2020年5月2日土曜日

【Daily Open Windows】5月2日

五月二日

・・・責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第一テサロニケ五・二十三)

神は、私たちの意志も、私たちの考えも、私たちの心も、決して取り去ろうとしないことはご存知でしょう。中には、神が現れて、自分がすべき選択を肩代わりしてくれ、また、何を望むべきかを決めてくれ、また、すべての決断を行ってくれることを期待する人もいますが、そのような人たちは、自分を哀れで、神につまみ上げられて、神が望み、神が意図するところに放り込まれるだけの者と考えています。神は決してそのようなことをしません。主は、人間らしさというものを作り上げます。もし私たちが霊だったら、どのように振る舞っていたか、私にはわかりませんし、なにも意識しないで行動するのかもしれません。しかし、そうではありません。神が造られたのは、合理的な心を持った存在です。霊、たましい、からだという三つで一組の要素は、アダムの中にはなく、キリストにあって、初めて現れるものです。神は、キリストの心を作り上げようとしています。主と同じように考え、判断し、理解する心です。そして、主の思いを知るとき、それが自分自身の生まれままの心の思いとはまったく違うことに、私たちは気づきます。そして、生まれたままの心から出てくる思いは、あらゆる面で的外れなもので、完全に断ち切るしかありません。これが、霊的な理解、御霊の思いです。同じことが、私たちの感情、私たちの欲望にも当てはまります。こういったものが、私たちを道に迷わせることもあります。キリストの中には、私たちの心に着せる新しい衣が揃えられていますが、私たちは、主とともに立ち、主から来るもの中にいることが、常に求められています。受身であることが、もっとも大きな害となることもあります。よみがえられたキリストのすべての価値において、そのよみがえりのいのちを受け取らなければならず、これは、考え、心、意思が必要なのと同じくらい、霊、たましい、からだが必要とされるからです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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