2020年4月14日火曜日

【Daily Open Windows】4月14日

四月十四日

私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ四・十九)

神は、御父としての責任を担い、自分が負ったその責任を御子の中に、また、御子を通して果たすようにされました。キリスト者のことばの中で、これをどれほど大きな事実と捉えているのか、ピリピ書、四章十九節に見てとれます。これが意味するのは、認められたキリスト、知られたキリスト、キリストの中の神、そして、私たちが世から完全に離れて、主とともに立っているこの土台です。しかし、注意してください、これは神の贈り物です。主は言われます、荒れ野でマナを与えたのは、モーセではなく、御父であると。ですから、それは人の労苦の成果ではなく、神の恵みから生じたものです。あなたは、霊的な成長のために、骨折りを重ねているのですか?私たちは、自分の霊的な計りと霊的な水準を高めようと、どれだけ努力し、苦しんできたことか。自分の霊的な生活を守っていくこととの関わりの中で、私たちはどれだけの重荷を背負ってきたでしょう!私たちは、霊的な生活を送る責任は全面的に自分にあると考え、その責任は、祈りの中の自分の辛苦、神のみ言葉の中で受ける苦役、主への奉仕の中の労苦、自分の努力、自分の懊悩によって果たされると信じ込んできました。


自分は祈りや御言葉を、ほとんど用いてこなかったと思う人はいないでしょう。私たちが、あなたは霊的な生活のために、自分では何ひとつしてこなかっただろうと、言っているのではないことはお判りでしょう。しかし、自分自身が責任を負うことと、神がその責任を自分で負ったと認めることのあいだには、実に大きな違いがあります。そして、神がこの責任を負ってくれたからこそ、私たちは神と協力すべきなのです。自分を正しい者とするために働くことと、自分が正しい者とされたがために働くことは、まったく違いますし、自分を全きものとしようと働くことと、キリストにおいて、自分は全き者であると確かにされたがゆえに働くことは、まったく違うものです。この違いは、ただそう理解すべきものではなく、実践的な違いであり、そこには計り知れない価値があります。

時に、主は、私たちに、こんなふうに言わばければなりません、『気を付けなさい、あなたは自分の祈りを、あまりに大げさに取り上げすぎるし、聖書の中に個人的な問題を持ち込みすぎています。自分でも気づかないうちに、すべてのことが、どれだけ多く、どれだけ熱心に祈るかによって決まると考えるようになっているのです。』それから、あなたは外に出て行くと、他の人たちに向かって、自分の祈りの生活が、彼ら自身の祈りの生活と対抗するものであるかのように語ります。そういうつもりはなくても、これこそがあなたの成長を推し進めるものであり、また、他の人たちの成長にも役立っていると語っているように聞こえてしまいます。これは、原因ではなく、結果でなくてはなりません。『あらゆることの原因、奥義、源泉は主であるわたし自身であり、あなたは時には、一人だけで苦しむことをやめて、わたしのもとで、愛の信頼のうちに、安らぐことをしなさい。もう少し、こうして安らぐことを学びなさい。そうすれば、あなたももっとよい祈りができるし、わたしももっと多くのことができるのです!』

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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