2018年3月28日水曜日

神前有能[第30日]祈り会(一)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第30日
祈り会(一)

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)

何かが成しとげられるため、また、最大限の力を得るために、祈り会は、もっとも大きな助けとなります。祈り会は、霊的な力強さの最良の計りとなります。たくさんの兄弟姉妹が来ること、そして、多くの祈りの課題が寄せられることを、私は願っています。


あらゆる教会の会合と同じく、祈り会において、ひとつに集まったいのちがキリスト者の霊的な生活を助けるだけではなく、キリストの御体のいのちもそこに現れます。聖徒たちの集まりを見逃してしまえば、このいのちをも見逃すことになります。そうなったら、大きな失敗です。

祈り会ではまず、祈ろうとするものごとについて語り、説明するべきです。あまり多くを話し過ぎるのはよくないことです。何かについて語り始める前に、そのことを先に家で祈っきたかどうか、自分の心にきいてみましょう。家でそのことを祈っていなければ、それを持ち出して、兄弟たちを欺いてはいけません。家では祈っていない問題は、何であれ、そこに、祈る必要も、祈る価値も見出せません。これが原理であり、法理です。個人的に祈っていないことは、群れ全体で祈る必要もありません。一人で祈った後も、個人的な祈りだけでは不十分であったという感覚が消えずに残っている場合に限り、そのことを祈り会で人に語ることが許されます。

祈り会で捧げられる祈りは、神にもっとも良く聞かれるものであり、また、もっとも聞かれない祈りでもあります。個人的な祈りもよく聞かれますが、集団でする祈りのほうが、もっとよく聞いてもらえます。人々はよく、祈り会の中で、感傷的なことばを使って、自分の気持ちを表しますが、自分の隠れた部屋では同じことはしないものです。よくあることですが、彼らは祈り会では、多くのことばを並べて、たくさんのことについて祈りながら、自分の部屋では決して同じことをしません。これは、すべきではないことです。実際に、自分だけの奥まった部屋で重荷として祈ってきたことでなければ、祈り会に持ち込んで、祈ってもらうべきではありません。重荷のない祈りを言葉に出すべきではありません。それは、神には聞かれないからです。あなたが心の内側で感じる祈りは、神も感じています。祈り会の場で、重荷を抱えながら、心をひとつにして捧げられる祈りの力の大きさは、一人だけでする祈りをはるかに超えるものです。もしそうでなかったら、人が集まった場所で祈ることには、大した意味はないでしょう。信じる者たちが心をひとつにして、何の不一致もなく捧げられた祈りには、もっとも大きな効果があります。神は間違いなく、そのような祈りを聞かれます。これゆえ、祈りを私たちが口に出すとき、その言葉が真実であることが大切です。

長すぎる祈り、多すぎる祈りをしてはいけません。祈りとは、網を投げるようなものだと言われますが、まったくその通りです。とはいえ、その網を投げる者は一人ではありません。まだ何かが、祈られずに残っていると感じるなら、そこであなたがすべきは、他の誰かを立ち上がらせて、そのことを祈らせてくれるよう、神にひそかに求めることです。イングランドにいたころ、キリスト者の友人が、ある祈り会のはなしをしてくれました。そこに、たくさんのことを祈る兄弟がいました。この人は、自分が長く祈りすぎていて、もうやめるべきだと感じていました。それでも、彼はまだ、祈るべき課題が多く残されているという気持ちも持っていました。一方で、彼は、自分が祈ることをやめれば、他の誰もその祈りを続けてくれないのではないかと恐れていましたが、他方では、これ以上、祈りを続けて、一人で時間を独占してしまうことも危惧していました。それでも、他の人々のことを考慮して、彼は他の兄弟に祈ってもらうことに決めました。そして、彼は心の中で静かにこう祈りました、一人の人間としての私は、この会合の中で十分、長く祈ってきましたから、主よ、私の祈りを続ける兄弟を決めてください。彼が人前での祈りを終えると、他の誰かが実際に彼の祈りを引き継ぎ、そして、祈られるのを待っていた他の全てのことについても祈りました。ですから、あえて言いますが、あなたがどれだけ強く、良く、また、豊富な思いを持っていても、やはり、会合では他の人を立たせて祈らせてくださるよう、神にお願いすべきなのです。神はこの願いに応えてくれます。この方は生ける神だからです。祈り会においては、他の人たちにも祈る機会を与えるべきです。こうして、私たちは心をひとつにして、生きた祈りをすることになります。

時々、神は兄弟姉妹たちの中の一人を用いて、彼らに向かって語りかけます。祈る経験を積んだ者なら誰でも、必要なものを表す適切な言葉を見つけるのが、どれだけ難しいことかを知っているはずです。同じことを数人が祈ったのに、その重荷が消えないことはよくあります。ですから、祈りの中で、私たちの重荷を表現する言葉を与えてくださいと、神に頼んでみましょう。私たちの中から、神の考えを表わすことのできる誰かを選んで立たせてくださるようにと、主にお願いしてください。あるとき、ひとつの課題のために十人が声を合わせて祈り、そして、全員が心を込めて祈ったとします。それでもなお、彼らの間の誰も、的を射抜く祈りをしていないと、その場にいた皆が感じています。突然、一人の兄弟が祈り始め、彼が核心をつくような祈りをします。その場にいたすべての人が、まさしくこれだと感じ、全員がアーメンを言います。これが、御霊の中での祈りです。参加している全員に向かって、自分の心の中の必要を言葉で表現できるものが一人もいなければ、その祈り会は失敗です。一方、参加者たちが、午後7時から7時半まで祈り、それだけで、重荷が取り除かれたと確信できる状態に至ったら、それ以上の祈りは必要なく、全員が家に帰ってかまいません。聖霊のことばは、人を通して、聖霊によって語られて、神の思いを表します。そのような祈りは、完璧で全てに勝るものです。

1926年、私は福州で重い病気にかかりました。体全体が紫色になっていました。三人の兄弟と一人の姉妹が、部屋まで私のために祈りに来てくれました。始めの一人は、涙とともに祈りましたが、私は心を動かされませんでした。二人目は、熱心に祈りましたが、それでも私は、何も感じませんでした。三人目は、祈りの戦士として知られた人でしたが、彼の祈りも役に立ちませんでした。四番目に祈ったのは、その姉妹でした。彼女は口を開くと、こう祈ったのです、『ああ、神よ、よみにいる者たちは、あなたをほめたたえることができませんし、あなたも、よみにいる彼らにほめたたえて欲しいとは望まれません』(参考、詩篇115篇17節、6篇5節、イザヤ38章18節)。私は即座に、まさしく、これだと感じました。祈りがまだ終わらないうちに、自分がすっかり、よくなったことが分かりました。重荷は取り除かれ、病いは癒されました。その日の午後には、私は寝床から起き上がり、次の日になると、主の働きのための旅路についていました。ですから、祈り会では、私たちを送話口のように用いていただき、そうして、私たちが聖霊の言葉を口から出して、今、兄弟姉妹たちが抱えている重荷と必要を表すことができるように、神にお願いしましょう。

それから、最近、閉幕したある大会での出来事にも触れたいと思います。聖徒たちが集まるこの会議は、主の日である1月20日に始まりました。17日に開かれた祈り会で、私たちは、ビクトリー・カンファレンスと呼ばれるこの大会のために、特別の祈りを捧げました。多くの兄弟たちが、たくさんのことについて熱心に祈り、私も心底から、アーメンで応えました。それでもなお、何かが必要であるという感覚が消えず、ことばに出されていない重荷が残っていると感じていました。後に、一人の兄弟が口を開いて、こう祈りました、『ああ、神よ、私たちのために天候を整え、寒すぎず、雨も降らず、雪も降らせないでください。それから、私たちが静かに集えるようにもしてください。』その祈り会にいた人々は誰もが、即座に心に訴えるものを感じ、そこに響いたアーメンの声は他のどの祈りよりも大きなものでした。さて、この大会が開始される前、天気はあまりよくなかったのです。祈りの時間がもたれる夜でさえ(木曜)、雪が降り続いていました。しかし、大会前日の金曜になると、雨も雪も止まりました。次に雨が降ったのはいつでしょう?大会が閉幕した次の木曜でした。大会の開催期間を通して、雨は一度も降りませんでした。それに加え、私たちが集った小道では、ある家族が葬式を執り行っていました。大会の前日の土曜、彼らは葬礼の儀式を開き、その間、ずっと、大変な騒音を立てていました。しかし、二日目には、それをやめました。そして、この大会が終わった後で、彼らは、葬儀の式典を再開し、大きな騒音もまた、鳴り響きました。この葬儀が大会の間も続いていたら、私たちは静かに会合を持つことなど、とてもできなかったでしょう。

このように、祈り会においては、人々に聖霊の送話口になってもらうことが必要です。私たちの中にそのような人たちがいたら、何の困難もないでしょう。私たちにとって一番、難しいのは何が必要なのかを知ることではないからです。重荷が取り去られた時こそ、なすべき仕事が片付いたのです。

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