2018年5月31日木曜日

神前有能[第21日]教会の責務としての祈り

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第21日
教会の責務としての祈り

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56:7)

教会の責務としての祈りとは、天で何ごとかが行われるようにと、地上で祈るものです。マタイ十八章にあるような祈りは、明らかに、日々の日課としての祈りや、個人的な自分だけの祈りには含まれないことを覚えるべきです。私たちに何か個人的な必要が生じ、そのことで神に頼むと、神が答えてくださることは多くあります。個人的な祈りを用いるべき場合は、確かにあります。同じように、神がすぐ近くにおられると感じることも非常によくあります。神が、日々の日課としての祈りを聞いてくださることに感謝します。この祈りもまた、軽んじるべきではありません。兄弟姉妹の祈りが答えられないままであれば、または、神がすぐ近くにいることを感じなければ、何かが間違っていることも、私たちは理解しています。個人的な祈りに対しても、日々の日課としての祈りと同じく、心を配るべきです。とくに、若い信者にあっては、個人的な祈り、日々の日課としての祈りを欠いていたら、目の前に伸びる道筋を走っていくことはできないでしょう。


それでもやはり、祈りとは、個人的に用いるだけのものではないし、日々の勤めという目的のためにのみ行うものでもないことに気づかなければなりません。祈りとは務めであり、祈りとは働きです。この地上で行う祈りは、教会の務めであり、同時に、教会の働きでもあります。なぜ、祈りが、神の前に与えられる教会の責務なのかと言えば、教会の祈りとは、天の吐き出し口だからです。教会の祈りとは何でしょうか?神が、何ごとかを実行したいと願うと、それを受けて、この世にある教会は、そのことが地上で実現され、神の目的が達成されるようにという期待をこめて、祈ります。

教会の果たすべき責務とは、キリストの御体としての責務であり、その責務とは祈りです。そのような祈りは、日々の勤めという目的ではないし、個人的な必要のためでもありません。むしろ、『天』のためです。さて、このような祈り――この後の例に出てくる――が示すのは次のようなことです。すなわち、ある男がいて、兄弟からの説得に耳を貸さず、他の二、三人の兄弟たちの忠告も拒み、最後は、教会の判断をも拒絶したために、全ての交わりを失ったとします。神は、このようなとき、この男が異邦人とか、取税人のように取り計ってもらえるように、裁きを緩めるでしょう。とは言え、神はすぐに自分から行動を起こすことはせず、まず、教会がこの目的に向かって祈るまで待ち、それから、天でこれを実行されます。教会が、このような場合に、地上で祈るという責任を引き受けたら、この不愉快な男の霊的ないのちが乾き切ってゆき、神とは何の関わりもないかのようになっていく様子が、次第に現れてくるでしょう。神は、この男のことを引き受けてくださるのですが、まずは、教会が祈るのを待たれます。

天には、多くの問題が山積みになっており、未決書類が溜まった状態になっていますが、これはただ、神が、地上に御自身の吐き出し口を見つけることができないからです。あまりにも多くの未解決の問題が天には残されていて、神にも手を付けることができないのは、教会が自らの意思で、主の側に立って、主の目的を果たそうとしていないからであることを、誰が知っているでしょう。教会が実行できる何よりも高貴な働き、もっとも大きな役割とは、神の御心の吐き出し口となることであることを理解しましょう。教会が、神の御心の吐き出し口としていただくためには、自分で祈らなければなりません。このような祈りは、個別に行われるものではなく、祈りの務め――働きとしての祈りです。神がひらめきを与え、人々の目を開いて御心を示すとき、人々は祈るために立ち上がります。

主はここで、一人だけでする祈りは不十分なもので、祈るためには、最低でも二人が必要であることを示されます。これを理解しなければ、主が何について語っているかを知ることもできないでしょう。ヨハネの福音書の中の祈りは、すべて個人的なものです。だからこそ、このような言葉があるのです、『あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです』(十五章十六節)。そこには、人数についての条件は一切、求められていません。一方、マタイ十八章では、人数のことで、条件が定められており、少なくとも二人が必要とされています。『もし、あなたがたのうちふたりが・・・、地上で・・・』と、主は言われます。少なくとも、二人が必要とあるのは、この部分では、交わりと言う問題について語られているからです。交わりとは、一人でするものではないし、神の吐き出し口として仕えることも、一人ではなく、二人で行います。

二人という原理は、教会の原理であり、また、キリストの御体の原理でもあります。このような祈りは二人によって祈られるのですが、そこには、『一致する』ことが不可欠です。一致することとは、調和を守ることです。この二人の個人は、調和を保ち、御体という土台の上に立っていて、そして、御体のいのちとは何かを知っていなければなりません。ここで、この二人が持つただひとつの目的は、神に述べることです、『私たちは願っています、みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように』と。教会がこの土台の上に立って、この目的に沿って祈るとき、そこで祈られたことが何であれ、天におられる父によってなされるのを必ず見ることになります。

私たちが、本当に教会という土台に立って、神の前の務めとしての祈りという責任を引き受けるとき、神の御心が私たちが属する教会の中で行われるはずです。そうでなければ、地域の教会が存在する価値はありません。このような祈りは、二、三人で祈っても、大ぜいで祈ったとしても、必ず力強い祈りとなります。今日、神の働きの強さは、教会の祈りの強さによって決まるからです。現される神の御力は、教会の祈りを越えることはできません。今日、神の力の大きさは、教会の祈りの大きさによって、制限されます。もちろん、これは、天におられる神の力は、その程度の大きさでしかないということではなく、天にある神の力に制限がないことは明らかです。今日、この地上において、主の力の現れは、教会がどれだけ祈るかにかかっています。教会の祈りによって、はじめて、現わされた神の力を計ることができます。

このことを視野に入れると、教会は、大きな祈りをして、大きな願いをするべきです。これほど豊かな神の前に来たとき、教会はどうして、小さな祈りを祈ることなど、できるでしょうか?これほど偉大な神の前で、教会は小さなことを求めたりできません。偉大なる神の御前に出るとき、人は必ず、偉大な何かが行われることを期待します。教会の能力が限られていれば、神の力の現われも必ず、制限されることになります。誰が勝利者なのかという問いには、まだ、完全な答えが与えられていないし、サタンもまだ、底知れぬ穴に投げ込まれてはいないという事実を、しっかり、心に留めておきましょう。だからこそ、御自身の証しと言う目的のために、神は、それを通して全ての働きを行うことのできる器を手に入れなければなりません。神を現すためには、教会は途方もないほど多くの祈りをすることが必要です。そして、これこそが教会の務めです。

兄弟姉妹の皆さん、神が祈り会を訪れるとき、教会の祈りという責務が、そこで確実に果たされるように助けてくださるのだろうかと、私たちは考えます。それは、何回、祈るかという数の問題ではなく、むしろ、祈りに重みがあるかという問題であることに気づいてください。教会が持つ祈りの責任を本当に理解するなら、自分たちの祈りがいかに無力なものか、自分たちがどれだけ、神を制限し、神が望まれる多くのことの実現を妨げてきたか、告白せざるを得ないはずです。教会は、その務めを果たしてこなかったのです!これは、なんという悲しい状況でしょう!

神が、その責務を忠実に果たす教会を得ることができるかどうか、それは、そこにいる人々の群れが、神の前に出る資格を失うか、あるいは、主の目的を実現するための本物の器となることができるかによって決まります。神が探しているものは、この努めに対する教会の誠実さに他ならないと、大きな声で叫びたいものです。教会の務めとは祈りです――誰でもするような小さな祈りを集めたものではなく、神の通る道を備えるための祈りです。始めに何かを行いたいと願うのは神ですが、教会が、祈りによって、それが行われる道を備え、そうして、主が進む大通りが開かれます。教会は大きな祈り、立派で力強い祈りを行うべきです。神の前で、祈りは軽い問題ではありません。祈りがいつも、自身を中心としていて、個人的な問題や、つまらない損得勘定にばかり向けられていたら、そこに神の永遠の目的が通り抜ける道があるでしょうか?この祈りと言う問題を、私たちは、より深く掘り下げて、受け止めることが必要です。

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