2020年4月15日水曜日

【Daily Open Windows】4月15日

四月十五日

私たちの資格は神からのものです。(第二コリント三・五)

私たちは、神の御手の下で、試練と試みの時を通りますが、そこで、誰もがこんなふうに言いたい気持ちに陥ります、すなわち、『主は私たちを求めていない、主には私たちなど必要ないのだ!』私たちは、全てを投げ出し、後はどうでもいいという気持になります。試みのもとで心も押し潰され、自分は役に立たないものと決めつけます。こんな人間のところに主が来て、召し上げることがあるとは、とても思えません。すっかり意気消沈したエリヤは、荒れ野へと逃れ、山奥の洞窟に隠れました。しかし、他のどこかに行かなければ、主が彼に手を差し伸べることはできなかったのです。『エリヤよ。ここで何をしているのか』(第一列王記十九・九)。人が絶望の中にある時、主は決して、そのもとに来て、新たな働きを委ねることはしません。『神は、あなたのすべてを赦してくださいますが、絶望だけは別です』(F・W・H・マイヤー、『聖パウロ』)――絶望とは、神への信仰を失うことであり、神は、信仰をなくした人と一緒に何をすることもできないからです。・・・・多くの主のしもべたちにあっても、その生まれつきの性質から、多くのことが成されますが、たいていは悲劇的な結果に終わります。パウロから生まれたものは、数多くあります。『パウロとは、生まれたときから何と偉大な男だっただろう。なんと深い知性を持ち、多くの訓練を重ね、何と大きな能力を持っていただろうか!』これは、全て事実かもしれませんが、しかし、霊的な困難に直面したとき、それが彼にとって何の役に立ったか、パウロに尋ねてみなさい。パウロはこう叫びます、『いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。』『わたしたちのこうした力は、神からきている。』(第二コリント二・十六、三・五口語訳)。パウロは、モーセと同じように、生命さえあきらめるほどの経験を通されました。彼は言いました、『自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした』(第二コリント)。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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