2020年4月24日金曜日

【Daily Open Windows】4月24日

四月二十四日

金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。(使徒行伝三・六)

新しい天的なイスラエルに属する者とは、自分の利益を追い求める心から解放されて、神の利益を願うようになった人々であり、彼らは、足にイエス・キリストによる霊的な履物を付けて、主とともに進む道を力強く歩いています。五旬節の日の後に行われた第一の奇跡が、エルサレム宮の門で、生まれつき足なえの男を立ち上がらせたことだったのは、非常に象徴的なことだったと思いませんか?美しい物語を集めて、一冊の興味を惹く読み物を作ろうとしたわけではないのです。神は明確な目的のもとに行動されているのであり、キリスト者の時代の第一の奇跡を、この足なえの男の癒しとすることによって、この新しいイスラエルの人々は、不自由な体から解放されて、霊的な履物を着けた者となったことを、神は伝えているのです。キリスト者が、自由に動かせないところはたくさんあります!彼らは、自分の足で立ち上がることができないし、他の人たちが彼らを立たせることもできません。ためしに、彼らを立たせようとしてみなさい!一、二歩は歩くかもしれませんが、すぐに倒れこんでしまいます。このような人たちはたくさんいて、あなたが一生かけて、彼らを自力で立たせようと試みてもむだなことです。彼らの人生を蝕んでいるものは、いったいなんでしょう?何が彼らを歩くこともできないほど、不自由な体にしているのでしょうか?それは自分を中心とする思いです。間違えようもなく、それは何かのかたちを取った自我の現われです。人からの注目を欲する自我です。自尊心というかたちで現れる自我です。この哀れな男が解放されたのは、自分の無力さを知って、イエス様の言われたことを信じたからです。彼はイエス・キリストのすべてを信じるものとなったのであり、つまり、自分自身により頼むことをやめたのです。そう、これが奥義です――私たちが、惨めな自我に背を向け、自我に捕らわれることを辞めて、きっぱりとこう言い切ることです、『私はもう、お前とはかかわりはない、捻じ曲がった自我よ。私は、自分の全てをイエス・キリストへと委ねる。自分を引き渡すというこの大きな一歩を、踏み出すのだ。』イエス様は決して、このような人を失望させません。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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