2018年4月1日日曜日

神前有能[第31日]祈り会(二)

ウォッチマン・ニー
神前有能
第三部、神がたまわる力

第31日
祈り会(二)

ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。(第一コリント14.40)

祈り会は、大切な会合です。どの会合も、それぞれ独特の性質を持っています。地上にいる私たちに、神が守って欲しいと望んでいる証しは、福音を伝えること、パンを裂くこと、そして、ともに祈ることの組み合わせによって達成されるものです。祈り会は、困難なものにも、簡単なものにもなります。新しい信者たちは、この祈り会という会合について学ぶ必要があります。


一.心をひとつにして

ともに祈る兄弟姉妹たちにとって、根本的に必要なのは、心をひとつにすることです。主は、マタイ伝18章で、私たちは地上で一致していなければならないと語っています。五旬節の前とその当日、百二十人の信者たちが心をひとつにして祈りました(使徒4章1~2節)。ですから、祈り会の第一の条件とは、心をひとつにし、思いをひとつにすることです。一人ひとりが自分だけの思いを持っていたら、祈るために集まることなどできるでしょうか?マタイ伝にある、『こころを一つにする』という言葉には、非常に大きな重みがあります。主はこう約束されます、『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、・・・それをかなえてくださいます』(19節)。『心を一つにする』に当たるギリシャ語の単語は、音楽では、和音を示すために使われています。一人で演奏しているなら、何の問題もありません。しかし、3人が一緒に演奏し、一人がピアノ、一人がバイオリン、そして、一人がフルートを演奏しているとき、その中の一人が外れた音階で演奏したら、その結果はただの騒音になってしまいます。これと同じように、私たちの祈りも、互いと調和していなければなりません。お互いの心を一つにすることができれば、神は私たちが求めることを、何でも聞いてくれるでしょう。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。基本的な条件とは調和です。ですから、私たちは、互いに調和を保つことを学び、それぞれが自分だけの望みによって祈ることのないようにしましょう。

二.明白な要求をもって

調和というこの目標はどうしたら達成できるでしょう?多くの祈り会で、祈って欲しい項目が多すぎることが最大の問題になっているのを、私はよく目にします。祈るべき課題があまりに多すぎる場合、調和に至ることが非常に難しくなります。私たちも、五十も六十も祈りの題目を持ちよれば、そこに、不一致が生まれます。それでは、何をしても許される会合になってしまいます。聖書の中で、そのようなことは行われていません。そこにあるのは、常に、明白な何ごとかについての祈りです。たとえば、ペテロが牢獄につながれているあいだ、教会は彼のために祈りました。私たちも、多くのことについて祈るのではなく、むしろ、一つの特定の問題について祈るべきです。題目が一つしかないとき、心の一致を得るのは容易いことです。あまりに多くの項目がありすぎると、私たちの祈りは日常作業のようになってしまいます。

多くの場所で、祈り会は、抜本的な変革が求められていると私は思っています。ひとつの祈り会を、ただひとつの目的のために行うようにしてみましょう。失業している兄弟姉妹や、病いの床にある人たち、貧しい人たちの中から、一人だけを選び、ただその人のために祈るのがいいでしょう。課題がひとつだけであれば、心をひとつにすることは容易です。

ひとつのことで祈りが終わった後で、まだ時間があったら、そこで初めて、別の問題についての祈りを口に出すことが許されます。私たちは、神の前に祈りの働きをしなければなりません。祈り会を二つの部分に分けて、それぞれの部分でひとつのことを祈るのもいいと思います。二つの課題について同時に祈ると、そこにいる人たちは、心を一致させることが困難になります。ですから、よく考えもせず、開始に当たって、二つの祈りの項目を発表してはいけません。責任を負った兄弟に、一度にひとつのことだけを発表してもらいましょう。私が思うに、祈り会に求められているのは、要求を単純にすることです。祈りの目的とは、いろいろなことを成し遂げること、それを完了させることです。社会的な理由ではなく、人を喜ばせるためでもありません。ですから、祈りの目的になんでも含めてよいというわけではありません。

使徒行伝の一章と二章で明白な目的をもって唱えられた祈りの力が、五旬節を生みました。十字架が神の御子によって成しとげられた働きであったように、五旬節は神の子供たちの祈りを通して成しとげられた働きです。これはどのようにして、達成されたのでしょう?心を一致させて祈ることによってです。私たちも、ばらばらのままではなく、気持ちをひとつに集中させて祈ることにしましょう。

祈り会に出席する人は誰でも、心の中の信仰を整えてから来るべきです。可能であれば、兄弟姉妹たちは、祈りの課題を、前もって知らされていることが望ましく、それによって、その課題を自分の重荷と感じることができます。

はじめに必要を感じ、それから、それを重荷として受け取り、最後に求めることです。

三.現実性の中で

祈り会での祈りに、基本的に必要なものがもう一つあり、それは、現実的であること、純粋であることです。私の個人的な見解ですが(あえて誇張はしません)、祈り会で口に出されるすべての言葉の半分は偽物であると判断せざるを得ません。多くの祈りの動機は、神が聞いてくれるという期待ではなく、人の賛同を求める気持ちにあります。自分の祈りが、聞いた人たちを喜ばせればよく、神が祈りに応えるかどうかはどうでもいいことになっています。その結果、祈り会におけるその祈りは、仰々しいだけで、中身のないものになります。

真の祈りとは、心の願いから生まれるものであり、頭の中にある想像からではありません。真の祈りは心が感じていることの表現ですから、心の奥底にある切望から生じるものです。この理由から、旧約聖書の中の祈りは、神に香料として捧げられました。

旧約聖書のすべての香料は木から作られました。若枝を切り落とすと、樹からある種の樹脂が滲み出し、香料はこれをもとに製造されました。すなわち、祈りとは、すでに手の中にある何かを捧げることではなく、心のもっとも深い奥底から引き出したものを指し示すことです。これは傷口から滲みだすものに似ています。そのような祈りは、多くの者たちが捧げる気軽な祈り、耳には心地よいが、中身はとてもありきたりな祈りとはまったく違うものです。私たちの祈りは、神に聞いていただくためのもので、兄弟姉妹たちの耳を楽しませるためではないことを、よく覚えておきましょう。

祈り会の祈りが、現実性を欠いていたら、教会が強くなることなど、とても期待できません。教会が強くあるためには、祈り会が強くあらねばなりません。祈り会が強くなるためには、すべての祈りが現実的なものでなければなりません。私たちは、祈りを不誠実なものにすることは許されません。神は決して、偽りに報いることはないからです。

祈りとは、何かを説くことではなく、説教することでもありません。神の前に願うことです。ですから、あたかも、神がそこで起こっていることを何も知らず、あなたが今の状況を詳細に伝え、諭す必要があるかのように、多くの言葉を並べ立ててはいけません!

私たちが祈るのは、必要なものがあるからです。私たちは、弱さがあるがゆえに祈ります。私たちは、霊的な供給と力を受けるようになります。

自分の必要がどれだけ大きなものかを感じ取ると、それに応じて、その必要が広がっている隅々まで、私たちは現実の中で祈ります。まったく必要を感じなければ、私たちの祈りは絵空事のようになっていくはずです。

偽りの祈りをしてしまう根本的な原因のひとつに、祈る者がただ、その場にいる他の人たちを忘れられないことがあります。いつも、人のことを気にかけているため、この祈り手は、祈りの中で不誠実になりがちです。このため、祈り会での祈りは、一方では、集会全体の気持ちを代表するものでありながら、他の面では、自分は神と二人だけで向かい合っていて、本当に必要なものを求めていることを忘れてはいけません。

要求が明確であるほど、祈りも確実なものになります。主イエス様が使われたこのたとえ話を思い出すのではないでしょうか。思いがけない友人が不意に現れ、彼に食べさせてやるものが何もありません。そこであなたは、ほかの友だちのところに行き、パンを求めます。この場合、何が必要なのかは、はっきりしています。『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます』と、主イエス様は言われます(マタイ7:7)。本当に必要なものがあるときには、あえて不注意な行動はしないでしょう。あなたが求めれば、それは与えられると、主は約束されています。

四.簡潔さをもって

祈りは、現実的であるだけではなく、簡潔であることも必要です。聖書に記録された祈りのほとんどすべては、非常に簡潔です。マタイ伝6章にある、いわゆる主の祈りは、とても短いものです。ヨハネ伝17章に残されている、旅立たれる前の主御自身の祈りは長く思えますが、それでも、今日の神の多くの子供たちの祈りに比べれば、ずっと短いものです。使徒行伝4章に見られる教会全体の祈りでさえ、簡潔なものです。エペソ書1章の祈りは、非常に大切な祈りですが、それでも、五分とかからずに詠み終えることができます。

祈りは長いほど、大げさで空疎なものになってしまうことが多いものです。本当に祈っているのは二文章だけで、その他はすべて付け足しです。その二文章は神に聞いていただくためのものですが、他のすべては、兄弟姉妹たちの耳に向けられています。私たちも、若い信者たちには、簡潔に祈るように指導しなければならず、年長の信者たちが長い祈りを捧げるのはかまわないが、若い者たちはそうしてはいけないと教えるべきです。現実に、長い祈りは教会に大きな害を与えることもあります。

ある姉妹がいつまでも祈り続けたために、集会全体の忍耐の限界を超えてしまったとき、ムーディーは、非常に賢くも、立ち上がって、こう言いました、『この姉妹が祈りを続けるあいだ、私たちは聖歌でも歌うことにしましょう。』祈り会のあいだ、心が不注意になってもよいとは、誰も考えませんように。私たちが本当に心をひとつにして祈れば、そこにふらりと入ってきた未信者たちも、このキリスト者たちが何かを持っていることを、必ず認めるでしょう。長い祈りは力を消散させますが、簡潔な祈りは会合に力を与えるものです。

『The Notes on the Pentateuch』の著者、チャールズ・ヘンリー・マッキントッシュは、とても良いことを言いました。すなわち、あなたの祈りのせいで、神の子供たちにつらい思いをさせないようにしてください。あなたを鞭で叩く人は多くはいないでしょうが、祈りで鞭打つ者たちはいます。あなたは席に座っていることさえできません。神の子供たちには、真心から、そして、簡潔に祈ってもらいましょう。

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