2020年4月4日土曜日

【Daily Open Windows】4月4日

四月四日

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです。(ピリピ三・十)

十字架とは、復活のいのちの終わりの場所でもあって、始まりの場所だけではないことを、はっきりと理解してください。他のことはすべて忘れても、これだけは覚えておいてください。主の十字架は、復活のいのちの始まりであると同時に、終わりでもあります、『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです。』多くの人がピリピ書三章を持ってきてはこう尋ねてきました、『なぜ、パウロは、キリストの死を最後に持ってきたのでしょう?どう考えても、反対にしたほうがふさわしいはずです――すなわち、「私は、まず、キリストの死と同じ状態になり、それから、キリストをその復活の力の中で知り、またキリストの苦しみにあずかることも知りたいのです」のように。』しかし、これは間違いではありません。この順序は、聖霊から来るものです。主の復活の力は、まずは死があったことを前提としていますが、よみがえりのいのちはまさしく、十字架へと導くものです。よみがえりのいのちの力の中にいる御霊は、常に、あなたたちを導いて、十字架へと、キリストの死と同じ状態へと引き戻します。死に属するすべてのものを排除するのが、主のいのちの最大の特徴です。まさしく復活の力こそが、死が絶えず打ち負かされる場所へと、私たちを引き戻すものです。


その場所こそ、主イエス・キリストの十字架に他ならず、そこでは、持って生まれたいのちは捨て去られるのです。だからこそ、パウロは、『・・・キリストの死と同じ状態になる』と言うのであり、これが意味するのは、死という土台が、途切れることなく、また、着実に取り除かれてゆくということであり、そして、前にも言ったように、これこそ、主との生きたつながりから結ばれる実です。あなたも、私も、自分の中の復活の力から完全に離れ、今、既に知っている主のいのちからも離れたうえで、キリストの死と同じ状態になるとしたら、前途はまったく貧しいものとなるでしょう。私たちの希望はどこにあるでしょうか?私たちの生活の中で、主の十字架がより明白な現実となるとき、生き抜く力を与えてくれるものは何でしょうか?主の復活のいのちが私たちの中にあるということでなければ、生き抜くことなどできないでしょう。だからパウロは祈ります、『私は、キリストとその復活の力を知りたいのです』・・・・そして、これが意味するのは、滅び去ることなく、主の死と同じ状態になることです。よみがえったいのちが行き着く先は主の十字架です。聖霊はいつでも、主の十字架との関わりの中で働きますが、それは、主の復活の力が、私たちの中で、ますます明確に現されていくためです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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