2020年8月13日木曜日

【Daily Open Windows】8月13日

八月十三日

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ二・二十)

キリストとは、私たちを頑強なものとし、活力を与え、強めるために送り込まれ、生活と奉仕の中で用いたり、また、私たちを価値のある者にするために与えられる第二の人格や力ではありません。そのような考え方は正しくないし、聖書にはそのような観点はありません。それでもなお、ほとんど全ての人が、多くはおそらく無意識のうちに、この考え方を受け入れています。キリスト者たちは、キリスト者としてさえ、自分を何者かに変えて欲しいと願っており、そして、キリスト者の働き手と主のしもべたちは、おそらく知らず知らずのうちではありますが、立派な働き手になることを願っています。そして、彼らは、キリストに自分を強めていただき、後ろから支えてもらって、主のしもべとして、主への奉仕の中で、大きなものにしてもらうことを望んでいます。


このような考え方は、あらゆる面で、真実とは正反対の位置にあります。真実とは、キリストがすべてであること、私たちは衰えて、主が盛んになるべきであること、主こそが第一の人格であるべきこと、そして、いかなる生活、いかなる奉仕であろうと、そこから生まれ、記録されることばは、『彼は本当に良い人だった!』、とか、『彼女は本当に良い人だ!』、あるいは、『なんと役に立つ働き手だろう!』ではなく、こうであるべきです、『ここにはっきりとキリストが臨在している!なんというキリストへの証しだろう!なんというキリストの表れだろう!本当に強くキリストを感じる!なんとすばらしいキリストの現実だろうか!』

私たちは、神ご自身がすべてであることを、心にしっかりととめているでしょうか?それは、『私』は十字架につけたことを意味します!もはや、私ではなく、キリストです!そして、これこそ、私たちの中におられるキリストが、主の似姿に変えられることの基本であり、それは、私たちが、主ご自身の性質――純金――に与かるまで続くことを意味しています。これは、主の前で真摯に向き合うべき事実です。それは、私たちに困難をもたらしますが、間違いなく、栄光に満ちた可能性も、与えてくれます!キリストご自身の性質が、私たちの中でよいものとされるのです!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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