2018年5月17日木曜日

神前有能[第22日]地が天をつかさどる

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第22日
地が天をつかさどる

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。』この節の特徴とは何でしょう?ここで奇妙な点は、地上での行動が、天で行われる行動に先んじていることです。天で先につなぐのではなく、地上で先につなぎます。天ではじめに解かれるのではなく、地上で先に解くとあります。地がそれをつないだから、天もまた、つなぎます。地が解いたので、天もまた、それを解きます。天の行動は、地での行動によって、支配されています。神と相反するものはすべて、つながれる必要があり、神と一致するものはすべて、解かれる必要があります。それが何であろうと、つながれるにせよ、解かれるにせよ、そのつなぎ、また、解くという行動は、地上で始まります。地上での行動が、天での行動よりも先に行われますが、それは、地が天を支配しているからです。


旧約聖書からいくつかの例を挙げて、地がどのように天を支配するのか、解説してみましょう。モーセが山の頂きで手を上げているときは、イスラエルが優勢になりましたが、手を降ろしているときは、アマレクが優勢となりました(出エジプト記17章9から11節)。山のふもとにいて、勝利か敗北を決めたのは誰だったでしょう?それを、望んだのは神でしょうか、それとも、モーセだったのでしょうか?ここに、神の働き方の原理、神の行動の奥義を見ることができます。すなわち、何であれ、神がしたいと望まれることも、人間が望まなければ、神はそれを行わないということです。私たちは、神に、御自身が望まないことをやらせることはできませんが、神が行いたいとはっきり望まれることを、とどめることはできます。天では、この戦いの行方は、神が決定されますが、人の前では、モーセによって決定されます。天では、神がイスラエルの子供たちの勝利を望んでいます。とは言え、もし、地上で、モーセがその手を上げたままにしておかなければ、イスラエルは敗北し、その手を上げたまま保てば、イスラエルは勝利します。地が、天を支配するのです。

『神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう』(エゼキエル36:37)。神は目的を持っておられ、それは、イスラエルの家を羊の群れのように増やすことです。神を知らない者たちは、こう言うのではないでしょうか、すなわち、神がイスラエルの家を羊の群れのように増やしたいのならば、ただ、思うがままにその数を増やせばよいではないか、主に逆らえる者などいないのだから、と。しかし、ここで神が仰せになった言葉はどうでしょう――もし、このことに関して、イスラエルの家が願ったら、神はそのようにしようと言われています。この原理は間違えようもありません。すなわち、

神には、既に心に定めた目的がありますが、神はただちに(自分の決断だけで)それを実行することはなく、イスラエルの家がそれを願うまで待たれます。神は、地が天を支配することを望まれています。

『イスラエルの聖なる方、これをかたち造った方、主はこう仰せられる。「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか」』(イザヤ45:11)。これは、もっとも驚嘆すべき発言です。私たちにとっても、驚きではないでしょうか?御自身の子供たちと、御自身が造ったもののことで、神はこう言われます、『わたしに命じるのか。』人間ならば、この、『わたしに命じるのか』という言葉を口にすることはしません。人が神に命じることなど、絶対にありえないからです。神を知るものは誰でも、神の前に、どのような思いあがった言葉も、決して、口にしてはならないことを知っています。それでもなお、主御自身がこの言葉を私たちに投げかけています、『わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。』これこそ、地が天を支配しているということに他なりません。

さて、これが、神がするつもりのない何ごとかを、私たちが無理にさせることができるという意味でないことは明らかです。まったく違います。それが意味しているのはただ、私たちは、主が行いたいと望んでいることを、始めるように命じてよいということです。そして、これこそ、私たちが立つ土台ということになります。私たちは神の御心を知っているから、神にこう言うことができます、『神よ、私たちはあなたにこれをして欲しい。私たちは、あなたにこれを実行してもらおうと、決心しました。あなたは、これを行うしかありません。』こうして、私たちは強く、力の満ちた祈りを持つことになります。私たちは、神にお願いして目を開いていただき、この摂理の中で、神の働きがどのように行われるのかを見せていただくことが絶対に必要です。それは、今のこの時代には、神のすべての働きは、まさしく、この土台に立って行われるからです。すなわち、天が先ず、何かをしたいと望みますが、天は自分から行動を起こさず、地が先に行うのを待って、それから、天がそれを実行します。地は二番目に来てはいますが、それでも、地は第一番目でもあります。天は、地が動いた後で、初めて動くことになります。地に天を支配させることこそ、神の御心だからです。

『何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです』(18節)。ここにある、『あなたがた』とは誰のことでしょう?それは教会のことです。それは、前の節で、主が教会に触れていることから分かります。つまり、これは17節からつながっているわけです。ですから、今、私たちが開いているこの18節の意味とはこのようなものです。すなわち、あなたたち教会が、地でつなごうとするものは何であれ、天でもつながれることになるし、あなたがた教会が、地で解くものは、天でも解かれることになります。

ここに、もっとも大切な原理が隠れています。すなわち、神は今日、教会を通して働かれますが、御自身が望まれることであっても、教会を通して行うのでなければ、神は何も行うことはできません。これは、実に目の覚めるような原理です。今日、神は御自身の考えだけで何かを行うことはできません。それは、他の自由な意思が存在しているからです。その意思の同意なしに、神は何もすることができません。今日の教会の力の大きさが、そこに現れる神の力の大きさを定めます。神の力は、今では、教会を通して示されるからです。神は、御自身を教会の中に置かれました。もし、教会が、高く大きな位置に達することができれば、神の御力の啓示もまた、同じように高く大きな水準まで到達することができます。もしこの教会に、高く大きな位置まで達する力がなければ、その場合、神もまた、その御力を、高さと偉大さの中で現すことができません。

この事実の全体像は、人が住む家の中の水の流れにたとえるとよく分かります。水道会社が持っている貯水槽がどれだけ大きくても、水の流れは、その家の水道管の太さに制限されます。もし、そこに住む人が、もっと多くの水を流してほしいと望むなら、太い水道管に換えるしかありません。今日、神の力が現されるその度合いは、教会の能力によって決まってしまいます。しばらく前、神が御自身をキリストの中に現されたとき、そこに現われた大きさは、そのまま、キリストが持つ能力の大きさでした。さて、今、教会で神が現わされるさまは、これと同じ制限を受けます――今回は、教会が持つ力の大きさによって制限されます。教会の受容する力が大きいほど、神の現れも大きくなり、そして、神についての知識も、より完全なものとなります。

私たちが理解しなければいけないのは、神が今日、この地上で行うすべてのことにおいて、神はまず、教会を御自身とともに立たせ、それから、教会を通して、その働きをされるということです。神は、何ごとも一人だけではされません。今日、主がされることは何であれ、教会との協力の中で実行されます。教会とは、それを通して、神が御自身を現されるところです。

ここでまた、教会は水道管のようなものであることを繰り返しておきましょう。管が細すぎれば、たとえ、水源には長江のように豊富な水があったとしても、たくさんの水を運ぶことはできないでしょう。天におられる神は、何かをしようという目的を持っていますが、地上で動きがあるまで、それを実行することはありません。神が、天でつなぎ、また、解きたいと望んでいることがらは、いったい、どれほどあるでしょうか!神とは相容れない人やものごとが数多くあり、神は、そのすべてがつながれることを望んでいます。一方では、霊的で、重要で、有能で、聖化された神に属する人々やものごとも多くあり、主は、それらが解かれることを心待ちにしています。しかし、問題が生じるのはまさにここであって、この地上には、初めに神がつなぎたいと望まれるものをつなぎ、主が解こうと意図されるものを解くような、そんな人間がいるでしょうか?神は、地に天を支配させようと意図しています。神は、地上にある御自身の教会が、天をつかさどることを望んでいます。

これは決して、神が全能ではないことを意味しているわけではありません。神は、まさしく全能の神であられます。それでもなお、神の全能は、地上では、流れる管があって、初めて現れることができます。私たちには、神の力を増大させることはできなくても、それを妨げることはできます。人間が、神の力を押し上げることはありませんが、その力を抑えることはあり得るのです。私たちは、神に、御自身が望んでいないことをしていただくよう頼むことはできませんが、神が行いたいと望んでいることをしないように、抑えこむことはできます。本当に、このことが理解できているでしょうか?教会は、神の力を操る力を持っています。教会は、神が御自身の望むままに行うことを認めることができるし、また、それを妨げることも許されています。

私たちの目は前を向き、未来を見つめていることが必要です。いつの日か、神は御自身の教会を大きく広げて、新しいエルサレムとされますが、その時、御栄光は教会を通して完全に現わされ、主のじゃまだてをするものは何もありません。今日、神は、まず、教会が地上で解いて、その後で、御自身が天で解くことを望んでおられます。神は、教会に先に地上でつないでもらい、それから、御自身が天でつなぐことを欲しておられます。天は、自分から何かを始めることはしません。天は、その働きにおいては、地の後を追うだけです。神は、自分から何かを始めません。何かを動かすにあたっては、ただ教会のあとを追います。ああ、このように考えたとき、教会の持つ責任はなんと大きなものでしょう!

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