2020年4月26日日曜日

【Daily Open Windows】4月26日

四月二十六日

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(ヘブル四・九)

多くの読者には、ずっと昔、来た道に戻り、また、広く漠然とした世界に出て行くかのように聞こえるでしょうが、私たち、キリスト者は、自分たちのキリスト教と絶えることなく対峙し、その挑戦を受けていると、私は言いたいと思います。私たちの多くは、まだ、本当にキリスト信仰の中へと入ってはいません。どういう意味でしょうか?まずひとつは、キリスト信仰に入る扉とは、まさしく、休息の扉であり、それは、信仰が与える休息であるということです。主がこの事実を、非常に単純な言い方の中に、この訴えを込められた御言葉がこれです――『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ十一・二十八)。群集に向けられたこのことばは、救われていない人たちに福音を伝える中で、よく用いられるものです。主がこのことばを用いられた意図とは、このヘブル人への手紙の中で語られています。それは、広く理解されているように、『わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』という単なる招きのことばではなく、そこには、はるかに深く、豊かな意味が込められています。『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』(ヘブル四・九)というこの一文には、私たちが聴き取り、見抜かなければならない何かが隠れているのです。


私の考え方が単純すぎるとは、あなたも思わないでしょう。この心の休息、信仰にある休息という問題は、今も変わらず続いていること、いつでも、新しく湧き上がってくることを、私と同じように、あなたも心の中で認めているからです。私たちの多くに欠けているもののひとつが、この休息です。あるいは、別の言い方をすれば、私たちをはっきりと特徴付けるものとは、当惑、不安、疑念であり、それと真逆にあるのが、落ち着いた確信、静かな自信、そして、どんな時も、『心配はいらない、悩まなくてもいい、大丈夫だよ』と語ってくれる霊と態度と雰囲気です。私たちの強力な敵がいつも目論んでいるのは、こういったものを妨害し、打ちこわし、私たちから奪い、心をかき乱し、動揺させ、揺り動かし、困らせることであり、この敵は、私たちから休息を奪い、また、休息に入ることを妨げるためなら何でもします。この休息とは、信仰にある休息であり、ただ、全てに受け身となって、何に対しても関心を持たず、注意も払わないというだけの休息ではありません。注意を払わないこと(carelessness)と、心配ごとがないこと(carefreeness)とは全く違います。神の民のために、安息は残されており、誰にでも与えられており、今でも受けることができ、なおも存在していて、今も守られています――神の民のためにです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: