2020年8月21日金曜日

【Daily Open Windows】8月21日

八月二十一日

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ十五・四)

神は、世の始まりから、キリストにあって、私たちを選びました。神は、ただ一人の方を選び、私たちがその中に神を見出すように、その方の中にだけ神を見出すようにされました。私たちをキリストから引き離すことを第一の目的として、地獄の軍勢が働き始めます。彼らは人々をキリストのもとに行かせまいと荒れ狂い、いったん、人がキリストのもとに入ると、キリストの支配の外に引きずり出して、何かこの世の物、他の者の支配のもとに置こうと、止むことなく、容赦なく、攻め続けます。キリストの、『わたしにとどまりなさい。・・・あなたがたも、わたしにとどまっていなければ・・・』(ヨハネ十五・四)という言葉には、計り知れないほど大きな意味が込められています。これは警告であり、命令のことばでもあります。私たちは、どこで、どのように主で出会うでしょう?それは、キリストへとつながる道筋の上だけであり、そこは、キリストの願いが私たちの生きる目的となり、『私にとっては、生きることはキリスト』(ピリピ一・二十一)というみことばが真実となるところです。あなたは、そこで、主と出会います。キリストの支配の外に抜け出したり、追い払われたり、おびき出されたりすれば、あなたは主を失います。キリスト者の人生が解き明かされるのは、その支配の中に限られます。私たちが造られたその目的が完成するのは、その道の上です。神の導きを見出すことができるのも、同じ道筋の上です。


神の道を定めるこの天の法則は、キリスト者の現実生活に、多くの面で適用されています。キリストの第一の、そして、最大の願いから離れた選択を人間がすることによって、実に多くの霊的な悲劇が引き起こされてきたことを、私たちは知っています。それは、例えば、生活の便利さ、楽しさ、逃避、あるいはうわべの必要といった理由から、住む家や場所を選ぶという選択かもしれません。前に読んだアブラハムの場合がそうでした。自分はいつも主とともにあるかという問いこそが、正しい選択と決断へと結びつくものです。主の支配の外に出て行けば、必ず、霊的な破綻という結果をもたらされます。エリメレクの場合、それはどれだけ、大きな損失だったでしょう!

もし、キリストが道であり、道しるべであるとすれば、主なる神は模範です。御父の命令以外の何物によっても動かず、動かされもしなかった主は、なんと、慎重で注意深かったことでしょう!主に、ご自身の考えで行動させようと、多くのことが周りで起こされましたが、主はただ、御父の中にとどまり、時には大きな犠牲を払いながらも、他の考えを断固として拒んだのでした。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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