2020年1月19日日曜日

【Daily Open Windows】1月19日

一月十九日


わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ五・三十)

主の子供たちが学ばなければならない、もっとも難しい課目のひとつは、神のもとへと自分を向かわせることです。神の目的に沿った、正しい物事の中でさえ、アブラハムがイサクを通して学ばなければならなかった課目が必要なのです。その課目とは、神から与えられたもの、約束であれ、所有物であれ、神が賜ったものに執着しようという意思を持つことではなく、信仰によって、心穏やかに、恐れを持たず、主ご自身にすがることです。主から来たものを何か持っているとき、私たちは、主は、もっと大きな目的のためでない限り、一度、与えたものを取りあげはしないことを確信していられます。そして、一方では、主が、これは私たちのものだと定めたら、他の誰もそれを取り上げることはできません。しかし、神の贈り物や目的に関連しては、私たち自身の意思から生じる危険がいろいろとあることも確かです。


その危険の第一は、そのいただいた何かを自分のものにしてしまって、主の中に保たず、また、主のために用いないことです。これは、激しい行動や、内面的な反抗心へと導きます。次に、妬みが、時を待たずして、必ずその醜いかま首をもたげます。そして、妬みが生じると、それはすぐに、双子の兄弟である『疑い』と手をとって、兄弟姉妹との交流や、自然に生まれるべき交わりを壊してしまいます。妬みとは、自分が何かを所有していること、何かに関心を持っていることを、声高に宣言するものではないでしょうか?神から来るもののほんの小さな部分でも与えられていることが、どれだけ大きな誉れであるか、また、主の恵みがどれほど大きなものかを理解すれば、私たちは間違いなく、どれだけ遠く離れていようとも、主とつながっていることに、心から感謝するはずです。それからさらに、私たちが受け取ったものや、約束されたもの、また、主ご自身が自分のために備えられたと信じるものを、そのまま、まったき確信をもって、心の中に守り続けるとき、主は、私たちが、そのことで過ちを犯すことのないよう、助けてくださいます。神の子供にとって、自分に対する神の意思や神の道であると堅く信じていたものが、実はそうではなかったと気づいて、投げ出すしかなくなることは、誰にでもよくあるのです。そこに、自分の意志が入り込んでいた場合、それはひどく苦しい経験に変わり、苦々しさと不信という傷跡を残すでしょう。それでも、また、神から来ることの中で、自分なりの強い心と意思を働かせると、自分自身を自分に対する律法としてしまうことが、よくあります。すなわち、自分だけが、あることに対する神の御心を知っていると言う態度に陥ってしまうのです。そうなると、他の人たちも、同じことで主に導かれているかもしれないと考えることがなくなり、互いに助け合って主の導きを受けるという、神の家にどうしても必要なことが、くじかれ、麻痺してしまいます。

Daily Open Windows ―― T・オースティン-スパークス

0 件のコメント: