2020年4月2日木曜日

【Daily Open Windows】4月2日

四月二日

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍びました。(ヘブル十二・二)

十字架での受難は私たちが解放される道です。そして、自分が通ってきた霊的な経験のことを考えれば、神と歩いた経験を持つあなたなら、深く耐えがたい苦しみの時を通してこそ、自分が新たな解放、霊的な生活への新鮮な解放を見出したことをよく理解しているはずです。そうではありませんか?そうです、私たちは、霊の苦しみ、たましいの苦しみに責めさいなまれる時へと進んでいきます。私たちは、主が何をしているのか、それによって何を意図しているのか、何を求めているのかを知りませんが、自分たちが経験していることの意味を知っているし、自分が受けている苦しみとは何か、そして、それがこれから続くことを理解しています。私たちはもちろん、それをやめていただくよう、早く終わらせて、そこから解放してくださるよう、主にお願いします。主は、私たちのことを心にもとめません。そして、別の出口から逃げ出した人たちだけが、こんなふうに言います、『神が、気にもとめなかったことに感謝します。』初めのうち、私たちは、主をただ優しく、善であり、正しいことをするお方であると考えていますが、御手の下で生きていくにつれ、私たちは、主が何かに手をくだしていることに気づき、それを感じ始めます。主は、例えば、私たちの高慢、私たちの独立心、私たちの無責任さを正そうとしているのかもしれません。このような問題は必ず持ち上がってきます。そして、私たちは、自分のことで正気を失いそうになるほど問題に、次々に直面しています。私たちの中にあるこの問題がこれほど強かったことを、これまでは、まったく信じていなかったでしょう。ああ、私たちはもちろん、この問題が、広い意味で全ての人間の中に、そして、人類の一員としての私たちの中にもあると信じる気持ちは持っていました。そう、私たちには高慢さ、あるいはそれに似た性質があると言われても、腹を立てはしなかったでしょう。しかし、その性質がどれだけ深く根を下ろしており、どれだけ恐ろしく強いものかということは、火のような試練にあわされて、生活の全てが行き詰ることがなければ、とても信じられなかったはずです。そして、私たちは、生活と神への奉仕の全てが、そこで行き詰ってしまったのを見たのです。・・・・主が目指していたのは、私たちがかつて思っていたように、私たちを打ちのめすこと、全てを失わせることではなく、成長を引き起こすこと、解放を引き起こすことであると、私たちはよく知っています。そして、解放とは常に、主の十字架、主の受難から延びる道の上に置かれています。成長はいつでも、この道の先に横たわっています。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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