2017年6月27日火曜日

神前有能[第19日]あきらめてはいけません

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第19日
あきらめてはいけません

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、神があなたがたに望んでおられることです。(第1テサロニケ5:16~18)

新しい信者の皆さん、私の経験から語ることをお許しください。祈りは、二つの部分に分けられるのではないかと思います。ひとつ目は、約束のない状態で、約束をいただくまで捧げる祈り、神のことばのないところから、御言葉が与えられるまで続ける祈りです。全ての祈りはこのように始まります。神に願いながら祈り、願い続けてください。ジョージ・ミューラーの場合、一分後に答えられた祈りがあり、また、7年間が経っても聞かれない祈りもありました。これが、祈るという部分に当たります。二つ目の部分は、約束が与えられたところから、その約束が成就されるまで、神の言葉をいただいてから、その御言葉が実現するまでの祈りです。この期間にあるべきは、賛美であって、祈りではありません。すなわち、初めの部分は祈り、二つ目の部分は賛美です。初めの部分では、言葉なきところから、神の言葉があるまで祈ってください。第二の部分では、約束をいただいてから、その約束が成し遂げられるまで、褒めたたえてください。これが、祈りの奥義です。


この世の人々にとって、祈りには二つの焦点があります。すなわち、まだ、祈っていない、だから、私は祈る。また、私が祈ると、神はくださる。例えをあげましょう。私は、昨日、腕時計をくださいと祈りました。数日後、主は本当に私に時計をくださいます。ここでは、何もないところから、何かが生まれています。しかし、キリスト者には、この二つのあいだに第3の点があります。信仰です。私が時計を与えてくださいと祈り、ある日、神が祈りを聞かれたと語ることができたら、その時は私は信仰という地点に達したのであり、手の中には何もなくても、内面では時計を持っているのです。数日後、時計が手に入ります。キリスト者は、霊で受けるにはどうするかを知る必要があります。それを知らなければ、信仰も霊的な知恵もありません。

人は熱心に祈り、信仰が与えられるまで祈り続けなければなりません。初めの部分は、信仰のない状態から、信仰を持つまでの祈りであり、二つ目の部分は、信仰を受けてから、確実にそれを手にするまでの賛美であると言ってもいいでしょう。なぜ、祈りを二つの部分に分けるのでしょう。一度、信仰を持った人ができることは、賛美だけであり、祈りではないからです。そのまま、祈り続けたら、信仰は失われます。賛美することで、神に言葉を送り、早く成就してもらうよう求めるべきです。神がすでに、与えると約束されたのに、これ以上、何を願うことができるでしょう。世界中の兄弟姉妹たちが同じ経験しています。すなわち、信仰が与えられたら、それ以上祈ることができなくなるのです。すべきはただひとつ、こう語ることです、『あなたを褒め称えます、主よ。』ああ、このことを知らない兄弟たちがいます。神が約束した後もまだ、祈り続けているのです。そうして、全てを失うまで、彼らは祈ります。これは実に、大きな損失です。

人はどのように信仰を守るべきでしょう。主をこう、褒めたたえることによってです、『ああ、主よ、あなたを褒めたたえます。私の祈りを聞いてくれたからです。一か月前、あなたは私の声を聞かれました。』マルコ伝11章24節の言葉はかけがえのないものです。新約聖書のどこを見ても、この大切な節ほど、信仰を言い表しているところはありません。『祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』ここに、3つの要点があります。(a)何も持たずに祈ること、(b)何も持たずに信じること、そして(c)信じて、それを手の中に受けることです。新しい信者たちが、祈りとは何かを本当に理解し、生活の中で祈りがどれだけ大きな役割を果たすかを認めることができますように。

祈りには別の側面があり、それは、今、語ったことと矛盾しているように思えるかもしれませんが、やはり真理です。それは、人は、『いつでも祈るべきであり、失望してはならない』(ルカ18:1)ということです。主は、ある祈りは、止むことなく続けなければいけないと示されています。私たちは、主のもとに通い詰め、いわば、主が疲れ切ってしまうほどに、祈り続けなければなりません。これは、不信心の現れではなく、むしろ、違う種類の信仰です。『しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか』と、主は言われます。これこそ、初めから約束があろうと、なかろうと、絶えることなく祈り続けていれば、神はいつか必ず答えられると信じる信仰です。

私たちは、二回目の祈りをしないし、できないことがよくあります。それは、本当は何も頼んでいなかったからです。二回、三回、五回、また、十回と捧げた祈りがどれだけあるでしょう。多くの祈りは、一度だけ、ささげて、後は忘れてしまいます。神もその祈りを、忘れてしまうのも不思議ではないでしょう。私たちは、本当の必要がある時のみ、祈り、また、祈り続けます。そうなって初めて私たちは、祈らずにいられない、そして、突き動かされるように祈る環境のもとに置かれます。50年が経っても、まだその祈りを憶えているでしょう。ああ、主よ、あなたが動いてくださらなければ、私は祈り続けます。

このような祈りは、マルコ伝11章の祈りと矛盾しません。マルコは、私たちが信仰を与えられるまで、祈り続けるように語っています。ルカ伝の方では、いつでも祈るべきであり、失望してはならないと教えています。私たちの祈りの多くは、あまりに心がなく、捧げた者も、すぐに忘れてしまいます。神が、そのような心のない祈りをどうして聞くことがあるでしょうか。私たちは、自分が忘れてしまったことも、神は覚えているはずだと思っています。そんなことはありえません。ですから、若い兄弟姉妹はどう祈るか、また、願ったものを受けるまで祈ることを学ぶべきです。

ある姉妹は、自分の兄のために何年も祈っていました。その祈りは神に届いているようには見えず、状況は悪くなるばかりでした。しかし、ある日、兄は必ず救われると、彼女は言い始めたのです。絶対に間違いないという確信を得たように見えました。その確信はどこから、来たのでしょう。それは、彼女が、不正な裁判官のもとに通いつめ、相手を裁くように訴え続けたやもめのはなしを読んだからです。この女性はこう言いました、『私はまだ、神がうんざりするほど願っていなかったと、このはなしは教えてくれました。これからは、朝早く、兄を救ってくれるよう神にお願いし、昼には再び、兄の救いを頼み、夕方にももう一度、主に念を押します。私が昼も夜も、夜明けから日暮れまで祈れば、いつの日か、神も私にうんざりしてこう言われるはずです、「もうわかった、あなたのお兄さんに救いを与えることにするよ。」私はこのように祈ることに決めたのです。ですから、兄が救われることは間違いありません。』この姉妹は、ルカ伝18章5節の真意を理解したのです。

もとはと言えば、この姉妹は、気の小さい人でしたが、今では、大胆すぎるほどになりました。彼女がここまで神を困らせたので、たまりかねた神は、お兄さんを救うしかなくなりました。一週間後、彼女のお兄さんは救われました。この女性が聖書から受けた光はすばらしいものです。生まれたままの彼女だったら、決してなれなかったものに、光が変えたのです。彼女は、『猛々しい』人へと作り替えられました。

従って、何かを頼むのなら、神を困らせることを学ばなければなりません。自分で頼んだことを忘れてしまうようなら、神があなたの声を聞いてくださる望みなどありません。本当に何かを求めているなら、いつでも祈り、失望してはなりません。神があなたの言葉を聞かざるをえないほどに、祈ってください。

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