2017年7月1日土曜日

神前有能[第9日]祈りとは義です

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第9日
祈りとは義です

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17)

マタイ6章1~8節は3つのことがらにふれています。(1)施し(慈善)、(2)祈り、そして、(3)断食です。第1節はこう戒めています、『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。』これが全体の要点です。2~4節は施し、5~15節は祈り、そして、16~18節は断食について語っています。この3つは、それぞれが善行のかたちです。施しとは、人に見られるものであり、また、他者に対して行うことです。祈りは神に向かうものであり、断食は自分自身に関わるものです。人、神、自分のどれに対するものであろうと、誰かに見られることを目的として、善行を行ってはいけません。施し、祈り、そして、断食はいずれも、報いを受けますが、人に見られたら、将来の報いは消えてしまいます。キリスト者なら、こういった良い行いは隠れて行う習慣をつけるべきです。善行を行うときは、ふたつの正反対の誘惑を避けなくてはいけません。ひとつは、人の見ているところで、人によく思われるように行うことです。もう一つは、自分自身の考えで行い、人のことを思わないということです。ふたつは正反対のことですが、そのどちらも避けなくてはいけません。



人に隠れて、実践しなければならない義の二つ目が祈りです。祈るのは、神の栄光を現すためと同時に、自分の足りないところを認めるためでもあります。神を求めるのはこのためです。それなのに、神を讃えることを通して、自分が賞賛を受けようとするとは、何と悲しいことでしょうか。彼らは、人に聞かれるために祈ります。偽善者たちは、会堂や通りで祈りますが、それは人に見られるためです。彼らはその行いの報いを受けたのですが、それは人から受ける報いです。主はここで、祈りへの答えではなく、祈りへの報いについて語っています。この報いは後で出てくる、断食への報いと同じ範疇に属しているのです。祈りの報いとは、その祈りへの答えのことではありません。働きに応じた報酬のことです。すなわち、祈りは、今日、答えがあるだけでなく、いずれ、キリストの裁きの座でその報いを受けます。裁きの座に着いたとき、祈りは、報いを受けるべき善行として思い出されることになります。今、人に聞かれるために祈っている者には、裁きの座に着いたときに、報いを受ける可能性はありません。

祈りとは、善行のひとつのかたちです。兄弟姉妹の皆さんが、この善行をおろそかにすることのないよう、私は願っています。祈りをしない人は、今日、答えを得ることはなく、後で、報いを受けることもありません。現実には、祈りとは、私たちと神との親密な交わりです。人の注目を浴びるための手段として、祈りを使う者がいるとしたら、とても浅はかなことです。祈りとは、決して人に見られないようにすべきものです。主は、祈る時は奥まった部屋に入るように示されています(この節に出てくる会堂、通りの四つ角、そして、奥まった部屋はそれぞれ、何かを象徴しています)。奥まった部屋とは、意識して祈りを人に見せないようにするための秘密の場所をさしています。『戸をしめる』とは、この世のもの全てを閉め出し、自分を中に閉じこめて、呼び鈴が鳴っても応えないようにすることです。これによって、人は、祈りの中で神と二人だけになります。それは義であると同時に、神が私たちに報いる理由でもあります。これこそ、主を大いに喜ばせるものに違いありません。祈りの目的は、答えを受けること以上に、いつの日か受ける報いでもあるからです。『隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』父は、私たちのひとつひとつの行動を見ています。

施しは隠れたところで行うべきものです。一方、祈りは、隠れたところでするだけではなく、言葉によく注意して行うべきものでもあります。すなわち、祈りは、施しよりも崇高な義のかたちなのです。主は、これからも私たちにどう祈るかを教え続けなければなりません。祈りは、隠れたところで行うだけでなく、異邦人たちがするように、同じことばをくり返すことを避けなければいけません。祈りは、簡略であるべきです。ギリシャ語で、『同じことばをただ、くり返す』とは、石の中を流れる水の音を表すことばです。つまり、同じ音をいつも立てているということです。その音は単調で、同じ音の繰り返しです。また、『ことば数が多い』という言い方は、ギリシャ語では、石畳みの道を回る車輪の音を表現するものです。主はこの二つの言い方を使って、祈りの音を表現しています。その音は、石に打ち付ける水のようであり、また、石の上を回る車輪のようでもあります。それは、何の意味もないものです。ですから、私たちの祈りは、人に見られないように、また、意味のない言葉の羅列にならないように気を付けましょう。

公けの場所でする祈りでは、私たちは多かれ少なかれ、人に影響されます。私たちは、ただ神に向かって祈るのでなく、人にも聞かれるようにと祈っています。心を神だけに完全に集中することは、人には不可能です。兄弟たちが言うアーメンを聞くために、祈ることをやめられない人もいます。こういう人たちは、祈りを、心の願いの深さではなく、兄弟たちが発するアーメンの声の多さで計ります。これは、祈りの効果をそいでしまいます。祈りは、心にある願いの強さで計らなければなりません。祈りは、その時、心にある願いを超えてはいけません。会合の中では、祈りを止めてはいけませんが、同じように、会合の中でだけ、祈ることもやめましょう。人前でだけ祈るのではなく、一人だけの時も祈ってください。隠れたところでは簡素な言葉だけで祈っているなら、人前でする祈りも、同じようにしましょう。たくさん、話す必要はないのです、『あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる』からです。あなたの祈りに対する答えは、心にある願いと祈る時の態度に応じて与えられ、言葉の数には関係ありません。神に、無理強いしないでください。あなたに必要なものを、既に知っておられるからです。では、なぜ祈るのでしょう。それは、主を信じ、主により頼もうという気持ちを、はっきり態度に表わすためです。


【訳注】本書、『神前有能(Powerful According to God)』はウオッチマン・ニーの著作の中から、祈りに関する文章を抜き出して、編纂したものです。原書は多くがすでに日本語に訳されています。この回も、元の文は、福音書房刊、ウォッチマン・ニー全集第15巻、『マタイによる福音書の学び』におさめられていますが、ここでは英文から、訳しています。正確な訳を読みたい方は、全集に当たることをお勧めします。

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