2020年8月19日水曜日

【Daily Open Windows】8月19日

八月十九日

わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。・・・(黙示録 二・十九、二十)

ああ、私たちは主への奉仕とは何かということについて、、演台や説教台や野外での会合のことと考えるだけではなく、よりよく理解すべきです。愛する皆さん、主に対する奉仕とは、日常生活のありふれた家庭的な出来事の中で、ひどく気落ちしている神の子供に親切に助けの手を差し伸べるといったことも、同じくらい大切であり、その面では演台の上で説教を語ることと同じくらい大きな価値があるのです。お分かりのように、この奉仕は、主の子供たちの手を強めて、上からのしかかって圧し潰そうとする敵を見極め、生活や家庭の中で行われる証しを引き上げて、その証しを打ち砕こうと試みる敵から守っています――この証しとは、家庭内の関係、家族の生活、個人的な生活の中で続けられるものです。


あまりに多くの人が、家庭の中での奉仕を投げ捨ててまで、聖書学校に通いたいと願い、家の中の奉仕も、主にとっては、伝道活動の場に出て行くことと同じくらい価値があるという事実を見落としています。このような奉仕とは、霊的なことであって、技術的なことでも、組織化されたものではなく、そして、明日、どこかの家を訪ねて、敵が入り込もうと狙っているその家で、実際に洗濯の手伝いといった手助けをするといったかたちでも、あなたは主の祭司となることができるのであり、それは、壇上から語る祭司となにもかわりはありません。・・・・

その声が公の場で聴衆の前に流れたことのない神の祭司がおおぜいいます。それは、公式のかたちで人の目にふれたことがなく、誰にも知られず、集会の場でも多くの場合は隠れていますが、それでいて、隠れた歴史の中では、もっとも貴重な責務を果たしている祭司たちです。このことを、いつも心にとめておいてください。私たちは、何かが主にふさわしいかを慎重に判断したら、主、すなわち、この主人を讃えるがゆえに、そのことのために自分自身を捨てる、そのような者とならなければなりません。お分かりのように、このしもべが、惜しみなく、進んで、どんな時も主人に仕えるために自分を捨てるのは、その主人を愛するようになったからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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