2018年3月4日日曜日

神前有能[第26日]祈りの戦争

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第26日
祈りの戦争

私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(第2コリント10:4)

神が私たちのためにしてくれたことを、今、私たちは理解しているでしょうか?エペソ書の初めの章で、こう語られています。すなわち、キリストは天に昇られ、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。第2章にはいると、私たちが今や、主とともに、天の所にすわっていると、続けて語られます。これは、教会もまた、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれていると、言っているのと同じです。これが事実であることを、神に感謝します。キリストが、今、すべての上にある天におられるのですから、今日の教会もまた、すべてのはるか上に置かれています。主が、全ての霊的な敵対者より、はるか高いところにおられるように、教会も、全ての霊的な敵対者よりも高いところにあります。全ての霊的な敵対者を、天に昇られた主が凌いでいるのですから、主とともに天に昇った教会も、この霊的な敵対者を凌駕しています。このようにして、全ての霊的な敵対者は、教会の足の下に服従させられています。


エペソ書、1章、2章、そして、6章のつながりに注目しましょう。第1章では、キリストの中の私たちの立場、第2章では、キリストの中における教会の立場、そして、第6章では、今やキリストの中のこの立場にある教会が何をすべきかが示されています。第1章は天におられるキリスト、第2章は天の所でキリストともに座している教会のこと、そして、第6章では、霊的な戦争について語られています。神は教会を、天の所でキリストとともに座らせ、そこで、座るだけでなく、立つこともできるようにされました。すなわち、第2章が、『座る』ことを語っているのに対し、第6章は、『立ち向かう』と言っており、これは、天の所で立つことを意味しています、『主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・・また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように』(6章12、13節)。私たちの戦争は、もろもろの悪霊に対するものですから、これは霊的な戦争です。

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、・・・私のためにも祈ってください』(エペソ6章18節、19節前半)。これは霊的な戦争の祈りです。この種類の祈りは、普通の種類の祈りとは違う性質のものです。普通の種類の祈りは、地上から天に向かって祈りますが、ここで語られている種類の祈りとは、天の所に立って、天から地上に向けて祈られます。権威ある祈りは、天から発して、地上に届きます。短くいえば、権威を持った祈りは、天から地へと祈るものです。

祈り方を知っている人は誰でも、上に向けて祈るとはどういう意味か、そして、下を向いて祈るとはどうどういう意味かを知っています。下を向いて祈ることを学んだことがない人は、権威ある祈りにまだ、出会っていません。霊的な戦争においては、このような下に向けた祈りが、何にもまして大切です。下に向けた祈りとは何でしょうか?それは、キリストが私たちに与えてくれた天の所に立ち、その権威を用いて、サタンの全ての攻撃に対抗することです。この対抗は、神が命令されたことは何であっても必ず実現されると言い渡すことによって行われます。たとえば、私たちが何か、特定のことについて祈っていると、想像してみましょう。神の御心が何かを悟り、神が命令したことをはっきりと理解したら、その後は、もはや、このように祈るべきではありません、『おお、神よ、このことをしてくださるようお願いします。』反対に、こう祈るべきです、『神よ、あなたは、このことをなされるはずです。それは、このようなやり方で行われるはずです。神よ、このことは、このようにして為されるはずです。』これが命令する祈り、権威を持った祈りです。

『アーメン』の意味は、『そうなるように』ではなく、『そのようになるでしょう』ということです。私があなたの祈りに対して、アーメンという時、私は、そのようになるはずであること、必ず、あなたの祈るとおりになることに賛同しています。これが、言い渡す祈りであり、信仰から出てくるものです。私たちがそう祈ってよい理由は、天の所にいるからです。私たちは、キリストが天に昇るとき、この天の所に移されます。キリストが天にいるのですから、私たちも天にいます。キリストが死んで、よみがえったときと同じように、私たちもまた、死んでよみがえりました。私たちは、教会が置かれている天的な地位を理解すべきです。サタンは、その業をまず、できる限り、私たちの天的な地位を失わせることから始めます。天の所とは、勝利の場所だからです。その場所にいる限り、私たちは必ず勝利します。しかし、サタンによって、天から引きずり降ろされたら、私たちは敗北します。

勝利は常に、全てに勝る天の所に立つことによって得られます。サタンはあなたを誘惑して、『あなたが立っているところは地だ』と語りかけ、それに対して、『いかにも、私は地上にいる』と、答えれば、あなたは敗北します。サタンは、このような敗北に乗じて、あなたを苦しめ、自分は本当は地に属していると信じ込ませようとたくらみます。しかし、あなたが立ち上がって、『キリストが天にいるように、私も天にいる』と言い返せば、あなたは、天にある自分の地位を堅め、勝利を得ます。だからこそ、自分がいるべき場所に立つことは、きわめて大切なことです。

神のもとに、勝利者たちが集うためには、そこに祈りの戦争がなければなりません。私たちは、何か問題にぶつかった時に限らず、周囲で何があろうと常に、サタンと闘わなければなりません。そこで起こっていることを、私たちは、御座を通して支配しなければなりません。誰も、祈りの戦士とならずして、勝利を得ることはできません。人が、神の前に、真の勝利者となるためには、権威ある祈りをすることを学ばなければなりません。

教会は、権威ある祈りを用いることによって、地獄をも支配できます。キリストは、あらゆるものよりはるかに高いところにおられ、教会のかしらでもあるので、教会は悪霊たちだけでなく、サタンに属するすべてを支配する力を持っています。教会に悪霊たちを支配する権威を与えられていなかったら、すなわち、主がその権威を与えていなかったら、どうして、教会が地上に存在していけるでしょう?教会が生きているのは、サタンの全ての軍勢を超える権威を持っているからです。霊的な者であれば、権威ある祈りを使えば、悪霊に対抗できることを知っています。私たちは、主の御名によって汚れた霊を追い出すことができます。悪霊のひそかな動きを、祈りによって封じ込めることもできます。

サタンの策略は、多岐にわたります。サタンの手の内にいる悪霊たちは、外から見えるところで人を捕らえるだけでなく、人目につかないところでも、いろいろなかたちで働きます。サタンはときに、人の心の中で働いて、そこに、疑い、恐怖、不信仰、失望、想像や歪曲といった多くの曲がった考えを注ぎ込んで、人をだまし、心を乱そうとします。また別のときには、サタンは誰かの言葉を奪って、新しい考え方をでっち上げ、それを他の人の心に注ぎ込んで、巧みに分断し、かく乱させます。私たちは祈りを用いて、悪い霊たちが行うあらゆる種類の動きを封じ込めなければなりません。会合において祈るとき、また、交わりの中では、はじめにこう宣言するといいでしょう、『主よ、全ての悪い霊を追い払い、この場では、何もできないようにしてください。』

あらゆる邪悪な霊が、教会の足の下に服従させられていることは事実です。教会が祈る権威を用いれば、悪霊でさえ、その足元にひれ伏します。権威のある祈りとは、普通に何かを頼むこととはまったく違います。それは、命令する権威を行使することです。権威を持って口にすることばとは、こんなふうに言い渡す祈りです、『主よ、私はこうするつもりです』、『主よ、私はこれをするつもりはありません』、『主よ、私はこうします』、『主よ、私はこれをしません』、『主よ、私はこれを聞くと決めています』、『主よ、私はこれを絶対に許しません』、あるいは、『主よ、あなたの御心だけがなりますように、私は他に何も欲しくありません。』この権威を用いるとき、私たちの祈りは目的を達成します。教会で、このように祈ることを学ぶ人が多くなれば、それだけ、教会の中のたくさんの問題が容易に解決するでしょう。教会の責務を、私たちは祈りを通して支配し、管理すべきです。

キリストがすでに天に昇られたことをはっきりと理解しなければなりません。そうしなければ、私たちには、相手を動かす力はありません。キリストは今では、全てのもののかしらであり、全てのものは、主の足もとにあって、その支配の下に置かれています。キリストは、教会にいたるすべてのものの上に立つかしらです。教会を助けるために、キリストは、すべてのもののかしらとなられています。そして、キリストが、教会にいたる全てのものに上に立つかしらであるがゆえに、全てのものは必然的に、教会の下にあります。このことを霊的に理解しておくことが必要です。

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