2020年1月7日火曜日

【Daily Open Windows】1月7日

一月七日


あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ十四章三十三節)

何ごとも、一度、完全に明け渡された上で、そこに十字架の印を押されてはじめて、本当の意味で、完成したということができます。あなたたちは、この印を受けていますか?それがすでに、神からあなたたちに与えられていても、私たち自身の中の何かが、神からいただいたものの姿を変えてしまうという危険が常に存在しています。私たちは、その神から与えられたものの中に、自分の思いを入り込ませ、それを自分のものに変えてしまいます。この自我!この肉!ああ、そうです、神が私たちに何かの役割を与えると、私たちはその役割にしがみついて、誰にも渡すまいとし、他の誰かが難癖をつけて、その役割を奪うのではないか、そう、私たちの働きに口出ししてくるのではないかと恐れるようになります。肉とは、そのようなかたちで湧き上がりますし、他にも、いろいろな方向へ、いろいろな関わりの中へと出てくるものです。神がまず、何かをなさり、私たちはその中に入るのです。私たちが、神の為される働きに加わるのです。


どのようなかたちにせよ、この肉というものは、神が奇跡によって行うようなことでさえ、その外に自分を置いておくことができません。私たちは、神がなされることを、自分の肉への賞賛とか満足へと転化させてしまいます。そして、神がくださるものであっても――あなたたちはおそらく、神がくださる別々のものを思っています――そのことが明白になり、確証が得られるのは、それが私たちにゆだねられ、死の烙印が私たちに刻まれたことを知り、また、それが、神のためにのみ、神に向かってのみ生きていることに気づくときです。そして、与えられるものが何であろうと、私たちはただ、このつながりの中で、神のために生きており、神に向かって生きています。十字架は、すべてにおいて、主にあるいのちの道であり、この十字架が、『これは、だめだ!』と言うものがあれば、それによって十字架は直ちに効力を失ってしまいます。そのようなものが再び現れると即座に、私たちは、そのいのちに立ち向かい、私たちはそのいのちを抑え込み、そして、そのいのちを制限します。私たちは、前進を阻むだけではなく、何倍にも成長させようとするう神の意図を、小さくしてしまう者です。なぜ、神は盛んになることができないのでしょう?この問いに対する答えは明らかで、ただひとつしかありません。すなわち、どうしたものか、神の業に人が取り込み、それを自分に向けてしまったのです。主の十字架は、遮るものなく、完全で、自由な道を神に与えるため置かれた場所に、保たれてこなかったのです。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

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