、『私が父の中にいるように、あなたも私の中にとどまりなさい。』私の中にいるという言葉の中で、主は、私が父から全てを受けるように、あなたも全てを私から受けなさいと言っています。

さて、悪魔の大きな働きがどこで行われるか、お気づきでしょうか?第一に、神と人の間に入ってきます。人生の中で神から来ていないもの全ては、悪魔から来るものです。はじめに天で、次いで地で行われた、悪魔の大きな働きは、分裂をもたらすことでした。神に関わることで起こる分裂は全て、悪魔からきています。神からではありません。主の人々の中に起こる分裂は、決して神が起こされることはなく、全てが悪魔のすることです。そして、分裂は必ず、それをもたらす者が、神の外で生きてきたために生じます。その人たちは、おそらく、自分自身の中に、また、自分が欲しいもの、自分が考えることの中に生きてきたのです。あるいは、彼らは世に触れてきたのかもしれません。この世ほど、主にある人々の分断の元となるものはありません。あるいは、他の誰かの中に生きてきたということかもしれない。私たちは確かに、人の中に生きることがあります。人の中で生きることには、気をつけてください。その人はあなたを心をくじけさせます。そこには、遅かれ早かれ、必ず分裂が訪れます。どれほどすばらしい人、どれだけ立派な説教師や教師であろうと、決して、人間を自分のいのちとしないでください。そうすると、いずれは自分が主から離れていることを見出すはずです。この結果は分裂です。これこそ、主の敵がいつも狙っていることです。ですから、神の中にとどまり、主イエス様がいつもしたとおりに行ってください。『父よ、これはあなたの望むことですか。父よ、これがあなたの願いですか?父よ、これがあなたの道ですか?これをすべきか、あれをすべきか、私は激しく葛藤しています。一方から見ると、これこそ私のすべきことであるように見えます。しかし、父よ、それだけでは十分ではありません。私は、生まれつき、暗闇の子供です。父よ、これがあなたの望みなのですか、そして、今すぐこれが為されることを望んでおられますか?』私たちは、主から答えを受けなくてはなりません。そして、主イエスと同じように、主が語られるまで、待たなければいけないこともあります。

さて、主が十字架に臨んだのは、神と私たちの間を隔てるもの全てを破壊するためでした。主イエス様の復活は、神の中へと戻る大いなる動きでした。新約聖書は、これを踏まえたうえで読まなくてはいけません。使途行伝を開いて、それがどういうことか見てみましょう。ペテロには困ったところがありましたね。彼は、異邦人たちを汚れた者たちと呼び、彼らのところに出向いて食事するなど間違いだと考えていました。それは受け入れがたいことだったのです。彼はこう言いました、『主よ、これはやめてください。今まで、こんなふうにしたことは一度もありません!』このとき、ペテロは宗教的な考え方の中にとどまっていました。御霊が語りかけます、『気をつけなさい、ペテロ。あなたは確かに信仰を持った人ですが、習わしと神のどちらを求めるのですか?』ペテロは、その意味を理解し、神にとどまりました。ペテロは、一度もしていないことをせざるをえなかったのです。ここから、多くのものが広がっていったのではないでしょうか。

私は、霊的な生活の最も大切な法則を広めようと試みてきました。皆さんにぜひお願いしたいのですが、自分のいのちが神の中にあるように求めてください。この世のもの、人、場所、社会の中でなく、議論、人間の知性の中でもなく、神の中です。神の思いは、私たちの思いとは異なります。『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな』(箴言3:5)。復活によって、私たちは神の『中へ』へと戻る道に返されたのです。

これが意味するもの全てを、学ぶことができますように。これは人生全体を通して学び続けることです。主の助けがありますように。


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【訳注】T・オースティン・スパークスの1964年のメッセージ集、『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』より、第2回の翻訳です。原文は下のリンクで読むことができます。

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