2020年5月16日土曜日

【Daily Open Windows】5月16日

五月十六日

このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(コロサイ二・十九)

信者とは何でしょう?神の目から見た信者とは、その中にキリストが埋め込まれた者をさし、そして、神は決して、キリストを限定的なかたちで見ることはされません。神はいつも、キリストを絶対的な見方で見ており、私たちの人生の始まりにキリストが埋め込まれたときも、神は、ばらばらに分けて埋め込むようなことはしませんでした。神の考えとは、終わりが始まりとつながれていること、そして、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられることでした。回心は、それ自体が終着点ではないと言う理由はここにあります。それは、神の最終的な目的地に向かう第一歩に過ぎません。ここから、神が願っている信者の性質が分かります。すなわち、それはキリストにあるという性質です。人は、自分で、その性質を持つことはできません。教会においてある来訪者カードも、その性質を作り上げることはできません。男であれ女であれ、相手に、大きな決断をして、キリスト教の教理にある教えを心に受け入れるように諭し促すことによって、人をキリスト者に変えることはできないのであり、それは、たとえ、その教えが、主イエス様の人格や働きに照らして、完璧に真実であっても同じことです。


その個人の内側、その存在の真ん中に、キリストとの生きた一致、そして、キリストの居場所が存在しなければなりません。そうでなければ、すべてが偽の回心です。信者が持つ性質とは、その存在のちょうど真ん中にキリストが常に住まいながら、その主が自分の外側にまで現れていくように求めていることです。・・・

何か、本当に神だけから来ていることであっても、人間的な組織による手段や方法によって広げようとすれば、悲惨なほど絶望的な結果に終わります。必要なことは、それがただ、大きくなっていくこと、そこに存在することです。ああ、しかし、本当にそのようであれば、その何かは、力強く、何者にも砕かれることはなく、朽ちることもありません。キリストの道を遮ることができるものなどありません。そこに立ちふさがるのは、地獄と悪魔の活力を目覚めさせるものです。悪魔にとって、他のすべてのこと、教理、働きや職業などはどうでもいいことです。悪魔の側は、こういったものを大きな偽り、誤った解釈として用いることもよくあります。しかし、あなたは、キリストを呼び入れ、キリストを中に通し、キリストを認めてください。そのとき、あなたはこの宇宙の中でキリストに敵対する、あらゆる力と向かい合うことになります。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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