2020年5月15日金曜日

【Daily Open Windows】5月15日

五月十五日

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ一・二十九)

世の罪とは何のことでしょう?それは、高慢です。あなたは、そう思わないかもしれないし、気づいていないかもしれませんが、もう一度、思いを巡らし、罪と呼ばれるものの根源はすべて、高慢にさかのぼることができないか、罪とは、高慢がかたちを変えて表れたものではないかと、考えてみるようにお願いします。高慢の源とは何でしょう?高慢とは何でしょう?それは、自我がいのちを持って、立ち上がり、動き始めたもの――これこそ、高慢の根であり、その枝、そこから生じる実です――その実はどれだけあるでしょう!――妬み、貪欲、怒り、そして、その他たくさんの実が高慢から生じます。なぜ、怒りも高慢なのでしょう?そう、怒りとは、子羊の怒りのように聖なる、清められた、血で浄化された怒りではなく、私たち自身の思いと関心が突き動かす怒りであれば、それは自我の怒りです。私たちの怒りは、自分の利益や楽しみを脅かすものに対する自己保身や反発であることが、往々にしてあります。反抗心、頑迷さ、偏見、そして、私たちの恐怖の多くをたどると、高慢に行き着きます。私たちが恐れているものは何でしょう?何を怖がっているのでしょう?自分の恐怖を吟味してみれば、私たちはなぜ、恐れているのでしょう?個人的な関心から完全に切り離されていたら――すなわち、自分を全面的に主に明け渡し、自分の思いを完全に断ち切ることができたら――私たちの恐怖の多くも消えて行かないでしょうか?こんなふうに話しを続けていくことはできますが、とは言え、私たちは、風呂敷を広げて、人間の性質や高慢さについての分析に浸りたいとは思いません。ここまで、多くのことを語る中で、高慢こそが全ての根源であること、そして、この高慢という根源までさかのぼることができる産物も数えきれないほどあることを示してきました。・・・


主が、これまでして来たこと、また今もしているようなことを、なぜ、私たちにされるのか、ここで語ってきたことばが説明してくれますように――すなわち、それは、一方では、この邪悪なるものを制し、それに打ち勝って、外に追い出し、粉々にすりつぶすことによって、自分を満足させようという思いを葬り去るためであり、また一方では、主ご自身を与え、主ご自身を増し加えるためでもあります。おそらく、これは、ただ心に大きなひらめきを与えることばではなく、実に大きな重要性を持つことばであると、私は感じています。これは、私たちに個人的に当てはまることでなければなりません。そこにはまた、集団としての謙遜さもなければなりません。このような道に沿って、主はご自身を明らかにされます。主は、私たちの肉を養うため、生またままの命を成長させ、強めるものは、何もくれません。ここで述べてきたことで、主は私たちを安全な道にとどまるよう保ってくれます。このような見方で読めば、聖書は生きたものへと、実にすばらしく変わっていくでしょう!

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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