2020年5月30日土曜日

【Daily Open Windows】5月30日

五月三十日

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、(ゼルバベルの手にある下げ振りを見て)喜ぼう。(ゼカリヤ四・十)

神の栄光の証しに組み入れられるということは、決して小さなことではありません。人からさげすまれることに、何か大切な意味があったかのように考えて、小さなことを行うことに誇りを持つべきでありません。しかし、同時に、神がご自身の栄光を示すために民を召したときはいつでも、その中に栄光のかけらもない者ばかりを選ばれたことにも気がつくはずです。


神はいつでも、道具として用いる者たちから、人間としての栄光を剥ぎ取ることにしてきました。エジプトで何一つ不自由のない暮らしをしていたモーセは、四十年間に渡って、砂漠の辺境をさまようことによって、すっかり空っぽになって、自分が全く役に立たないものであることを告白せざるを得なくなり、その後でようやく、神の栄光を現す道具となることができたのです。イスラエル人の中に、いまやへりくだる者となったモーセをさげすもうとする者がいたこともありましたが、自己弁護のためにモーセが立ち上がることは決してなく、疑念を持つ者たちに対しては、神のほうが直ちに、モーセをさげすむことがどれだけ間違っているかを示したのでした。神の栄光は、幕屋の入り口で現れ、困難を取り去りました。生活の中に主の栄光を表すことができるようにと、主は、私たちを徹底的に空っぽで、弱く、小さな者としますが、これには、何年もかかることもあります。しかし、この事実は、主が私たちに対してされることを説明してくれます。主が私たちを、十分に小さく、十分に空っぽな者とされると、そこで初めて、栄光のうちに主の御霊が働く機会が生まれます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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