2020年8月9日日曜日

【Daily Open Windows】8月9日

八月九日

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ三・八)

人を罪、死と地獄から救うこと、そして、人を天国へと連れて行くことは、信じる者の特別さについて、パウロがここで気づいたものに比べたら、大したことではなかったのです。キリストに関して、主の永遠のご目的――永遠で、普遍的、広大で無限の目的――の中でパウロが気付いたことは、そのすべてが今の信者たちにも関わっています、『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、・・・次に来る世においても、・・・神の栄光をほめたたえる者・・・にしようとされました(エペソ一章四、十二、二十一節)』。信者たちはまた、時間のくびきから解き放たれ、ともに、あらゆるものにまさる大きな価値を与えられました。


キリストとは何というお方でしょう!それは、私たちを引き上げてくれるキリスト、私たちを自由にしてくれるキリストです。しかし、ひとつ言わせてください。それは、主が実際に、来られて、御手を私たちの下に差し入れ、持ち上げることではなく、私たちの心の中への啓示によって行われるのです。パウロは、どのようにして、偏狭なユダヤ教的な救世主の概念から抜け出したのでしょう?それはただ、キリストの内なる啓示により、そして、その啓示が自由な考えを育てることによって行われました。彼にも、長い間、捨て去ることができなかったものがあります。ほとんど人生の終わりに至るまでエルサレムにしがみついていたのです。彼にはまだ、兄弟たちを肉的に慕う想いがあり、同胞としての気持ちから、彼らを解放しようという試みを続けました。しかし、ついに彼は天なるキリストの意味を理解し、それを通して、パウロはエペソ人への手紙とコロサイ人への手紙を書き、その後、このようなユダヤ教、世俗的なイスラエルは彼にとって、何の価値もないものとなりました。この時、パウロを解き放ち、導き出し、自由にしたものはキリストの啓示でした。同じように、キリストは私たちにとっても救済者、解放者であります。

私たちが知る必要があるのは、主イエス様だけです。小さなことは全て、私たちが主を見ると消えてゆきます。この世界と時間の全ては、私たちが主を見ると去ってゆき、また、この人生の背後には、厳しく困難な時期にも、私たちを支えてくれるものが十分に備えられます。こうして、私たちはキリストの偉大さと、それに等しい、『神の永遠のご計画に沿った』救いの偉大さを見ることになるのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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