2018年6月20日水曜日

神前有能[第24日]権威ある祈り

ウォッチマン・ニー
神前有能
第3部、神がたまわる力

第24日
権威ある祈り

神を信じなさい。(マルコ11:23)

聖書には、何よりも崇高で霊的な種類の祈りが収められているのですが、そこで語られる言葉を認め、また、自分でその祈りを口にする人はごく僅かです。それは、どのような祈りでしょう?『権威を持った祈り』です。私たちは、賛美の祈り、感謝を捧げる祈り、願う祈り、そして、とりなしの祈りを知っていますが、権威ある祈りについては、ほとんど何も知りません。権威を持った祈りとは、御言葉の中でもっとも重要な地位を占めるものです。それは、権威を示すものであり、権威ある命令を発するものでもあります。


さて、祈りの男たち、祈りの女たちになりたいと望むなら、この権威ある祈りを学ばなければなりません。これは、マタイ伝十八章十八節で、主がふれられた祈りです、『何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。』ここにあるのは、つなぎ、また、解くための祈りです。天における動きは、地における動きに続いて起こります。天は、地で発せられた言葉を聞き、地の命令に応じて行動します。地でつながれるものは何であれ、天でもつながれ、地で解かれるものは、何であれ、天でも解かれるのです。地で願うことではなく、地でつなぐことであり、地で願うことではなく、地で解くことです。そして、これが権威ある祈りです。

この表現はイザヤ書四十五章十一節に見られるもので、そこには、こう書かれています、『わたしに命じるのか。』私たちが神に命じることなど、どうしてありえるでしょう?あまりに本末転倒した、身の程知らずなことではないでしょうか?しかし、神御自身がそう言われているのです。疑いもなく、私たちは、ここに肉に入ることを許してはいけません。それでもなお、ここでは、命令する祈りがあることが私たちに示されています。神の視点に従えば、私たちは神に命じてよいことになります。それはどのような言葉なのか、祈りを学ぶ全ての聖徒たちが、明確に学ばなければなりません。

私たちが生きているこの時代、そのような命令の祈りは、キリスト者のどこに、その根拠を見つけられるでしょう?この祈りは、主の昇天にその根源があります。昇天はキリスト者の生活に、非常に深くつながっています。この二つはどのように関係しているのでしょう?主の昇天が、私たちに勝利をもたらすのです。キリストの死が、アダムにある私たちの古い創造を解決し、また、よみがえりが、私たちを新しい創造へと導くように、昇天は、サタンの眼前で、私たちに新しい地位を与えてくれます。それは、神の前にある新しい地位ではありません。その地位は主のよみがえりによって得られるものだからです。それでもやはり、サタンの前における私たちの新しい地位は、キリストの昇天によって確固たるものとされます。

エペソ書の次の言葉に注意してください、『天上において(キリストを)ご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせました』(一章二十節から二十二節前半)。天に昇られたとき、キリストは天へと通じる道を開かれ、それから後、主の教会もまた、地から天へと昇ることができるようになりました。私たちの霊的な敵が空中に住んでいることは、誰もが知っていますが、今日では、キリストが既に天に昇られています。すなわち、新しい道が地から天に向かって開かれているのです。この道は、以前はサタンによってふさがれていましたが、今はキリストが開きました。キリストは今、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれています。これが現在、キリストが置かれている地位です。言葉を換えれば、神は、サタンとすべての手下たちが、キリストに従うようにされました。そう、神は、いっさいのものを主の足の下に従わせたのです。

昇天の意義は、死とよみがえりが持つ意味とは、大きく異なるものです。死とよみがえりは、あがないというただひとつの目的のために行われたのに対して、昇天とは、戦争のため——すなわち、主の死とよみがえりが成し遂げたことをことを実行に移すためです。主の昇天が、新しい地位を明白に示します。主が、すでに私たちを、『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて』(エペソ2:6)くださったと、語られていることを神に感謝します。

権威を持つ祈りとは、この天の所を拠りどころとしています。

教会は、天の所に、キリストともにあるがために、権威を持った祈りを祈ることができるのです。

権威を持った祈りとは何でしょう?簡単に説明すると、それはマルコ伝十一章でふれられているような祈りです。真実をはっきりさせるために、二十三節と二十四節を細かく見てみましょう。第二十四節は、『だから』という、接続詞で始まります。ということは、第二十四節の言葉は、第二十三節にある言葉からつながっています。第二十四節は祈りについて語っていますから、第二十三節もまた、祈りのことを言っているはずです。ここで不思議に見えるのは、第二十三節に書かれていることが、通常の祈りのようではないことです。この祈りは、神に向かって、『おお、神よ、この山を持ち上げて、海に投げ込んでください』とは、言っていません。では、実際に何を言っているでしょう?『だれでも、この山に向かって、動いて、海にはいれと言うなら・・・』と書かれています。

私たちの心の中で作り上げられる祈りは、どのような種類のものが多いでしょうか?神に祈る中で、私たちは、祈りとは、『おお、神よ、この山を取り除けて、海へと投げ込んでいただけませんか?』と、このようなものであるべきだと考えます。しかし、主が語る祈りは、これとはまったく違うものです。主は、私たちに、神に語りかけるように促すのではなく、山に向かって語りかけるようにと教えます。神に向かって話すのではなく、山に向かって直接、こう語るのです、『動いて、海にはいれ。』私たちがこれは祈りではないと考えないように、主はこの後すぐ、第二十四節で、これは確かに祈りであると説明されています。ここにある言葉は、神に向けられたものではないのですが、それでいて、これもまた、祈りです。山に向かって語りかけ、海に入るように命じることは、疑問の余地なく祈りです。そして、これは、権威ある性質を持った祈りです。権威ある祈りとは、何かをするように神に頼むものではなく、神の権威を用いて直接、問題に取り組み、取り除かれるべき全てのものを取り除く祈りだからです。そのような祈りを、勝利者となるべき一人一人が学ぶ必要があります。勝利するものは誰でも、山に向かって語ることを学ばなければなりません。

神に、山を動かしていただくようお願いすることと、山自体に向かって動くように命じることは、完全に正反対です。神の御許に来て、働いてくださるように頼むことと、山に向かって直接、動くように命じることは、まったく別のはなしです。私たちは、このような命令の言葉を、ほとんど省みないことがよくあります。私たちが、神の権威を用いて、困難に向かって、『主イエスの名において、私たちから離れるよう命じる』とか、『お前が私の人生にとどまることは許さない』と直接、語りかけることは、ほとんどありません。権威ある祈りは、あなたを妨げるものが何であろうと、それに対して、『私から離れていけ』と、命じるものです。あなたは、自分の激しすぎる気性に向かって、『私から離れていけ』と命じ、自分の病いに対して、『私から離れていけ、主のよみがえりのいのちによって、私は立ち上がるのだから』と伝えることになります。ここでは、神に向かって話しているのではなく、妨げとなっている山に直接、語りかけ、こう宣言しているのです、『動いて、海にはいれ。』これこそ、権威を持った祈りというものです。

私たちは、この山に向かって気軽に話しかけることが非常によくありますが、その話し方に効果がないのは、神の御心さえ知らないからです。しかし、私たちが、神の前で、主の願いが何かを明白に理解していて、疑う気持ちもなければ、私たちは大胆に山に向かって、『動いて海にはいれ』と、呼びかけてよく、そして、本当にそのとおりになります。ここで主は、命じるものとして、私たちを指名しています。私たちが命じるのは、神がすでに命じられたことであり、そして、これこそ、権威ある祈りです。

このようなわけで、権威ある祈りとは、直接、神に願うものではなく、困難に向かって直接、神の権威を差し向けるものです。私たちは、一人ひとりが自分の山を持っています。それぞれの山は、同じ大きさではなく、おそらく、同じ種類のものでもないでしょう。しかし、あなたが進む霊的な道筋に置かれて、行く手をふさぐものが何であろうと、あなたは原則として、自分から離れていくように命じてよいのです。これが、権威ある祈りです。

権威ある祈りを知るものだけが、本当の祈りとは何かを知っています。勝利者の主たる働きとは、天の御座の権威を地上へともたらすことです。今日、御座はひとつしかなく、それは神の御座であり、神だけがすべてを支配し、すべての上から統治されます。その権威に与かるためには、祈りが欠かせません。祈りとは、どうしても必要なものです。御座を動かすことのできるものであれば、どんなものでも、すべてを動かすことができます。私たちが知らなければならないのは、キリストは既に天に昇られ、全てを超えて高いところにおられること、そして、全てのものが主の足元にひれ伏しているということです。だからこそ、私たちは、この御座の権威を用いて、全てを支配できるようにります。私たちは誰もが、この権威ある祈りを学ばなければなりません。

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