2020年5月7日木曜日

【Daily Open Windows】5月7日

五月七日

人にはできないことが、神にはできるのです。(ルカ十八・二十七)

全てはこのひとつのことにかかっています。すなわち(見かけどうりに単純なことですが)、もしキリストが臨在すれば(それは神が臨在するということに他なりません)、その瞬間には、何でも起こり得るということです。あなたはいつか、人生がもっと良くなる日が来ることを信じて待っているのでしょうか?その日が来るかどうかは、決して時間の問題ではなく、主の問題なのです。主は言われます、『わたしは、同時に、時間であり、永遠でもあるから、あなたは、時間に縛られることは、何ひとつ受け入れなくてもよい。わたしを受け入れなさい。そうすればあなたは、朝には、ほとんど死人のようになっていながら、一日が終わる前には、完全に生きかえることもできるのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。」』マリアは言いました、『私は、終わりの日に、主がよみがえることを知っております。』彼女にとって、よみがえりとは、ある時間が来たら起こることでした。ああ、違います。よみがえりは、すぐそこにあったのです。・・・


パンを割くために求められることとして、あなたは種まきから、刈り入れまでを行ってきました。『「あなたがたは、刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月あると言ってはいませんか」(ヨハネ4:35)。わたしはここにおり、そして、わたしがここにいるとき、刈り入れはいつ始まっても不思議ではありません。』それは、特定の時間、状況によって始まるものではありません。私たちが向かい合っているのは神であり、神は、人間の生活の中にある何物にも、一切、束縛されません。永遠は、神が臨在されるどの瞬間にも宿っています。主が臨在されるときは、すべてのものがその瞬間と固く結びついています。

百人隊長は、『ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直ります』と言いました。『あなたに来ていただく必要はありません。距離は問題ではないし、時間も問題ではありません、ただ、おことばをいただければ、それで充分です。』主は言われました、『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』ことばが与えられ、そして、それが起こった時間を、後で調べてみると、主が語られた瞬間と完全に一致していたのです。どのようなものでも、主が御手にとって、『わたしのとき・・・』と言われたら、先に延ばされることはもうありません。ああ、大切なのは、私たちがこの事実をしっかり掴むこと、この事実の上に生き、状況に屈することなく、人間的な観点から見て避けられないものだからといって決して屈服することなく、むしろ、こう言うことです、『私たちには主がおられる。主は私たちの未来である。主が私たちを取り囲むすべてである』と。主の臨在があるところ、いつでも、どんなことでも起こり得ます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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